2章 安易な懺悔 - 1

 僕のぼんやりと明けた意識に、ほんのりと甘いミモザが香る。薄暗いピンクの照明に浮かんで色素の薄い女性の姿が見えた。


「……カレン、じゃない……?」


 よく似ている。それはもう瓜二つと言っていいほどに。だけど違う。そんなことは分かっている。カレンは死んだ。天国が地球の遥か頭上、遠くの空にあるとしてもきっとそれは火星ではないから。ここにカレンがいるはずがない。


「……肯定します。そのような識別名で呼ばれたことはありません。ですが、お客様がお好きなようにお呼び下さればよいかと」


 予想通りの平坦な声が返ってくる。後頭部には少し冷たく、だけど柔らかな感触。そこで僕は彼女の膝の上に寝ているのだとようやく理解する。同時に何故こうなったのか、曖昧だった記憶の断片がぴったりと噛み合う。


「す、すいません! ――――――あだっ」


 僕は急に恥ずかしくなって、慌てて身体を起こす。当然、膝枕をしながら僕の顔を覗きこんでいた彼女との額とぶつかった。

 鈍い音。

 僕は悶絶し、ベッドから転がり落ちる。なんて石頭なんだ。早くも僅かに腫れる額を擦る。


「あ、すぃ、すいません。頭大丈夫ですか? あ、いえ、そういう意味じゃなくて。あのっ、おでこ、ぶつかってしまって」


 僕は自分の額を擦りながら、ベッドの上に正座したままの彼女の額に手を伸ばす。眉にかかるくらいの前髪の下に手を滑り込ませ、そのつるっとした額に―――正確にはその中央に印字されたシリアルコードに目を奪われる。気まずくなって逸らした視線が、彼女の視線と重なった。


「あの……」

「す、すいません」


 僕は慌てて手を離す。彼女はドールなのだ。そしてもちろんドールなので僕がぶつかった程度で腫れたりしない。

 何より僕にはカレンそっくりの彼女に触れる資格などない。


「謝る意味がありません」

「そ、そうですよね……。すいません」

「また」

「ああ、すいません、じゃなくて、えっーと、その…………」


 結ぼうとした言葉は喉の奥で解けていく。どんな言葉を結ぼうとしていたのかは、よく分からなかった。

 沈黙が降りる。部屋にかかっている甘くエモーショナルなBGMが僕らの無言を埋めていく。

 僕は沈黙の間、何度か彼女を見やった。彼女は少し困惑した様子で、やはり伏目がちな視線で、ベッドの皺を眺めている。困惑も当然だろう。娼館に来ているにも関わらず、客の男は身体に触れてさえこないのだから。

 彼女は見れば見るほどカレンに似ていた。だが違うのだと、僕は自分に言い聞かせる。

 誰かがカレンの死を悼み、そっくりに似せたドールをオーダーした可能性も考えたが、すぐにあり得ないとかぶりを振る。カレンは天涯孤独の身だった。きっと僕だけが唯一の理解者で、同じ地平に立てる存在だった。それなのに僕の卑屈さがカレンを殺したのだ。

 ここ最近は上手く記憶の奥底に封じ込められていた過去を思い出すのは、きっとこのドールがカレンに似ているから。いやあるいは、トムの過去の傷と大きな夢を見せられてしまったからかもしれない。

 どちらにせよ、忘れてはいけないと、あの世のカレンに言われているような気がした。

 火星に連れて来られ、過去から逃げた気でいた僕は結局、どこにも行けてやしないのだ。


「泣いていますか?」


 不意に彼女が言った。僕は反射的に頬に触れる。濡れてはいなかった。


「泣いてませんよ。どうして?」

「そんな、気がしました」


 ベッドの上から、見るものを吸い込むような彼女の眼差しが向けられる。

 人間の社会で運用されるドールは、認識した表情筋の動きなどから人間の感情を推測できるし、人工脳に搭載される感情表現モジュールによってその場に適切な相手の求める表情を作ることができるようになっている。しかしそれは僕らが共感と呼ぶ営みとは本質的に異なる。ドールには僕ら人間と同じ意味での感情は存在しない。

 それなのに、深い哀しみを映す彼女に瞳に、まるで僕の心の全てが見透かされているような、そんな気分になった。


「嫌ですか?」


 僕が言葉を失って再び黙っていると、やはり彼女が口を開く。僕は首を傾げる。


「嫌とは?」

「もし私がお気に召さないのであれば、別の女の子にチェンジするよう申し出る権利がお客様にはあります」


 どうやら僕があまりに彼女に触れようと、―――娼館という場に相応しい行為をしようとしないせいで、彼女のプライドを傷つけているらしい。先ほど彼女の瞳に湛えられていたのは、そういう意味合いの哀しさだったのかもしれない。


