3章 逃避行 - 1

「ナナオは、頭が悪いですか?」


 セッテが呟いたのは、路地裏に置かれたゴミ箱の影に身を潜めていたときのこと。

 僕は自分の顔の前に人差し指を当て、セッテに口を噤ませる。

 頭が悪いことなどセッテに指摘されるまでもなく分かっている。人の感情を侮り続けていた僕は、今まさにその感情がもたらした一時の衝動によって完全に身を滅ぼそうとしている。

 言わずもがなドールの扱いはモノである。そしてモノとして運用される以上、どこかの誰かに所有権が発生している。加えて言えばドールは一機数十万ドルを下らない高級品な上、その取扱いは極めて厳重な管理を必要とする危険物に指定される。つまり盗まれるなどした場合、多大な損失と責任問題が発生するということになる。

 そして僕が無断でセッテを娼館の外へ連れ出したのは立派な盗難。店側の通報によってすぐに治安維持組織である火星保安局が動員され、僕は追われる身となったのである。


「今すぐ返しに行ったら、許してもらえるかな」

「否定します。この場合、ナナオはドール識別番号46339028号に逃亡を教唆したと判断される可能性が七七パーセント。ドーム法第七六条によって禁固五年。さらには該当するドールの廃棄処分が遂行されます」


 セッテが淡々と人工脳に書き込まれたドールの運用に関する法令を読み上げる。四回やって三回罪に問われるならば、ほぼほぼ有罪は決まったようなものだ。

 それに元より引き返すつもりはない。

 僕が今さら五年も牢屋に閉じ込められたところで、正直なところ痛くも痒くもない。失うものは機材整備課の職くらいだろうし、何なら今すぐ宇宙空間を漂うデブリの仲間入りをすると言われたところで何とも思わない。

 だがセッテに関しては話が違う。僕の衝動的で軽率な行動のせいで廃棄処分される。そんなことが許されていいはずがない。

 それに僕には勝算がある。

 ドーム法、つまり環太平洋協定下火星圏立法は、火星のなか、厳密には環太平洋協定下のドームのなかで適用される法律だ。つまり火星から出てしまえばセッテを廃棄処分しなければならない根拠はどこにもない。もちろん僕自身は地球を追放されている身なので、地球に辿り着いても着かなくても、火星保安局に身柄を拘束され、牢獄にぶち込まれることは間違いない。

 だがそれはそれ。僕らの目的は実に明確だ。

 つまり保安局から逃げ回り、彼らに見つかるより先に火星から離脱する。

 これはたったそれだけの単純なゲームだ。


「ナナオは、私を捨てますか?」


 セッテが言う。どうやらさっきの弱音を真に受けたらしい。


「そんなわけないですよ。あれは冗談です。必ず、地球を見に行きましょう」

「…………」


 セッテは無言で頷く。嬉しいのか、はてまた呆れているのか、よく分からなかった。


「それじゃあ、ここからの作戦です」


 僕は最大限に声を潜め、セッテに向き直る。セッテも気配を殺す素振りを表現してか身体を縮こませ、僕の言葉に耳を傾ける。


「最終目標は地球に向かうこと。そのためにはまず、二つの惑星間を繋ぐ交通手段である軌道エレベーターを使う必要があります」


 こくり、とセッテの頷き。

 だがこれはあくまで一般常識の範囲。これから一蓮托生の逃避行に臨むのだから、僅かな齟齬さえあってはならない。こういうのは過ぎるほどの慎重さと、慄くような大胆さがものを言う。


「僕らがいるフォン・ブラウン地区の軌道エレベーターはファースト・ドームにしかありません。だからまず僕らはドームとドームを繋ぐブリッジを渡り、ファースト・ドームへ移動する必要があります」


 こくり。


「ですが問題が二つ。まずは保安局が既に動いているということ。見つかれば即アウトでしょう。偉そうに言うことではないですが、僕は走るのが苦手です」


 こくり、こくり。


「……そこはそんなに力強く頷かなくて大丈夫です。二つ目の問題はブリッジでの検問です。保安局が僕らを探すのにどれくらいの労力を割くかは分かりませんが、少なくとも検問の強化と人相書きの手配くらいはしてくるでしょう。つまり普通に渡橋するのは難しい、ということです。なのでブリッジを通過する貨物車に忍び込みます」


 こくり。


「とりあえずここまでを〈フェーズ1〉としましょう。その後はまた、タイミングを見て説明します。何か疑問点はありますか?」

「ナナオ、どうして私を連れ出しましたか?」


 セッテが口にしたのは、僕が立てた作戦への疑問点というよりも、この逃避行の核心を突くような問いだった。


「理由が必要でしょうか……」


 僕は答えを言いよどむ。だがセッテの視線は僕を逃がしてはくれない。

 当然だ。訳も分からず、出てはならない鳥籠から放り出された挙句、廃棄処分される瀬戸際に追い込まれているのだ。正当な理由もなく連れ出されたというならば、さすがのドールも不満の一つくらい抱くのかもしれない。

 それにそんな大事なことをぼかしたままにしておくのは、セッテに対してひどく不誠実であるように思えた。

 もちろん、理由がないわけではない。だがどう説明すればいいのかが分からなかった。懺悔。贖罪。後悔。同情。どの言葉を使っても当てはまるような気がしたし、どの言葉も的を射ていないような気もした。

