1章 赤い惑星 - 2

 僕らはワンフーやドールの皆が作業している場所から小型機動車ピッコロを拝借し、トムの運転でどこかへと向かう。

 どうやらワンフーたち採掘課の面々はトムの一〇年とやらを知っているらしく、言い訳のしようがないサボりにも関わらず、すんなりと小型機動車ピッコロを貸してくれた。


「……で、どこに向かってるの?」

『いいから、空見とけ。酔うぞ』


 言っている傍から膝の高さくらいの地面の隆起に乗り上げ、小型機動車ピッコロが大きく跳ねる。


「うっぷ……」

『ほら言わんこっちゃない。ヘルメットのなかで吐いたら悲惨だからな?』

「分かってる……」


 僕は必死に空を凝視する。ワンフーの言う通り、いくらか気分は紛れるが大きく車体が跳ねたり沈んだりするたび、僕は込み上げる嘔吐感を必死になって呑み込む必要があった。

 もしこれで見せたいというものがろくでもなかったら、絶対にトムを呪ってやる。

 僕の孤独な戦いと心のなかの恨み言も知らず、トムはハンドルを握りながら口笛を吹いている。


   ◇


 小型機動車ピッコロを走らせること三〇分。トムがブレーキを踏む。減速した小型機動車ピッコロは地面の沈みに引っ掛かって急停止。がくん、と車体がつんのめる。


「は?」


 助手席に座って空を眺め続けていた僕の視界がぐるりと回る。


『おいっ! ナナオッ!』


 トムの声がする。ゆっくりと回転する僕の視界に、赤茶けた地面と小型機動車ピッコロの運転席で顔を青くしているトムが見えた。そして―――


「―――あぐっ」


 僕は背中から落下する。停止の衝撃で小型機動車ピッコロから放り出されたのだと、遅ればせながら理解する。

 ここが火星でよかった。火星の重力は地球のおよそ三分の一。つまり僕の身体にかかった衝撃も、およそ三分の一に減衰されている。活動服アクティブドレスにも目立つ損傷はなし。打ちつけた腰はやや痛んだが、何かに支障がでるような痛みではない。


『大丈夫かっ? ナナオォーッ!』


 トムが遠くの方から跳ねてくる。まるで僕が死んだみたいな焦り方である。


「……うぅっ、ぐはっ」


 僕はトムをからかうべく、それっぽい呻き声を上げてみる。通信装置越しにトムが叫んでいる。


『おい、ナナオッ! しっかりしろぉっ! 死ぬな、死ぬんじゃねぇーっ!』


 トムは目を閉じて横になっている僕の身体を揺する。ヘルメットをガンガン叩く。やめろ。そっちのほうで壊れそうだ。

 さすがに可哀そうになってきたので僕は目を開ける。トムは相当焦っているのか、気付かずに僕の身体を揺すっている。


『ナナオッ、俺がお前を死なせはしねえっ! 待ってろ、今心臓マッサージを―――』

「ありがとう。もう起きてる」

『…………。ナナオ?』

「起きてる、というか最初から大したことないよ。ごめん、からかった」


 僕を見るトムの時が止まっていた。


『―――――――――――――――――んだよっ、本気で心配したじゃねえかっ!』

「ごめんごめん。面白かったでしょ?」

『面白いわけあるかっ!』


 そんな意味のないやり取りをしながら、僕はトムの手を借りて立ち上がる。めいいっぱいふざけたせいか、あるいはアドバイス通り熱心に空を眺めていたのが功を奏したのか、乗り物酔いはそれほどひどくはなかった。


「それで、トムの見せたいものって?」

『ああ、そうだったな。こっちだ』


 僕はトムの先導で歩き出す。ここからは小型機動車ピッコロでは入り込めない場所―――峡谷の下らしい。

 トムは例のバックパックを背負って、軽やかな足取りで斜面を下りていく。重力が弱いと人はこうも軽快に動けるのだな、と僕はトムの後ろ姿を見ながら思う。そして思うだけ、僕は転ばないように注意を払いながら後に続く。


「そろそろ何があるか教えてくれてもよくないか?」

『見てのお楽しみだ。ナナオ、お前びっくりして引っくり返るぞ』

「もうさっき引っくり返ったよ」


 軽口を交わしながら、僕らは比較的平坦な場所へと出る。上を見上げれば崖が反り立ち、薄桃色の空を狭めている。もちろんここが最も深い場所というわけでもなく、地面の淵まで進めば果てのない深淵が足元に広がっている。


