最後の月、そして。

入川 夏聞

本文

   一 リョータは、月を見上げる


 もうすぐ、夜の空から月は、いなくなる。

 僕らはもう、二度とあの銀色に浮かぶ天体を眺めることは出来なくなるんだ。

 はるか昔、地球と衝突した天体の破片から生まれた月。

 その現在の姿は、恐らくはつい百年ほど前に生きていた人類が見上げていた姿とは、全く違うものであろう、と思う。

 ほぼ全体を覆うまでに張り巡らされた分厚いコロニードーム層。かつての表面は灰色の岩石の色が太陽光の反射によって銀色に鈍く光っていたのだけれど、現在の月の表面で反射される光は、その無色透明で分厚い強化セラミクスに囲まれた、有象無象に生え揃うたくさんの建物から発せられる、無機質なきらめきの集合体だ。

 月はすでに、大小数百に及ぶほどの都市郡を抱えた天体となっている。それらの都市は、予め全てが計算され尽くされた設計によって、それぞれの月面地域へ適切に配置されており、商業都市、工業都市、農業プラント都市など、およそ人類が数百年を月の上だけで生活して行けるほどの十分な設備が、完璧なまでに備えられている、と言うが、実際のところは、僕のような庶民にはわからない。


 今、僕が自室の窓際に腰かけて見上げている夜空には、月しか見えない。昔は星もよく見えたと言うが、今の時代は二酸化炭素類の温室効果ガスと、それに対抗しようと苦し紛れにばら撒かれた水素などの中和ガスが複雑に淀んでいて、それらに地上の灯りが拡散されてうっすらとピンク色に空を照らしてしまっているため、夜空の星と言うものについて、僕は街のプラネタリウムや図鑑でしか見たことがない。

 だから、僕、いや、今の時代の人間にとって、月は唯一見える夜空の星であって、とても身近で大切なものだった。

 その月が、今や巨大な都市群を内包する大型の宇宙船として、太陽系の外側へ、旅立とうとしている。


 手元で携帯が振動したので視線を向けると、ショウからのメッセージだった。


<よう! 何してる?)


(別に。そっち、見上げてるよ>


<おう、奇遇だな。俺も、そっち。見てるよ。)


(どうせ、見下みくだしてるんでしょ笑 もう、月の生活には慣れた?>


<イヤな言い方するなよ、俺がリョータにそんなこと、するわけないだろう。まだ、こっちに来て一週間も経っていないからな、重力調整用の質量調整機の感じにも、まだ慣れないよ。)


(本当に、明日の朝、月は動くの?>


<ああ。動くよ。こちらが発進するとさ、巨大な流れ星のようなアフターバーナーが、そちらの昼間でもよく見えるらしい。もうすぐ、お別れだな。)


 僕は、ここで一旦、携帯の画面から目を離した。視線を室内の学習机へと向けると、そこに置かれたパソコンのモニターには、ちょうど先月にショウと行った沖縄の修学旅行での写真が一枚、アルバム再生されている。

 熱帯の動植物園に行った時に撮った、カラフルなクチバシの鳥を腕に乗せて大きく笑っているショウの姿と、その鳥に威嚇されて情けない悲鳴を出している僕。


(修学旅行、楽しかったね。>


 そうメッセージを送ってからのショウの返事は、少し時間がかかった。もしかすると彼も、僕と同じようなことを考えていたのかも知れない。

 あの修学旅行の時、真っ白な骨のような姿で海底いっぱいに沈んでいるサンゴ礁の海を説明してくれていた環境局のおじさんが発した『月面隔離計画』と言う言葉に、ショウの表情が明らかに硬直していたことを、僕はよく覚えている。大丈夫か、と声をかけた僕に、彼は何かに怯えるような表情を一瞬浮かべてから、なんでもない、と言う、そのシーンでは意味深に捉えるしかないような言葉を呟いたんだ。

 その夜に泊まった旅館の、誰も行ってはいけないように封印された屋上への階段をこっそりと破って、そのまま、誰もいない月明かり灯る狭い屋上空間の片隅に僕らは並んで座った。

 生暖かい夜風と共に、ショウは自分の家族全員が『月面隔離計画』の対象者となっていることをさらりと流れる口調で語ってくれた。

 計画では、指定された人間は数ヶ月のうちに最寄りの軌道エレベータ経由で赤道上空を輪っかのように囲む衛星軌道基地へアクセスした後、順次巡回シャトルで月面都市へ移住することになっているのだと言う。

