2章 安易な懺悔 - 2

 僕は落ち着いてから、セッテに自らの過去を告白した。

 それは同時に懺悔でもある。カレンそっくりのセッテに全てを話すことで、許しを得られるのではという安易で薄汚い心があった。


「僕は地球で、ドールの人工脳の開発に携わっていたんです」


 セッテは何も言わず、静かに耳を傾けてくれる。彼女が無表情であることも僕の口を滑らかに先へと進ませた。


「ドールに関わることを選んだのは、僕と似てると思ったからです。僕は人が何を考えているのか、何を感じているのか、そういうことが全然分からなかった。それはドールも同じなのに、あたかも理解しているかのように振る舞うことができる。もし完璧なドールを造ることができ、人工脳の全てを知り尽くすことができれば、僕もドールのように振る舞えるんじゃないかと、思ったんです」


 思えばそこから誤りだったのだろう。人の感情を理解しようとせず、表面的にやり過ごす術を求めた時点でこの陳腐な悲劇は始まっていたのだ。


「幸運なことに、……自分で言うのも微妙なんですが、僕は優秀な研究者でした。そしてカレンもまた、僕以上に、いや僕なんて霞むほどに優秀な研究者でした」


 カレン・ウノ。赤みを帯びたぼさぼさの茶髪と、すっと通った鼻筋が印象的な女性だった。高校生と見紛うくらいの幼い顔立ちのくせに、だが一度話せばその聡明さは誰もが認めざるを得ないほどで。彼女は出会ったとき既に、独自の理論によって感情表現モジュールを改良した研究者として権威を勝ち得ていた。

 彼女の生み出した感情表現モジュールは美しかった。

 僕は彼女の構築したそれを目の当たりにしたとき、そんな感想とともににわかに絶望を抱いた。この極致にまで、自分自身が辿り着ける想像ができなかったのだ。


「カレンは僕に言いました。〝人に興味がない、人から目を背ける貴方には、決して人の似姿であるドールを生み出すことなんてできないわ〟と」


 もう七年も経つのに、僕はその言葉を一言一句違わずに思い出すことができる。彼女のその辛辣な言葉は、棘のように僕の心に突き刺さり、それまでドールのように精密にあろうとしてきた心の歯車を少しずつ歪ませていった。


「天才ともてはやされた彼女……カレンは突出した才能ゆえに周りに理解されないことも多くありました。彼女の突拍子もない言動についていける人間がいなかったんです。そして誰もが、あいつは天才だから、という枕詞でカレンを一括りにし、離れていきました。カレン・ウノは過ぎた天才だったために孤独でした」


 僕は隣りのセッテをちらと見やる。セッテがこの話を聞いて何を思っているのか、その表情から察することは難しかった。僕は視線を自分の足元へと戻し、話を続ける。


「誰からも理解されなかった彼女が、一度だけ僕に本音を溢したことがあります。彼女は天真爛漫で傍若無人に振る舞っているように見えて、実際は普通の人間とそう変わらない、一人の女性でした。当たり前なんですけどね」


 思わずこぼれる乾いた笑み。

 きっとこのときに気づけたはずだった。いや、きっと気づいていた。それなのに、僕は彼女の苦しみに寄り添うことをしなかった。


「カレンの研究の原動力は、僕とは真逆―――人を知りたいという欲求でした。誰にも理解されず、カレンなりに苦しんでいたんだと思います。だからせめて、自分はあらゆる人々の、最大の理解者であろうとした。そのためにドールを、人の似姿を造る選択をしたんです」


   ◇


 今でも思い出せる。

 雨の日の帰り道。傘を差しながら二人並んで歩いた夜の街。

 別に仲が良かったわけではない。むしろ性格から研究へのアプローチからまるで真逆。年は近いが成果や名声には雲泥の差がある。僕らは犬猿の仲と呼ぶのが相応しいほどに険悪で、ひりつくような関係だった。

 この日もたまたまラボを出るタイミングが重なっただけ。エントランスの柱の影に立っている、帰り際のカレンと目が合っただけ。

 奇しくも駅までの方向が同じであった僕らは、ここでわざわざ距離を取るのも不自然だとお互いに相手を睨んで。

 僕は二日ぶりの帰宅だった。彼女は五日ぶりだと隈のくっきりと刻まれた目元に皺を寄せて笑う。


「どうして人には、感情なんて不合理なものがあるんだろうね」


 雨の音に紛れて、カレンの唐突な問いが耳朶を打つ。僕はわざとらしく肩を竦める。そんなもの、無くなってしまえばいいのにという言葉を呑んだ。


「さあね」

「それは感情の有機的なつながり、つまり共感が、私たちの本質の一端だからだと思うわ」


 カレンは自分の問いに自分で答える。いつもの癖だった。問いを口にしたときには既に思考は隅々まで回転しきり、答えを得ている。過ぎるほどに秀でた頭脳にとって、僕のような凡人との問答は既にある答えを凡人向けに翻訳するだけの作業なのだろう。


「というと?」

「貴方は、人間の本質は何だと思う?」

「興味がないね」

「でしょうね。いい? 人の本質は関係性。デカルトは自我こそ真理としたけれど、自我だけで人は成り立たないわ。自我と他我の交流、もっと広く考えれば自我と外世界との交流のなかに私たちの本質があるの」