『こっちだぜ、ナナオ』


 トムに呼ばれ、僕は突き出した岩の反対へと回る。間もなく見えた、鎮座する巨大な構造物に僕は言葉を失った。

 組み上げられた鉄骨に堅固な土台。その上で圧倒的な存在感を醸すのは、どう考えてもロケットに接続されたシャトルだった。


「……まさか、これを君一人で?」

『おう、一〇年もかかっちまったし、随分と小せえけどな。あ、でも一応二人まで、有人で発射できるぜ。ちなみに飛ぶかどうかは半々だ』


 トムは恥ずかしそうに、だが得意気に笑いながらバックパックを下ろしている。どうやら中身はロケットに使う部品や工具だったらしい。


「小さいって、五〇メートルはあるだろ。こんなもの、一人で造れるものじゃないよ」


 僕は未だ唖然と、聳えるロケットを見上げている。トムは特に優れた整備士だが、それでもたった一人でロケットを造り上げてしまうなんて、僕の理解のキャパシティーを完全に超えていた。


『俺よ、こう見えてもここに来るまではNASAのロケット開発チームにいたんだぜ』

「そうだったのか」


 トムの言葉で、僕は改めて思い出す。

 火星に行き着く人間の大半は、その身に、魂に、罪や傷を負っていることを。


『小さいころから、自分の設計したロケット飛ばすのが夢でよ。念願叶って開発チームに参加できるようになったんだが、チーフが糞野郎でよ。気が付いたらめちゃくちゃに殴ってた。あいつは一六針縫って、俺に残されたのはブタ箱か火星行き。んで、いじらしく火星まで来てロケットごっこだよ』


 トムは乾いた笑みで話を締めくくる。僕もそれ以上詳しくは聞かなかった。誰にだって忘れたい過去や触れられたくない傷がある。それは僕も痛いほどによく分かるから。

 だから代わりに今に目を向けた言葉を掛ける。


「どんな理由や経緯があっても、君がこのロケットをたった一人で造った事実は凄まじい。誰にだって出来ることじゃない。NASAも惜しい才能を放出したもんだ」


 言ってから、その薄っぺらさに吐き気がした。トムを称賛したいのは本心だ。だが過去を乗り越えた風の言葉で今に目を向けているかのような振る舞いには、どんな重みも存在しない。軽薄で、あまりに空虚だ。

 だからそんな言葉などトムには必要ないのだろう。トムはとっくに前を向いている。過去は過去だと割り切って、この火星で懸命に生きた結果がこのロケットなのだ。

 それでもトムは、僕に感謝の言葉を返してくれる。その懐の深さは、きっとこの峡谷よりもずっと深く、そして空の赤よりも遥かに眩い。

 たとえどんな過去を背負おうと、諦めきれなかった夢がある。人生は何度だってやり直せる。

 トムの笑顔はそんな残酷なメッセージを僕に突き立てている。

 だが僕は知っている。人生はそんな都合よくはいかない。喪失はどこまでいっても喪失で、過ちはどうやって償おうと過ちなのだ。


『ありがとうよ。だがな、ナナオ、知ってるか? ロケットは飛んでなんぼだ。ここにあるだけじゃただのオブジェと変わらねえ』

「飛ばす予定あるの?」

『ねえよ。そもそもこんなところに勝手にロケット造ること自体が違法だ。飛ばしたら一発でお縄。今度こそ行くところがなくなっちまうぜ』


 トムはわざとらしく明るく、笑い飛ばすようにそう言った。だから僕も笑っておく。きっと飛ばすとか飛ばさないとか、そういうことは二の次なのだろう。どうしても造りたくなってしまうほどに、トムはロケットに特別な思いを抱いているのだろう。


『そうだ、ナナオ。お前、今日は暇か?』

「……まあ暇だけど、何で?」

『お前の歓迎会してなかっただろ』


 トムの思いつきに、僕は目を丸くする。この行き当たりばったりの思いつきで人を振り回そうとするあたり、およそ独力でロケットを組み上げる凄腕の技術者とは思えない。


「……今更? もう半年も経ってるのに」

『時間なんて関係ねえよ。何人か他の奴らにも声掛けるからよ。な?』

「分かった。仕方ないから歓迎されるよ」


 僕はうんざりだよとでも言いたい素振りで肩を竦める。もちろん嬉しさと気恥ずかしさを誤魔化しているだけだ。トムの言う通り、時間なんて関係ない。歓迎してくれるという心遣いが素直に嬉しかった。


『よし、決まりだ。今日終わったらエントランスで待っとけ』

「了解。あんまり待たせると帰るからな」

『ったく素直じゃねえな。日本人ってのはどいつもこうシャイなのか?』

「アメリカ人が生まれつき横暴って話は本当みたいだ」


 トムが僕の胸を小突き、僕はトムの分厚い肩を突き返す。

 こういうのも、悪くはない。

 僕はトムに見えないように、口元を緩める。

 峡谷の隙間から覗く空が少しだけ、広く見えた気がした。

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