2章 安易な懺悔 - 3

 出会いから二年が過ぎ、カレンは新たな感情表現モジュールを試作するとともに、人工脳そのものを大きく見直すという大規模な研究に着手していた。

 カレンは学際的な研究プロジェクトを主導し、人工脳の各種モジュールのさらなる小型化に成功。これにより人工脳そのものの計算リソースが増大し、彼女が長らく取り組んでいたコンテクスト解釈の精度を飛躍的に向上させたのだ。

 そしてカレンの生み出したこの新しい人工脳は、五年後の現代においてドールに搭載される人工脳の基礎となっていく。

 どうして実用化に際して五年もの月日が必要だったのか。それは他でもなく、カレンの研究がカレンの死によって一時的に中断したからに他ならない。

 僕の卑屈さが、とうとうカレン・ウノという才能を、滅ぼしたのだ。

 その日、カレンは政府関係者らへ向けた新型人工脳の公開実験を行うことになっていた。

 彼女は少し緊張した面持ちで、分厚いガラスで隔てられた実験室へ、試作品の新型人工脳を搭載したドールたちとともに現れる。実験を視察しに訪れたオーディエンスに向けて、挨拶と実験概要を述べていく。その言葉や視線の一つ一つが、ドール研究の新たな局面の到来を確信する力強さに満ちていた。


「自信たっぷりってわけか」


 僕は政府関係者や各分野のドール研究者、企業のお偉方が集まる部屋の隅で、カレンの映るモニターを注視している。その視線は期待を込めたものもあれば、懐疑的な色を帯びたものも混ざっている。

 当時、カレンの取り組みは賛否両論と言えた。

 たとえば従来の人工脳と感情表現モジュールでは涙は哀しみと、笑顔は喜びと組み合わされる。つまりドールは哀しい時に笑ったり、嬉しいときに涙を流したりしない。この哀しみや喜びといった感情も量的に換算すれば〝一定〟であり、可愛がっていたペットが死んでしまった哀しみもドラマの録画をし忘れた哀しみも同じ動作、同じ表情によって表される。

 これは人からすれば異様に思えるだろう。当然だが録画のし忘れと大切なペットとの死別の哀しみは同じではない。だがドールの人工脳がその感情に至るコンテクストを処理せず、ただ反応としての感情を表現する場合、こうした微細な違いを表現することはできないのだ。

 これは技術的な問題もあるが、ドールに対して複雑な感情表現など不要だとする僕ら人間側の価値観も大きく反映されている。

 単にドールが人に近づきすぎることを忌避する見方だけではない。単純で分かりやすいからこそドールは御しやすいのであり、その複雑性を増すことは運用における不必要なリスクだと考える人々も一定数存在しているのだ。

 ドールはただの道具ではない。だがそれはドールが安全であるという前提あってこその理念だ。

 だがカレンは何が立ちはだかろうと止まらないだろう。

 彼女はたぶん、ドールや人の枠を超え出た、遙かに壮大なビジョンを持っている節がある。カレンにとってはこの世紀の飛躍的研究もただの通過点。こんなところでいちいち躓いたり、凡人の戯言に関わっているつもりはないのだろう。

 だがカレンは躓く。今日この場で彼女は失敗するのだ。

 そのことを、僕だけが知っている。

 カレンの隣りに立っているドールの脊椎部分にある補助脳にはたったの一行、他でもない僕自身の手によって不必要なコードが書き足されている。実験終了とともに、ドールがあらゆる制御を撥ね退けて実験室を駆け回るように。

 ただそれだけの悪戯。だが公開実験を失敗に終わらせるには十分だ。

 間もなく説明が終わり、カレンの解説のもと実験が開始された。

 僕らオーディエンスの手元には予め冊子が配られている。劇の台本だった。カレンはドールたちに演劇をさせることで、その微細な感情表現の出来栄えを披露するつもりらしい。

 演劇に限らず、あらゆる物語において、登場する人物たちの感情とコンテクストは切り離すことができない。僕ら受け取り手側は、彼らが直面する状況や生い立ちなどを読み込みながら、動作や台詞に共感や感動を覚える。

 そしてそれは演者にとっても同じだ。演者の作品に対する理解が作品の出来に直結していると言ってもいいだろう。

 ドールたちが演じ始めたのはオスカーワイルドの戯曲「サロメ」だった。

 オーディエンスに分かりやすいよう、有名な作品を選んだのだろう。僕は芸術にそれほど興味がないので詳しくは知らなかったが、他のオーディエンスの反応を見る限り、ドールたちの演技は上々のようだ。

 銀の皿に盛りつけられた生首に主人公の少女がキスをするクライマックスでは、魅入られた観客たちが感嘆の息を漏らしながら、実験室に向けて拍手を送っていた。

 かくいう僕も、気がついたときには演者が全てドールであるという事実を忘れていた。それほどに精緻で繊細な表現が、目の前で繰り広げられていたのだ。

 不気味の谷すら超える、人のそれと寸分たがわぬ感情表現。それはこれまで世界中の研究者が挑み、成し得なかった偉業が達成された瞬間だった。あるいはドールがまた一歩、人間に近づいた歴史的な一幕だった。