 正直な話、僕は生理学や認知神経科学、工学などには明るいものの、この手の人文科目はからっきしだった。だから分かっているような雰囲気で、てきとうな相槌を打ち続けた。

 当時既に、ドールの機械としての身体性能は人間を超えており、精度の高い感情表現モジュールの開発が唯一にして最大の問題とまでされていた。

 感情表現モジュールとは、人工脳内部において人間が感情を抱いた際のニューロン発火を再現し、人工神経系を通して表情筋などの微細な動きに連動させる一連の仕組みである。

 そう言えば単純そうだが、ニューロンの発火現象とは実に複雑だ。発火の強度はもちろんのこと、脳が喜び一色の発火現象を催すことなどほぼあり得ず、常に複数の感情やその他動作などの発火と入り混じっている。つまり特定の感情だけを発火現象で括ることがまず困難なのだ。その上で表情筋の連動となれば、複雑さは数十倍に激しさを増す。

 簡単に言えば、口角が一センチ上がる笑顔と一.五センチ上がる笑顔の感情的な違いを科学的に明白しなければならない困難さがあるということだ。

 カレンが開発した感情表現モジュールは、この複雑なニューロン発火のカテゴリーと表情筋の連動をより複雑かつ詳細に行うことに加え、その感情表現に至るまでのコンテクスト解釈―――会話の流れや自他のメンタルバランスの考慮―――という新たなプロセスの処理を人工脳に行わせるというものだった。これは画期的で意欲的な試みだったが、人工脳の処理速度など問題点も多いのが現状だった。


「共感が私たちの基底にある以上、完璧なドールは感情表現モジュールの完成が必須なのよ」

「君はしばしばスピリチュアルな話に流され過ぎる。感情なんてものは所詮、脳内の神経物質のバランスだよ。だから脳さえ解明できれば、どうとでもなると思うけど」


 僕の棘のある言葉に、カレンはあからさまに眉を寄せる。


「だから貴方は凡人なのよ。独立した感情になんて意味はないの。喜怒哀楽について、セロトニンとノルアドレナリンの比率と受容体の活性度がいくら明らかになって、定式化されたところで、そんなものは感情とは呼べないわ。断言してあげる。ポイントは有機的な繋がりよ」

「定義が曖昧だ。科学的じゃない」

「学問の枠に囚われるほうが愚かよ」

「どうして共感をベースにすることにこだわるんだい? 感情が明らかになれば、あとはその組み合わせで共感なんて辻褄合わせできるだろ」


 僕はせめて舌戦で遅れを取るわけにはいかないと、尖った言葉をぶつける。なんと言い返してくるかと思い身構えていると、僕の予想に反してカレンは黙り込んだ。

 僕は内心で焦っていた。カレンがこの程度の言葉で自分の主張を曲げるなどあり得ない。まして凡人の僕の言葉だ。それなのに、どれだけ待ってもカレンは反論してこなかった。

 代わりに雨音に掻き消されそうなか細い声が、辛うじて聞こえた。


「知りたいのよ……。ううん、もっと近づきたいの、皆に」


 弱々しく震えた声は、孤独なカレンが必死な思いで絞り出した悲痛な叫びだった。

 だけど僕はそれを受け入れることができなかった。

 たぶん、僕より遥か先に進んでいる彼女が苦悩することなど、僕のちんけで卑屈なプライドが許せなかったのだ。


「皆の考えていることが知りたい。皆の思っていることを分かりたい。そして、できたら私のことも分かってほしい……。そう、思うのは、変じゃないでしょ?」


 いつもの自信に溢れる高圧的なカレンの姿はそこにはなかった。たった一人、孤独に傷ついた女性の面影だけが赤い傘の影から覗いていた。


「どうすれば異なる人が共感し合えるのか、それを知るための手掛かりがドールの感情表現モジュールなのよ。私はそのために、ただそれだけのために、完璧なドールを目指すの」


 見ていられなかった。カレンの肩越しに、彼女が抱く壮大な信念を垣間見た気がした。カレンにとってドールは単なる通り道でしかないのだ。

 だから僕はカレンを睨んで歩調を速めた。夜道には、雨音がやけに大きく響いている。


「君は自分の独りよがりな願望の主語を大きくして、人間はそういうものだと思い込んでるだけだ」


 眩い才能に背を向けた男の、醜い逃避と捨て台詞だった。


   ◇


「それから、僕の卑しいプライドはどんどん膨れ上がりました。天才と呼ばれた彼女が抱える苦悩の一端を、知ってしまったから」


 僕はこれまで以上にカレンを認めることができなくなっていた。僕と同様の孤独を抱え、それでも研究を通して立ち向かおうとする彼女を認めることは、僕の研究がただの逃避でしかないことを認めることと同義だった。そしてそれは、僕の生きてきた全ての否定だった。

 だが僕が認めるかどうかに関わらず、やがて僕の全ては否定されることになる。


「カレンの研究は着実に成果を残し、僕の研究はどんどん行き詰っていきました。僕のアプローチは間違っていることが、少なくとも現段階で何か実になることはない手段だと言うことが、カレンによって証明されていきました。もう僕には、何も残っていなかった」


 深いため息がメロウなBGMに溶ける。

 あのころの僕は本当にどうかしていたんだと、今は思える。

 黒く淀んだ感情に支配され、何も見えなくなっていた。これまで信じてきた自分の研究にさえ手がつかなくなり、毎日ラップトップのメモ帳に意味のない文字列を打ち込みは消し、消しては打ち込みをひたすらに繰り返していた。

 甦ってくるゾンビのような心の淀みを今の僕に感じ取ったのだろう。セッテは僕をじっと眺めていた。きっと哀れみ、そして心配しているのだろうと、僕は思った。


「それで、ナナオとカレン・ウノは、どうなりましたか?」

「カレンは死にましたよ。僕が殺したんです」

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