1章 赤い惑星 - 1
僕が短くなった煙草を携帯灰皿に無理矢理圧し込んでいると、人の気配がした。振り返れば同僚のトーマス・マイカが手を振っていた。
「よう、ナナオ。一本くれよ」
「残念。今ので最後の一本だった」
僕はシガレットケースを逆さにして振る。トムは残念そうに肩を竦め、紺色の作業着のチャックを首元まで上げる。
「外は少し寒いな」
「ああ。でも煮詰まった頭を冷やして休ませるにはちょうどいいよ」
僕は煙草の残り香を吸い込む。煙草は立派な嗜好品だ。地球よりは手に入りやすいが、火星では葉が育たないので値段も法外だった。冷静に考えればよくそんなものを気軽に貰おうとしたなと、僕はトムの横顔をまじまじと見つめる。
「それでどうだ? 慣れたか? 火星の環境は」
「んー、どうだろう。まだ昼間と夜の寒暖差は堪えるかな」
今度は僕が肩を竦めた。
火星の環境整備が始まっておよそ半世紀。開始当初の最大の懸念であった昼夜の寒暖差は大きく改善されている。具体的には火星の大気濃度―――特に二酸化炭素濃度を上げることにより、太陽光を吸収し、地表温度を向上させているらしい。もちろんそれだけで人が住める環境になるはずもなく、火星表面にネルガリウムという物質で構築した〝ドーム〟と呼ばれる半円状の巨大な空間を設け、内部環境を整備することでなんとか住める環境を保っている。
とは言え、現在でも日中の二〇度前後から夜中のマイナス三〇度近くまでの冷え込みは堪えるものがあり、防寒を怠った者から死んでいく現状は変わりない。
「まあ、ンなもんはじきに身体が追いついてくるよ。困ってることはねえか?」
「うん。今のところは。ここの皆もよくしてくれるしね」
「そうか。そいつは何よりだ」
トムは白い歯を見せて笑う。僕も笑みを返し、屋内へと引き上げていく。
火星環太平洋協定支配下第一自治州フォン・ブラウン地区。そのセカンド・ドーム内にある地下資源採掘センターの機材整備課。それが僕の職場であり、この火星での居場所だ。
地下資源採掘センターとは文字通り、火星にある地下資源の調査を行う開拓部門であり、大きな危険が伴う一方で一攫千金を狙うことのできる花形だと言えるだろう。もっとも僕の仕事は採掘に必要な機材の修理や整備を行う裏方であり、表立って活躍するようなことはない。
「そうだ、トム。ウフキル建設から申請があった多脚式大型クレーンの不具合の件、どうなった?」
「ああ、あれか。二番と四番の接続部の摩耗だったらしい。ただ負荷で動力系統もやられてたから、多少大掛かりな修理にはなりそうだな」
「そうか。任せちゃって悪いね」
「いいんだよ。そうでなくても、ナナオにはいつも世話になってる」
「ありがとう。助かるよ」
僕らは談笑しながら、シャフトを使って階下の格納庫兼作業場へと戻る。
サッカーのスタジアムくらいの広さはあるだろう、熱気の籠る広大な作業場には油の臭いと鉄の臭いが充満し、金属が擦れる音や誰かの怒号があちこちで飛び交っている。
機材整備課と言えど、集中力を欠いて一歩間違えればすぐに死へと繋がることに変わりはない。実際、僕がここに来てからの半年でこの作業場で二人は死んでいるし、最初に世話になった技術指導の先輩は左腕の肘から先が義手だった。
どうやら火星で生きていくというのは常に死と隣り合わせでいるということらしい。
「そんじゃ、行くか」
気が付けば、トムはいつの間にか大きなバックパックを背負っている。絶対にそんな荷物は必要ないのだが、一体何が入っているのだろう。きっとトムは学生のときの校外研修でゲームやら漫画やら大量のスナック菓子やらを持ち込むタイプだったに違いない。
「そうだね。荷物取ってくる」
とは言え、僕の荷物は必要最低限の工具のみ。仕事をするのだから当然と言えば当然だった。
僕とトムは地下駐車場へと移動し、採掘課のメンバーと合流。これからドーム外へ採掘活動に向かうのだ。
「今日はよろしくお願いします」
僕は一人一人に挨拶をして回る。機材整備課はドーム外の活動において不可欠だが、アクシデントが発生したときにしか活躍する場面がないので、比較的肩身が狭い。
「律義なもんだな」
トムが話しかけてくる。
「余計な波風を立てないのがモットーだから」
「とは言え、ドールにまで挨拶するのはナナオくらいのもんだぜ」
採掘課のメンバーの多くは頬や首筋、額などとにかく目に付くところにシリアルバーコードが印字されている。それはDesigned Autonomously Living―――ドールである証だった。
彼らは歯止めのかからない少子高齢化による労働人口の不足を補う名目で開発が進められた。既にその見た目や能力は人間と遜色ない水準にまで達している。人と異なり、犯罪行為などの特殊な場合を除いて命令通りの働きをしてくれる上、命の危険や疲労とも無関係なので、ドールはもはや社会を維持していく上でなくてはならない労働力だ。
事実、地球でも多くドールを採用している企業は多い。環境が劣悪な火星となれば尚更だ。何よりドーム外の活動において、
「昨日の夜に整備したから、その確認も含めてね」
「お前の目の下の隈はそういう理由か。全く変わりモンだな。誰もドールになんか気にも留めねえっていうのに」
「意外とそんなこともない。少なくともこの班のドールは他よりもだいぶましに扱われているほうだと思うよ」
