ラブドール・アンニュイ

やらずの

序章

 ひとつ、ふたつ、みっつ――――――。


 上下に揺れる視界で、私は数える。

 薄暗いピンク色の照明の下。一つに重ねられる男と私。


 よっつ、いつつ、むっつ――――――。


 天井の滲みを、私は数える。

 その行為に意味はない。汗と精液の臭いがこびりついた小さな部屋で、私はただ時間が過ぎるのを待っている。


 ななつ、やっつ、――――――――――。


 視界に覆いかぶさる獣の影。私たちと似たような姿をした、人という獣の影。


「いいね、いいよ、その蔑むような目……」


 荒く生臭い息を吐きながら、男が前後に動く。動くたび、男の異様な熱さの体温が私を抉じ開けるように中へと入り込み、私のなかの私を執拗に突き上げる。

 私は何も考えられない。考えないようにして目を閉じる。

 生温かいものが私の首筋を這っていく。獣のような息遣いが耳元で響く。息遣いに混ざって、唸るような喘ぎ声が漏れていた。

 私は再び目を開く。今度は天井が見えた。


 ひとつ、ふたつ、みっつ――――――。


 自分の感覚から圧し掛かる男の重さを締め出すように、私は数える。


 よっつ、いつつ、むっつ――――――。


 男の動きが速さと激しさを増していく。私の首を、男の骨張った手が締め付ける。私は苦しそうに、ほんの少しだけ眉を顰める。すると私のなかで男の欲望がより大きく、固く、膨れ上がる。

 濡れた肌と肌が擦れ合う淫靡な音が狭い部屋を満たしていった。強く突かれるたび、私から何かが剥がれ落ちていく。何が剥がれ落ちるのか考えることはできなかったし、考えたところできっと分からないだろう。

 ゴキン、と音を立てて私の首の内骨格が折れる。


「ああっ、いいよ、いいよっ! ああっ―――」


 男が醜い声を絞り出し、私のなかに男の吐き出した熱が広がっていく。私は受け容れることも拒むこともなく、ただ無感動な器になったようにその様を認識する。

 やがて二回り萎んだ陰茎が私から引き抜かれる。圧し掛かっていた重さが私から離れ、何かが剥がれ落ちた分だけ軽くなる。ぬらりとした糸を引き、私からは白濁した欲望が溢れた。


「いやぁ、今日も良かった」


 ほんの僅かな油断。もう一度私の視界に覆いかぶさった男の舌が私の唇を嬲るように舐める。


「それじゃ、シャワー浴びてくるね」


 男は言って、脂肪の詰まったお腹を揺らしてバスルームへと消えていく。乱れたベッドの上で私はまだ、天井を見上げている。


 ななつ、やっつ、ここのつ――――――。


 私は数を、数えている。


   ◇


「またの逢瀬を心よりお待ち申し上げます」


 肌の色さえ透けるようなネグリジェを羽織った私は三つ指をつき、ゆっくりと礼をする。規則通りの三秒きっかり、頭を下げてからゆっくりと戻す。この火星では稀少価値の高い、シルク混の上等な生地で仕立てたオーダーメイドのスーツが見えた。

 男は舐るような視線を向けて屈み、私の耳元で粘つくような息を吐く。


「また来るよ」

「お待ちしています」


 男は去っていく。私はもう一度深く頭を下げ、男を見送った。

 入れ違いに室内清掃のために黒服がやってくる。裏から退出するよう促され、私は部屋を出る。

 ところどころ塗装の剥がれている通路を進む。壁には破れたり、色褪せたりした古いポスターが貼られている。黄ばんだ紙に印刷されているのは地球という人類の故郷らしい。

 私は突き当たりを曲がり、洗浄室へ。

 ちょうど同じタイミングで奉仕を終えたらしい同僚が二人、脱衣スペースでネグリジェを脱いでいる。向こうも私に気づいて一瞬視線を向けてくるが、私は小さく会釈をするだけで特に話しかけたりはしない。


「本当に人形ドールね」

「ちょ、やめなよ。聞こえるって」


 わざと聞かせているのだと、私は知っていた。

 人形DAUL―――。正式名称はDesigned Autonomously Living。世界中の企業や政府が開発した人型の半生体機械の総称である。その頭文字を取り、馴染みのある音韻になぞらえて、私たちは人形ドールと呼ばれる。