 そもそも本当にセッテは地球を見ることを望んでいたのだろうか。本人すら認識できていない願望を、僕は勝手に解釈しただけじゃないだろうか。

 だから今の僕には、苦し紛れにこう答えるしかなかった。


「……僕の、エゴです。貴女に、地球を見せたいと思ったんです。なぜ見せたいと思ったのかは、分かりません。でも見せたいと思った。たとえ命懸けでも」


 僕は僕自身のエゴによって、セッテに危険を背負わせている。だから彼女のことは何としても僕が守らなければならない。


「分かりました。私は、地球を見ます。ナナオと一緒に」


 セッテが言った。それはかつて多くの客がセッテに股を開くよう求め、それに応えたのと同様に、単に僕の言葉に従っただけだろう。今はそれで十分だった。


「ありがとうございます。セッテさん、僕は何があっても、貴女に地球を見せると――――――」


 刹那、影が落ちていたはずの路地裏に眩い閃光が差し込んだ。

 浮かび上がるのはもちろん、ゴミ箱の影にしゃがんでいる僕とセッテの姿。


「いたぞっ!」

「こっちだっ!」


 鼓膜を裂き、心臓を殴りつけるような鋭い声。差し込む光は逆光になり、声の主の姿を隠していたが考えるまでもなかった。

 見つかったのだ。


「セッテさ――――――――――――」


 言いかけて、ものすごい力でセッテに腕を引かれた。

 ほとんど転ぶ勢いで立ち上がり、そのまま必死になって脚を回す。入り組んだ路地を、セッテは速度を落とすことなく駆け抜けていく。もちろんライトを持った保安官たちも追ってくる。しかしドールであるセッテの身体性能のほうが、たとえ僕という足手まといを差し引いても、保安官たちの追跡速度を凌いでいる。

 ドールに人間的な意味での体力という概念はない。人工筋肉は故障が起きない限り、常に代謝を繰り返しながら運動を遂行し、最高のパフォーマンスを発揮させる。

 だが残念なことに人間は違う。まして僕は人生において、ほとんどろくに運動などしてこなかった人種だ。それどころか長年の喫煙のせいで心肺機能は落ちているし、加齢によって関節などが痛むのだから、屈強な保安官たちを凌駕するセッテの速度に合わせて走り続けられるはずがなかった。


「ちょ、セッテさ、はっ、う、お」

「ナナオは言いました。走ることが苦手です。なので私に任せます」


 そういうことじゃないんです、とは言えなかった。

 セッテはまるで転ぶという概念を知らないとでも言いたげに、僕の腕を引きながら地面を軽やかに蹴りつける。僕は足がもつれ、とうとう前のめりに転倒―――しなかった。

 僕が転ぶより先に、僕の身体を引き寄せたセッテが僕を肩に担ぎあげたのだ。僕の重量分だけ僅かに速度が落ちたものの、それでも保安官たちはセッテとの差を詰めることができない。

 セッテは僕の手で何としても守る―――。そう決意した矢先の体たらくだったが、余計なことは考えないことにする。


「す、す、すごいっ! すご、です、セッテ、さんっ!」


 僕はセッテの肩越しに伝わる振動に舌を噛まないように注意しながら、それでも感嘆の声を上げる。保安官たちはかなり息が上がっている。このままなら逃げ切れる。

 だが安堵も束の間、直角の路地を曲がった僕らの眼前に壁が現れる。

 僕は焦ってばかりで忘れていた。セッテには土地勘がないのだ。ましてここは入り組んだ隘路。いくら運動性能に優れるとは言え、街中の追走劇で闇雲に駆け回れば、十中八九こうなることは予想ができたのに。


「セッテ、さん、ひっ、引き返し」

「逃がすかっ!」


 僕の声を断ち切るように、追いついてきた保安官たちの声が響く。前には壁、後ろには保安官たち。僕らに逃げ場はない。セッテの肩の上で、僕は打開策を思案する。


「ナナオ、掴まります」

「え」


 僕の思考を待たず、セッテがさらに加速した。壁がみるみるうちに眼前へと迫ってきた。


「え、ちょ、えっ?」


 セッテは跳んだ。右手側の建物の壁に着地。三角飛びの要領でもう一度、壁を蹴り上げて跳ぶ。

 僕は声も出せず、呼吸さえ忘れ、目まぐるしく流れていく景色に目を見開く。

 セッテの身体はぎりぎりのところで壁を越えた。追ってきていた保安官の唖然とした顔がライトのなかで浮かび、そして壁の向こうへと消えていく。

 着地の瞬間、突き上げるような衝撃が僕の内臓を遠慮なくシェイク。僕は込み上げた胃液を呑み込む。口のなかに不愉快な酸味が広がった。


「ナナオ、大丈夫ですか?」

「はい。なんとか……。すごいですね、セッテさん」


 僕が言うと、セッテは得意気になっているということなのか、手に腰を当てて僕を見ていた。

 そんなセッテに苦笑を返しつつ、僕の頭は既に状況を整理し始める。衝動的にセッテを連れ出して初めはどうなるかと思っていたが、僕は思ったよりも冷静だった。

 壁のこちら側は人通りのある繁華街のようだった。壁を乗り越えて現れた僕らに通行人は好奇の視線を向けるも、積極的に関わろうとはしてこない。まだ捜索の体制は整いきっていないらしい。

 だがさっきの保安官たちはすぐに道を回って追ってくるだろう。今のうちに人混みに紛れ、少しでもこの場を離れる必要がある。


「行きましょう、セッテさん。まずは服を調達します」

「服」

「はい、服です。さすがにその、えーっと、その格好は、いくら何でも目立つので」


 通行人が向けてくる視線の半分は、ネグリジェにブルゾンという妙に扇情的な格好をしたセッテに対する下品なものだった。もちろんそれらは僕にとって非常に不愉快なものだが、個人的な感情は脇に置いても、目立つ格好であることに変わりはない。

 僕はセッテの手を引き、繁華街の人混みに紛れていく。

 体力がないなら頭を使え。彼女を守れるのは僕だけなのだ。

 早速の失態を振り払うように頭を振り、僕は自分にそう言い聞かせる。

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