そんな会話をしながら、僕らは火星探査特殊有人駆動機―――通称でヒートライドと呼ばれる―――に乗り込む。この巨大なダンゴムシにキャタピラをつけたような大型車輌はドーム外の極寒に対応すべく、完全な断熱機能を兼ね備えている。場所によっては長期の遠征も見込まれるドーム外の採掘活動において、ヒートライドは生命線だ。
間もなく遅れていた採掘課のメンバーがやってきて、僕らを乗せたヒートライドが出発する。
採掘活動には機材整備課を始めとする裏方部署も同行するのが通例だ。これは機材がアクシデントに見舞われた場合、現地で応急処置をする人間が必要だからである。
そして僕はあまりドーム外での活動が好きではない。
「おい、ナナオ。酔い止めは飲んだか?」
隣りで鞄から取り出したプロテインバーを齧りながらトムが話しかけてくる。
「飲んだ。でもどうせ酔うよ。火星は道路の整備が雑過ぎるんだ」
「軟なこと言うなよ。ほら、これでも食っとけ」
「いやいいよ。たぶん食べると吐くから」
車輌内が大きく縦に揺れる。加えてさっきから車体が右に少し傾いている。無論まだドームのなか。つまりヒートライドはまだ舗装された道路を走っているにも関わらず、上下左右に激しく揺れている。
「ナナオは三半規管の鍛え方が足りねえんだよ。なあ」
トムは採掘課のメンバーとも和やかに話している。もちろん彼の火星でのキャリアがもう一〇年以上に渡るベテランで顔が広いということもあるだろうが、トムの人当たりと面倒見の良さがそうさせるのだろう。
仮に機材整備課に三〇年いようと、僕にはできそうもない芸当だ。
「ルイ・ナナオだったか」
僕は正面に腰かけていた偉丈夫に話しかけられる。
後ろで束ねた長い黒髪に肉食獣のように鋭い双眸。タンクトップから覗く左肩から首筋、頬にかけては幾何学模様の刺青が彫られている。街で見かける破落戸とは異なる、静かで厳かな威圧感をまとう男だ。車輌内は相変わらず揺れているにも関わらず、この男だけはぴたりと静止しているようにさえ思えた。
「はい……。貴方はワンフーさん、でしたよね」
「ああ。そう呼ばれているな」
ワンフーは静かに言う。なんでも刺青が虎模様に見えることと、まさに王たる威風が呼び名の由来らしい。明確な序列があるのかは知らないが、どうやら彼は車輌内の採掘課メンバーの纏め役のようだった。
「そこに小窓があるだろう」
「え、ああ、はい」
「そこから外の景色を望み、遠くの空を眺めるといい。脳が感じる揺れが多少なりとも誤魔化せる」
太く鋭く響く声。僕は乗り物酔いの解消法をアドバイスされたのだと気づくまでに時間を要した。
「え、ああ。そうですね」
「吐くときは言え、俺が簡易便所まで連れて行ってやる」
ワンフーが凄むように言う。たぶんいい人なのだろう。僕はお礼だけ言って、簡易便所までの付き添いは丁寧に断った。
◇
結局、ドームの外に出るまでにすっかり酔った僕は、外に出てからすぐに吐いた。片道三時間の道程の、ほとんどの時間を簡易便所で過ごすことになったのは言うまでもない。
絶対に乗り物酔いなどしないドールが、心底羨ましく思えた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だったらこんなことになってないよ……」
「まあそりゃそうだ」
トムが背中を擦って介抱してくれる。
とは言えいつまでもこうしているわけにはいかない。今回の採掘活動の目的は水源の探索。既に予定されている掘削工程からは少しずつ遅れが出ている。
「ワンさんが休んでろってよ。まあ俺ら機材整備課はトラブルが起きるまでやることはねえし」
「でも、もう平気だ。たぶん歩ける」
僕は気合いを入れて立ち上がる。トムは僕の肩を支えてくれる。
僕らは
広がるのは、荘厳の一言では到底語り尽くせない景色。
赤茶色の大地が連綿と広がり、靄がかかったようにくすんだ薄桃色の空が覆い被さっている。目を凝らせば火星の周囲を浮遊する小惑星やデブリが見え、流星のように空を流れていく。大地は人を寄せ付けぬように隆起し、あるいは陥没し、人類の力など到底及ばないことを告げるような巨大な力を感じさせる。そして極めつけは―――。
『何度見てもデカい。これだけは慣れねえよ』
「ああ、本当にすごい景色だ」
トムと僕は
アスクレウス山。タルシス三山最大の火山であり、その推定標高はなんと一八一〇〇メートル。地球で最も高いエベレストの標高が八八四八メートルであることからしても、その規格外の高さを実感できる。
当然僕らの立っている場所からアスクレウス山の全容を、頂きを望むことはできない。あまりに高すぎる。しかしだからこそ、この火星の大地の偉大さを、そして自分たち人間があまりに矮小で取るに足らないという事実を、僕らは痛切に思い知らされる。
僕らはしばらくの間、景色の荘厳に圧倒され、やがてトムが口を開いた。
『そうだ、ナナオ。お前に見せたいものがあるんだが、いいか?』
「見せたいもの?」
『ああ。どうせお呼びがかかるまでは暇だし、俺らに出番なんてこねえほうがましだしな。俺が費やした一〇年が今日、完成するんだよ』
「はぁ、別に構わないけど……」
僕はいまいち要領を得ず、首を傾げる。トムは例の巨大なバックパックを片側に背負いながら、ヘルメットの奥で少年みたいな笑顔を浮かべていた。
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