 そう、私たちは人形だ。各々が造り出される前から既に目的は決まっており、その用途を全うするためだけに生きる。

 だからいくら人形だと謗られようと、事実なのだから気にはならない。そこに単なる事実以外の意味が込められていたとしても、だ。

 私の反応が芳しくないせいか、同僚たちは私を知覚範囲から締め出して会話に戻っていく。


「あ、そうそう、聞いてよ。もう最悪だよ~。まじキモかったぁ」

「またあのどっかの社長のドラ息子?」

「そうそう。小さいくせして、何度もどう? って聞いてくんの。演技してるんだから静かにしてろっての」

「あーそれはキツいし、キモいね」


 直近の客を寸評して愚痴をこぼしながら、彼女たちは個室の洗浄ブースへと入っていった。彼女たちの会話は壁越しにも続く。


「でも、キャトル。次は例のあの人でしょ?」

「そうなの~。それだけが唯一の楽しみ~」

「彼、最近は全然うちのとこ会いに来てくれないんだけど?」

「別にいいじゃないの。彼は一応、私の顧客なの」


 私もネグリジェを脱ぎ、彼女たちが使っているところから離れたブースへと入る。一応の気遣いだ。部外者である私に、会話を聞かれるのはいい気分ではないだろうと判断した。

 歩いていて、不意に鏡に映る自分が目に入る。どうしてこんなところに鏡が設置されているのかは不思議だが、たまに他の女の子たちがこの前に立っているのを鑑みるに何か重要な意味があるのだろう。

 ここで働く女の子たちは皆、ドールだ。

 ドール専門の娼館。まだ環境の厳しい火星では女性の人口が地球に比べて少なく、働く男たちを慰める者としてドールが用いられることは少なくない。

 ウェーブした金髪と青い目が人気のキャトルも、少女みたいな見た目と褐色の肌がエネルギッシュな印象を与えるノインも、私と同じドールだ。

 同じドールにも関わらず、こうも表情や感性に落差があるのは、私の人工脳内の感情表現モジュールには製得的な不具合があるからだと、このお店で働き出すときに当時の管理者に言われた。

 そのせいで私は散々気味悪がられているのだが、嫌だと思うことも反抗的な感情を露わにすることも私にはできない。まず彼女たちにこうして気味悪がられることで、私が一体何を感じているのかさえ、よく分からないのだ。

 ブース内の所定の位置に立つと洗浄が始まる。周囲の壁から生え出るノズルから洗浄ジェルが塗布される。続いて洗浄液が噴霧される。恥部に挿入されたノズルからも同様にジェルが発射され、躯体内に残る精液を分子レベルで洗浄していく。

 私は目を閉じる。

 瞼の裏に、黄ばんだ紙に刻まれた褪せることのない青の惑星が浮かんだ。

 地球という惑星は、表面のほとんどを塩水で覆われているという。そのおかげであんな鮮やかな青色であるらしい。火星にも水はあるが、どれも透明だ。一体どれほどたくさんの水があれば、青く色づくのか、私には想像がつかない。

 間もなく洗浄が完了した。

 私はブースから出て、新しく用意された淡いグリーンのネグリジェに着替える。私が着替える間、鏡の前で談笑していたキャトルとノインにまた不気味な人形だと言われた。

 着替えを終え、私は部屋へと戻る。次の客を出迎えるためだ。既に室内は、さっきの黒服の彼の手によって塵一つ落ちていないまでに、完璧に整えられている。

 扉の上にあるランプが黄色く明滅する。客がもうすぐ来るという合図だった。

 問題はない。

 さっきもちゃんとできた。昨日だって、一昨日だってちゃんとやれた。

 また天井の滲みを数えていればいい。そうすれば客は勝手に満足して帰っていく。

 私は扉の斜め前に膝をついて座る。

 じっと、顔も知らない誰かの訪問を待った。

 間もなく扉が解錠される。私は規則通り三つ指をつき、ゆっくりとお辞儀をする。


「お待ちしておりました。お客様」


 私がお辞儀をしたあとの客の反応は、概ね次のいくつかに分かれる。

 そのまま部屋に入り、ベッドに腰を下ろす場合。

 私の音声に反応を示し、立ち上がるよう促す場合。

 いきなり私を押し倒し、扉が閉まるのも待たずに自分の服を脱ぎだす場合。

 だけど現れたその客は、その三つのどれでもなかった。

 部屋にも入らず、私の音声に反応を示すこともなく、私を押し倒すこともなく、ただ入り口に立ったままでいる。

 私は顔を上げる。

 客―――彼の見開いた目と視線が重なった。彼は驚いているようでもあり、恐怖を感じているようでもあり、あるいは懐かしんでいるようにも見えた。


「……お客様?」


 私はその不可解な反応に対応しかね、もう一度呼びかける。だけど彼は上の空で、少し間を置いてから震える唇でこう言った。


「カレン、生きていたんだね……」


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