 僕はその時、率直に『羨ましい』、と言った。衛星軌道基地への旅行は、かなりのお金持ちしか出来ないことだったし、まだ月面都市は解禁されていなかったはずだからだ。ショウの家が裕福であったことは知っていたので、何かそういったツテのようなもので抽選されたのかも、とも思った。

 ショウは、その時の僕に対してはかなりの呆れ顔でこう言った。

『おいおい、正気か? ニュースを見ていないのか。あの計画は、今の地球の環境問題に悪影響のある企業の関係者をその存在ごと、月に隔離しようという計画だぞ。つまり、今の地球には、俺ら家族は不要だ、と判定されたんだ。それだけじゃない』

 彼の続く話では、月はすでに宇宙船に改修されており、なんと太陽系外まで、それら環境影響の悪い企業を運んでいくのだ、と言うことだった。

 なぜそんなことをするのかと問えば、結局のところ、このままでは人類はあと千年ほどで地球環境を不可逆的なところまで破壊し尽くし、絶滅を待つだけの生物に成り果ててしまう、らしい。ショウは、その辺りを早口でまくし立ててから、千年前の奴らはいったい何をやっていたんだ、と吐き捨てていた。

 ともかくも自らをレッドリストに書き入れることを防ぐため、人々は全人類の約一割に当たる環境影響が致命的に高い企業、その関係者たちを丸ごと宇宙に隔離してしまうことにしてしまった。また、隔離されてしまう彼らは彼らで、千年程度は自活できる月面都市宇宙船で新たな可住惑星探査の旅に出ることとして、一方、地球に残ることになった人類は航空機や車、重工業などの環境負荷の高いテクノロジーを放棄した生活を営むことで、残りの千年で運よく地球が再生してくれる奇跡を待つ、というような答えが返ってきて、僕にはとてもすぐにはそれらの事柄が信じられず、口元が変な風に歪んでいるのを自覚したまま、へえ、と薄い反応を示すことしか出来なかった。

 少なからずその時ショックだったのは、月面隔離、の『隔離』というのは、本当に誰かを隔離してしまうことで、その対象に、僕の幼馴染みが選ばれてしまった、と言うことだった。


(ショウ、なんだか、ごめん。僕らのために。>


 メッセージ欄の沈黙に耐えかねて、僕はめずらしくコメントを連投してから、そっと携帯を胸に押し当てるようにして握り、もう一度、月を見上げた。


 いつもより、今夜の月は、小さく見える。



   二 ショウは、地球を見下ろしている



 昔からリョータは、変な気遣いをして無駄に自分を疲れさせてしまうところがある。


『ああ、楽しかったな! こっちはこっちで月面都市を満喫するから、そっちも、また誰かと沖縄に行って来ると良い……』


 適当にお気楽で楽しい雰囲気に持って行きたかったが、つい考えながらメッセージを打ち込んでいる隙に、あいつからは謝罪の言葉なんかが飛んできてしまった。

 今、俺が一番、聞きたくなかった言葉だ。


「月面都市の皆様、いかがお過ごしでしょうか。残り行く地上の方たちへのお別れは、もうお済みですか。繰り返しではございますが、人類初の天体宇宙船である本船『トゥルー・アース』のミッションは、地上の方々へは極秘事項となっております。滅びの運命を辿る彼らに哀れを催すお気持ちはよくわかります。遠い空より、彼らの奇跡を信じましょう。本船の出発予定時刻は、定刻通り、明日の正午ちょうど……」


 マザー・システムからの都市アナウンスが、この二十四時間光を失わない街の何処かで流れている。彼女は地球のシステムから移植された、月全体の都市を運営する基幹システムで、実際のところ、こちらがマスター、つまり正当なシステムとして今後は人類統制の要を担っていく予定だ。地球のマザー・システムは、今後百年程度をかけて、ゆっくりとその機能、つまり公的市民サービス各種、工業や農業の大型プラント運営、経済市場コントロール、行政運営など、これまで人類を支えてきた数々の機能を停止させていき、最終的に、地球に残る人類は千年以上前の、自分たちの手で全てを行っていたと言う恐るべき混沌とした状態に戻されるのだと言う。