「いえ、貴女が嫌とか、そういうことじゃないです。その、なんというか……貴女は十分すぎるほどに魅力的だと、思います。でも、今日は本当に、同僚に無理矢理連れて来られただけで―――」


 僕はもっともらしい言い訳を並べる。だが彼女の表情は晴れない。


「……そうだ。そうしたら、話し相手に、なってもらえませんか……? 話すだけ。僕は貴方と、話がしたい」


 灰色の髪のドールが首を傾げる。相変わらず困惑しているようだったが、僕も困惑している。自分でも何を言っているのかよく分からなくなりつつあった。


「話……?」

「そうです。話。ただベッドに座って、話すだけ。話すだけです」


 彼女はしばらく逡巡していた。娼婦という与えられた役割に対して、何が適切な行動なのか人工脳を回転させて解答を導いているのだろう。


「分かりました」


 やがて彼女は頷く。折りたたんでいた脚を崩し、ベッドの下に垂らして座り直す。僕は彼女の隣りに、少しの間を空けて腰を下ろす。部屋の照明がピンク色なせいか、あるいはベッド以外に何もないからか、落ち着かなかった。

 僕は羽織っていたブルゾンを脱ぎ、隣りに座る彼女の肩にそっと掛ける。


「…………これは?」

「あ、いや、その、寒いかなと思いまして」

「否定します。ドールは寒さや暑さを感じません」


 知っている。ただ薄いグリーンのネグリジェから透ける彼女の白い肌がやけに扇情的で、目のやり場に困っただけだが、そんなことを言えるはずもない。

 もちろんそんな僕の下品な気遣いを彼女が察してくれるはずもないのだが、彼女は黙って肩にかけられたブルゾンに袖を通した。明らかに大きいブルゾンは肩が落ち、袖の先からは彼女の細い指だけがちらと覗く。

 これはこれで良くなかったな、と後悔するも後の祭りである。


「…………あの、お名前は?」


 話すと言った手前、沈黙は心身に堪える。そう思って捻り出した話題はひどいものだった。

 いや何を話すにしても、名前が分からないのは不便だ。だから何もおかしいことはない。僕は自分にそう言い聞かせ、隣りに座る彼女の反応を伺う。


「……あ、いや、言いたくなかったらいいんですけど」

「セッテ」

「はい?」

「セッテ。それが私の識別名です」


 セッテ。僕は彼女が口にした識別名を心の中で繰り返す。


「だから〝7番〟」


 この部屋の扉には〝7番〟という札がかかっていた。確か数字の7はポルトガル語で〝セッテ〟と発音する。きっとこれは名前でも何でもなく、彼女がモノとして男たちに消費されていることを示す証なのだ。


「……間違っていましたか?」


 彼女が平坦な声音でそう訊ねてくる。問いの応答として、適切だったかと訊いているのだろう。

 僕は彼女が口にしたセッテという名前を、否定することはできなかった。それがたとえどんな意味を持つものだとしても、名前を否定することはこれまで彼女が生きてきたことを否定することに他ならないと思ったからだ。


「そんな、間違ってるだなんて。セッテさん。教えてくださってありがとうございます」


 僕が頭を下げると、彼女―――セッテは安心したとでも言うように小さく息を吐いた。


「あ、そうだ。人に訊いておいて自分が名乗らないのは失礼でしたね。僕はナナオ。ルイ・ナナオと言います」

「ルイ・ナナオ」

「はい。ルイ・ナナオです。てきとうにナナオとでも呼んでもらえれば」

「ナナオ」

「何でしょう?」

「………………」


 セッテはぱちりと両目を瞬きさせる。それが呼び名の復唱だったと気づいて、僕の顔からは火が噴き出す。


「す、すいません……」

「なぜ謝るのです? ナナオ」


 セッテは無表情で首を傾げている。僕は掌で顔を仰ぎ、苦笑いで誤魔化す。

 復唱を呼びかけだと勘違いしたなんて自意識の過剰は、慎ましく控えめに生きることをモットーとする僕からすれば恐ろしいほどの恥だった。


「ナナオは不思議ですね」


 セッテがぽつりと呟く。それは僕に向けられた言葉なのか、あるいはセッテの独り言なのか、僕には判断できなかった。逡巡した末、僕は応答することを選ぶ。真っ直ぐ前に向き直った色のない女性ドールは、ここで声を掛けなければ風に撒かれて消えてしまうような気がした。


