1章 赤い惑星 - 3
「っしゃぁっ! 二軒目いこうぜ、いこうぜぇっ!」
道の真ん中で、拳を突き上げたトムの腕を全力で下げる。よろめいたトムを支え、重さに潰されまいと踏ん張りながら深い溜息を吐く。
「もう二軒目さっき行ったから。何なら今の三軒目だから」
「おい、にゃにゃお、お前もまだいけるよな? いけるんだよな? いっちゃおうぜぇぇっ!」
トムが騒いでいる。もう僕の手には負えない。肩を組まれ、酒臭い息を吐きかけられながら、僕は後ろのワンフーに助けを求める。
「ワンさん……ほんと助けてくれませんか……」
採掘課の人間と談笑していた(一方的に話しかけられていた)ワンフーが頷く。僕を退かし、トムにも劣らぬ肉体でふらついているトムを受け止める。
「しっかりしろ。今のは三軒目だ。これ以上は明日に響く」
「ん、ああ、んじゃそろそろ締めにすっか」
「え、なんで……」
僕は唖然。さっきまで僕にしていた怠い絡みが嘘のように、トムはいきなり正気へと戻った。
僕が舐められているのか、ワンフーの醸す圧がそうさせるのか。おそらくどちらもだろう。
「私は遠慮する。いつも通り勝手に締めておけ」
「あいさ~。ワンさんは相変わらずお堅いことで」
ワンフーは踵を返すと振り返らずに手を振って去っていく。掴みどころのない人だな、と僕は夜風に靡く長髪を見送る。
「んじゃ、締め行こうぜぇ! 行ける奴は手ぇ挙げろぉっ!」
トムが後ろに呼びかける。三軒目まで付き合ってきた気のいい連中の半数くらいがノリノリで手を挙げる。どうやら強制ではないらしい。
僕は時間を確認する。さくっと帰れるならいいが、あまり遅くなるようだと明日の仕事に響きそうだ。
「なあ、トム、締めってどこか店に入るのか?」
「あ、ナナオ。お前は強制だぞ? なんたって今日はお前の歓迎会なんだ」
肩を組んでくるトムは歓迎会を強調するが、実際に行われていたのはそれを理由にしたただのどんちゃん騒ぎである。
「……分かったよ。それで、今度は何屋?」
僕はトムを引き剥がしながら訊ねる。ワンフーたちの口振りからすると恒例の締めなのだろう。
トムは引き剥がされるとすぐにまた僕の肩に手を回し、赤くなった顔を近づけてくる。猛烈な酒臭さを遠ざけるように、僕は顔を背ける。
「何屋だって? 決まってんだろ。飯は食ったし、酒も飲んだ。あとやることっつったら一つしかねえだろ」
含みを持たせた言い方に、僕は何となく良からぬ予感を抱く。そしてそういう場合の予感は、残念なことによく当たるのだ。
「ドールだよ、ドール。この奥にいい娼館があるんだ」
「しょうかん……し、娼館っ?」
「なぁに、心配すんな。お前の歓迎会だ、金は俺がもってやる」
「いやそういう心配じゃないんだが……」
どうやらさっき手を挙げずに帰った連中のほとんどは既婚者か、あるいはパートナーがいる連中だったらしい。そう言えばトムにもガールフレンドがいたような気が―――と考えて思考を止める。
既にがっちりと回された腕は、もう僕の力では引き剥がせそうにない。
「とびっきりの夜にしようぜ、ナナオ」
「…………はは」
僕の乾いた愛想笑いが夜の喧騒に消える。鼻の穴を膨らめて言ったトムに大人しく連行される以外に、僕の選択肢は残されていなかった。
◇
火星人口の男女比はおよそ八:二と言われている。
これは火星の労働環境が非常に劣悪であり、必要とされる仕事の多くが過酷な肉体労働であることに起因するのだろう。なのでドールによる風俗産業は火星において地球のそれとは比にならないほどに大きな需要を抱えているのだ。
「……とは言ったってなぁ。はぁ……」
僕は溜息を吐き、派手なピンク色であからさまに飾られた店内に視線を彷徨わせる。しかしどこを見ても、高価そうな額縁に入れられたきわどい格好の女性ドールの写真が飾られているので、目の行き場がない。ドールと言えど、顔のどこかにあるバーコードを除けば、その見た目は人間と何も変わらないのだ。最終的に自分のスニーカーの薄汚れた爪先を見ているのが、一番落ち着くということが判明した。
店に入るやトムや他の人たちは皆、手慣れた様子で希望のドールや好みのタイプを伝え、先に部屋に案内されて行ってしまった。もちろん僕は特にないと伝えた。そしてこのまま出口に引き返せるわけもなく、待合室には僕一人が残され、群れからはぐれた子羊みたいに縮こまっているというわけだ。
今すぐ帰りたい気持ちを抑えつつ座っていると、間もなく店の奥から黒服の男性ドールがやってくる。向けられる笑顔に、僕は引き攣った笑みを返しておく。
「お客様、大変お待たせ致しました」
とうとう来てしまった。僕は死刑台に向かうような重たい足取りで黒服の後に続く。三軒もはしごして摂取したはずのアルコールは全部汗になって吹き飛び、ほろ酔い気分は消え去っていた。
「こちらです」
〝7番〟と札の下がった扉の前まで僕を案内し、黒服が礼をして下がる。扉は自動式らしかった。
やがて扉がゆっくりと開く。僕は変な汗をかいている拳をぐっと握り、決死の覚悟で個室へと踏み出す。
「お待ちしておりました。お客様」
入り口のすぐ脇に、膝をついて座る女性ドールの姿があった。彼女は丁寧に三つ指をつき、深々と頭を下げる。ゆっくりと上げられた彼女の伏目がちな顔を見下ろして、僕の心拍数は急激に上昇していく。
絹のようにきめ細やかで、透き通るような白い肌。すっと通った鼻筋に僅かに張った頬骨。どこか陰鬱そうな雰囲気のある奥二重の眼差しに、ぷっくらと膨れた薄紅の唇。髪こそドールらしい薄灰色のロングヘアーだが、その面立ちを僕が見紛うはずがない。
「……お客様?」
そのドールが僕を不思議そうに見上げている。表情はない。だが僕には彼女の感情が、確かに感じられた気がした。
血の気が引いていく。心臓は肋骨を軋ませるような強さで脈打っているのに、血は全くと言っていいほど身体を巡らず、全身が凍りつくように冷えていく。恐ろしいほど寒かった。それなのに額も背中も、噴き出す汗がTシャツを張りつかせた。頭の奥で甲高い鐘の音が響き、視界がぐにゃりと歪んでいく。
少し、調子に乗ってお酒を飲み過ぎたのかもしれない。下戸ではないけれど、特別に肝臓が優秀というほどでもない。
腹の奥底から湧いたどす黒い感情が、僕の世界を塗り潰していく。
「カレン、生きていたんだね……」
震える声で呟いて、僕の意識は闇の底へと落ちていった。
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