『ありがとうございます。以上が実演になります。これは先ほど説明した通り――――――』


 カレンが誇らしげに一礼して細く説明を始める。だがその栄誉はもう数秒ともたない。

 鳴り響いていた拍手はすぐにまばらになる。全員が注目していたからこそ、誰もがそのドールの異変に気が付いていたのだ。

 ドールが先ほどまでの繊細な感情表現が嘘のような大きな笑い声を上げた。それはもはや哄笑と呼ぶべきもので、聞く者の不安を否応なく煽る。続いて地団駄を踏んだ。まるで表情と身体が切り離されてしまったような奇行に、その場の全員が眉を顰めた。カレンの表情に焦りが浮かんだ。それを嘲るようにドールは突如として腰を落として駆け出し、正面―――実験室とオーディエンスを隔てるガラスへと加速した。

 さすがのドールと言えど、体当たりで強化ガラスを破ることはできない。だが哄笑を上げたまま走り込んでくるドールは、オーディエンスに恐怖を抱かせるのに十分だ。

 悲鳴とどよめきが波打ち、オーディエンスたちが慌てて避難する。

 カレンは即座にドールの人工脳を強制停止。しかし補助脳のコードで動いているドールは止まらない。実験が失敗に終わる不安。積み上げたキャリアが台無しになる恐怖。おそらく咄嗟の判断。あるいは反射的な行動だったのだろう。

 カレンはあろうことか、走るドールの進路上に立ち塞がった。


『止まってっ!』

「は? 何を――――――――――――」


 ドールは人を傷つけられない。だが一旦、加速した物体は急激には止まれない。

 僕の理解が追いつくまでもなく、ドールは大音声を響かせてガラスへと追突した。

 蜘蛛の巣状に罅割れたガラスに、ぬらりと光る赤い液体がぶちまけられる。悲鳴もどよめきも水を打ったように鎮まり返り、一瞬その場の時が止まっているのではないかと僕は錯覚する。

 だが止まった時は、ドールが遅れて停止して、潰れた肉塊とともに床に崩れ落ちる音によって強制的に前へと進められた。


「きゃぁぁあああああああああああああああああっ!」


 堰を切るように悲鳴が上がった。戦慄は一瞬で全体へと伝播し、観客側は狂乱に満たされる。


「うそ、だろ……」


 僕は逃げ惑う政府関係者らに突き飛ばされながら、罅割れたガラスの元へと向かう。途中、誰かが慌てふためいて振り回した腕が顔面に当たって吹き飛ばされる。鼻血が出た。僕はそれでも、ガラスの元へ向かった。


「なんで、だよ……」


 ほんの悪戯のつもりだった。いや、ほんの一瞬前までは悪戯で終わるはずだった。ちょっとした事故のはずだった。

 それなのに―――。

 赤で塗られたガラス越し、停止したドールの下敷きになっているカレンだったものを覗きこむ。破裂した腹腔からピンクの内臓が飛び出し、左脚は付け根からあり得ない方向に折れ曲がっている。

 僕は吐いた。朝食のハムエッグにかけすぎたケチャップのせいで、ひどく赤い吐瀉物が僕の服を汚した。

 ひとしきり吐いて、それから僕は自分を罰するように、変わり果てたカレンの姿をもう一度見やる。半分潰れて原型の無くなったカレンの顔が小さく痙攣しながら、僕を見上げていた。


   ◇


 カレン・ウノは死んだ。

 他でもない僕の卑屈によって。

 僕が殺したのだ。醜い嫉妬によって。


「当然ですが、誰が補助脳のコードを弄ったのか、調べれば分かることでした。僕は研究所を解雇されて逮捕……業務上過失致死罪で実刑判決を受け、その後の司法取引によって火星に連れて来られました」