「……不思議ですか?」


 セッテが再び僕へと視線を向ける。僕は気取られぬように、静かに息を呑んでいた。


「はい。不思議です。ドールは道具です。人は道具に謝りません。すいませんは、謝罪の言葉です」


 自らを道具だと、単なる事実を口にするような彼女の素っ気ない語り口には、だが確かに感じ取れる哀しさが滲んでいたような気がした。あるいは僕自身が、彼女が哀しんでいると勝手に解釈したかった。


「ここを訪れるお客様の多くは、道具である私を望みます。話すことも考えることもしない、されるがまま屈服する人形であることを望みます。だけどナナオは違います。話がしたいと言いました。それは不思議です」


 真っ直ぐに向けられる瞳は何かを訴えている気がした。セッテの瞳に見入られて、僕は胸が詰まるのを感じる。

 ドールは通常、ある目的のために作られ、その目的のためだけに生きて一生を終える。たとえばセッテであれば娼婦として訪れる客の欲望の捌け口として。採掘課のドールであれは山の斜面を掘り進めていく作業員として。

 そしてただ唯一の役目に殉じ続け、故障したり型が古くなれば廃棄処分される。火星のドールはそういう一生を、生まれる前から背負わされている。これはドールに搭載した人工脳が必要以上の学習を果たすことによって、人類の脅威となる可能性を事前に排除するための施策でもある。

 だからたぶん、セッテも多くのドール同様に、この娼館の外の景色を見ることなくいつの日か廃棄処分という終わりを迎える。

 厳しい環境下で懸命に生きる人々の営みも、ドームの外に広がる広大な赤の大地も、天を貪るように聳える山々も、果てのない漆黒を湛える峡谷も、そしてこの惑星と科学技術で繋がれた青く煌めく惑星も、見ることさえ叶わずに、一生を終える。

 それはあまりに閉じた人生であり、閉じた世界だ。

 僕はそれを可哀そうだと思う。

 思う一方で、その完結された閉じた生涯を崇高なものだとも感じる。ドールの存在は何よりも理にかなっている。目的も到達点も不明で、無意味なしがらみに囚われてばかりの僕らの人生なんかより、よっぽどましだ。

 その感情の果てにもたらされた破綻を味わいながら、僕はそれでもドールに惹かれている。


「僕は、昔から変わっていると言われて気味悪がられてきましたから。セッテさんの言う通りです」

「不思議と、変わっているは同じですか?」

「だいたい同じです。僕はたぶん、人としては欠陥品なんですよ」


 自分でも驚くほどに、乾き切った笑みが漏れた。

 変わったような気でいた。火星に連れて来られ、トムや他の人間と半ば強引に関わらされるなかで、少しずつ変われたような気がした。

 だが本質は何も変わっていない。

 ドールがそうするように、僕は人の感情を真似て、それらしく振る舞っているだけの空っぽな欠陥品に過ぎないのだ。

 さすがのセッテも引いただろう。この僕が抱える黒ずんだ靄は、真っ当な人間の感情を理解するように作られているドールには到底理解し得ないもののはずだ。

 それなのに―――。

 僕の視界がふわりと揺らぎ、同時にミモザの甘い芳香が香る。


「……どうしたん、ですか」


 横から腕を引かれた僕は、セッテが広げた腕に抱き締められていた。柔らかく冷たい肌が僕を包み込んでいる。


「ナナオは泣いています」


 それは安易な受容ではなかった。僕の犯した罪を非難するような厳然とした冷たさと、引き裂かれそうな僕を包む柔らかさが共存していた。罪を犯したことを了承した上で、それでもそのままの僕でいいのだと受け入れられているような気がした。

 身勝手で都合のいい解釈であることは分かっていた。きっとセッテは与えられた娼婦という役割を全うしているだけなのだろう。娼婦とは、身体だけでなく心までも癒すのだ。


「泣いて、ませんよ」


 僕の声はひどく掠れていた。頬を一筋の雫が伝い、セッテの腕に落ちる。僕のブルゾンにじんわりと滲みが広がった。

 そこが限界だった。

 僕は声を殺して泣いた。カレンが死んだときも、火星に向かうシャトルのなかで遠ざかる地球を見ているときも、決して流さなかった涙を流して泣いた。

 セッテはその間ずっと、僕のことを抱き締めていた。

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