 僕は全てを話し終え、深い溜息を吐いた。

 それは過去への後悔と、ようやく罪を吐露できた安堵のような感情が入り混じっていた。

 セッテは黙って聞いていた。受け止めてくれているのか、蔑んでいるのか、分からなかった。

 長い沈黙のあと、セッテがぽつりと呟く。


「ナナオは、カレン・ウノを愛していたのですね」


 僕にはひたすらに不可解だった。ドールが愛を語ろうとすることも。カレンに対する僕の気持ちが愛だと名付けられることも。


「どうして、そう思うんですか?」


 僕はセッテに訊ねる。彼女の深い色の瞳に映り込む僕は、酷くやつれた顔をしていた。


「……どうして、なんでしょう」


 セッテは首を傾げる。聞きたいのは僕のほうなのだが、言葉とは裏腹なセッテの無表情を見ているとそれ以上は訊ねられなくなった。


「……愛ではないですよ。醜くて卑しい嫉妬です。僕はカレンの才能に負け、自分自身の全てを否定したんです」


 セッテは何も答えなかった。ほんの微かに眉間にしわを寄せている気がしたが、きっと気がしただけだろう。代わりにセッテは僕に問いを向けた。


「ナナオは、地球に戻りたいですか?」


 僕はしばらく考えてみる。だが地球に残してきたものなど仲の悪い両親くらいのものだった。考えるまでもない。


「僕はこれでもけっこう、火星での生活が気に入っているんです。地球に比べれば不便な部分はありますが、ここで生きる人たちはひたむきで美しいです」

「青いは、美しくない?」

「青い……ああ、レイリー散乱のことですね」

「レイリー散乱?」

「地球が青い話ですよね?」


 セッテはこくりと頷く。殊更に真っ直ぐな瞳が、僕へと向けられる。


「地球が青いのは空が青いからです。レイリー散乱と言って、空気中の微粒子に光が乱反射する。乱反射するのは波長の短い青色の光だけだから、空は青く見えるんです」


 僕は何かを期待されているような気になって、淀みなく説明を試みる。だが当然のようにセッテは首を傾げている。


「地球には、光がたくさんあるんです。空も海の水も全て、青くしてしまうような光が」

「今ちょっとだけ、ナナオは面倒くさいと思いました」


 セッテが言う。不満そうなのにやはり無表情で、僕はなんだかおかしくなってくる。最初抱いていた緊張感はほどけ、自然と気安い言葉が口を突く。


「セッテさんは地球に興味がおありですか?」


 僕が訊ねるとセッテはゆっくりと目を閉じた。見たことのない、見ることの叶わない地球の風景を想像しているのだと、遅れて気づく。

 最初はあれほどに来るのを嫌がっていた娼館だったが、こうしてセッテと話すのは悪くない気分だった。もし次来ることがあるならば地球の写真でも持って来ようかと僕は考え、当たり前のように次を考えている自分自身に笑みが溢れた。

 やがてセッテの頬を、一筋の涙が伝う。それは限りなく澄んだ透明の雫だった。


「セッテさん……?」


 僕は戸惑った。戸惑うと当時、頬からあごへと流れた雫に思わず見惚れていた。

 セッテは閉じたときと同じようにゆっくりと目を開く。潤んだ瞳は真っ直ぐに、僕に向けられる。

 僕は見入ってしまったことを誤魔化すように、妙に動きづらくなった唇を動かした。


「大丈夫、ですか……?」

「分かりませんでした」

「分からない?」

「地球、よく分かりませんでした。それなのに―――」


 セッテは僅かに膨らんだ胸にそっと手を添えた。そこに詰まっているのは人工筋肉と音もなく動く駆動系だけだと言うのに、僕は確かに、彼女の鼓動を感じた気がした。


「―――それなのに、不思議です」


 平坦な調子の、だが僅かに掠れたセッテの言葉に、あるいは澄んだ涙に、僕はハッとする。

 セッテはこの娼館の外に広がる世界を見たことがない。火星の赤も、地球の青も、何一つとしてその瞳に映ることはない。セッテにとってこの薄暗いピンクの部屋だけが世界のすべてなのだ。

 僕はただ一つの目的だけに生きて死ぬドールの在り方を美しいと思っていた。

 単純で明快。誤謬のない生き方に羨望さえ抱いていた。

 だけどセッテは―――。


「セッテさんは、ここから出たいんですか……」


 ほんの僅かに掠れた声は示している。

 想像さえできず、それ故に興味があるのかも分からない地球を想って流れる涙が表している。

 ドールは感情を抱かない。それはドールが願望を抱かないということだ。

 だけど目の前にいる、カレンと瓜二つのセッテは今、確かな願いをその胸に秘めている。僕はそう思った。あり得ないと知りながら、そうであってほしいと思った。


「出たいは、よく、分かりません」


 言葉にはできない。分からないのだ。ドールはそういう風に造られていないから。閉じた世界のなかで閉じた人生を終えるためだけに造られているから。

 僕はこの胸に感じる、詰まるような感情の正体を理解した。

 彼女が僕へ向ける真っ直ぐな眼差し。その縋るような視線が、あの雨の日に突き離したカレンのそれと重なったのだ。

 気が付くと、僕は僅かに震えているような気がする彼女の手を取っていた。

 あの日鋭い言葉で突き放し、背を向けてしまったカレンの叫びに、今の僕は答えられるだろうか。

 きっと答えなければならなかった。

 身勝手なやり直しを望むわけでも、都合のいい贖罪を求めるわけでもない。

 ただ無性に、そうしなければならないと思った。

 そんな強烈な観念に駆り立てられて、僕は彼女の手を引く。彼女はよろめきながら立ち上がり、つぶらな目を少しだけ見開いて僕を見上げる。


「見に行きましょう。地球を」


 僕はセッテの手を引いて走り出す。掴んだセッテの手が、僕の手を強く握り返す。

 それだけで僕は、どこまでも走っていけそうな気分だった。


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