(気にするな。本当に。>


 少し長すぎる時間をかけて、ようやくリョータのメッセージに、短く返した。

 俺たちは明日、汚染された地球を残りゆく彼らに押しつけたまま、無責任にも太陽系外へと旅立つ。指をパチリと鳴らせば何でも手に入るような今の生活を維持する、ただ、それだけのために。

 どうせ人類はあと千年くらいしか存続出来ないのならば、今の生活水準を保ちながら、外宇宙に自分たちの楽園を探しに行こう。

 マザー・システムから提案されたこの極めて楽天的かつ安易な計画に、悲観的かつ深刻な見通ししか持っていなかった数百年前の支配者たちは飛びついた。


(リョータ。俺たちは、自分たちだけがいい思いをするために、お前たちを騙しているだけなんだ。最低な俺たちに、謝ることなんて、しないでいい。>


 そんなメッセージを送ると、大きなビープ音が携帯より流れ、すぐに真っ赤な警告文がアプリの画面いっぱいに表示された。


「あなたのメッセージは、トゥルー・アース市民条例に違反する可能性の高い内容が含まれていると判断されたため、マザー・システムによって、置き換えられました。内容をご確認ください」


 キッチンで用事をしていた母さんが、リビングソファにいるこちらを気にしている。ざわめいた胸の鼓動を抑えながらソファの影に身を潜めて携帯を見ると、すでにメッセージの履歴は何事も無かったかのように書き換えられていた。


(リョータ君。謝ることなんて、何もないさ。>


 偉大なるマザー様によれば、これが、模範回答、なのか。


「ねえ、なあに、今の音。まさか、またマザーの目を盗むようなこと、したんじゃないでしょうね?」

 ソファ近くまで来た母さんは、ドリンクマシンのパネルを操作しながら、うんざりした顔をこちらに向けてくる。

「ショウ、あなた、あまりポイントを下げないようにしてね。市民レベルが下がっちゃったら、引っ越さなくちゃいけないんだから」

「ああ、わかってるよ。今のは、別に、何でもない」

 マシンから取り出したカップをクルクルと回しながら俺に一瞥をくれて、母さんはジーンズ姿の腰をひねりながら、どこかへ行ってしまった。

 控えめな着信音が、両手で握りしめた携帯から漏れてくる。


<ごめん。何か、あった?)


 こいつは本当に、昔から変な気遣いをする奴だ。


(いや、別に、何でもない>


<そう?)


(ああ。元気で、な。>


 母さんが、ここに移り住む時に言っていたやり取りが、ふと脳裏をよぎる。


『地球に残ってるリョーちゃんも可哀想ね。どうせ地球に残る人たちなんて、もう滅びるしかない運命なのに』


『母さん、ひどいじゃないか。俺の、昔からの親友なんだぞ』


『あら、私が言っていたんじゃないわ。マザーよ。マザー・システムが、大人たちにはそう説明していたんだから。いい? マザーには、誰も敵わないのよ』


 リョータとのメッセージは、いつものように続く。

 

<うん、元気でね。ご家族の皆さんにも、よろしく)


(ああ、そちらも。それと……>


(お母さん、には、気をつけろよ>


<ありがとう!)


 何だか、この世界で俺だけ、取り残されてしまったような、そんな気持ちが残った。



   三 リョータはまた、月を見上げる



 巨大な月が、本当に地球の衛星軌道上から旅立って、もうすぐ五年になる。

 その大質量のアフターバーナーが、昼間の空いっぱいにゆらゆらと広がりながら地球を離れる光景は、幻想的ですらあった。

 そして、一旦は地球の衛星軌道より離れた月は、ゆっくりと移動する巨大な流れ星のような青白い尾を残しながら、二百年前ごろより五年周期で太陽の周囲を公転している隕石の周回軌道上へと移行した。そのままスイングバイによって、太陽系外へ出るための猛烈な加速度を得るのだ。


 ショウは、元気だろうか。僕らのために地球を追い出された人々は、今、どんな気持ちなのだろう。


 結局、マザー・システムから指示されていた化石燃料使用の放棄を、僕らはまだ実行していない。

 月と共に消えた大企業群が提供していたサービスを埋めるように、世界にはまた次々と新たな企業が育ち始めていた。

 全人口の十分の一が失われたとしても、人類の営みはそう簡単には変わらないのだろう。

 故郷の役場に勤め出した僕は、かつて予想していた通り、普通に車を運転して、地域の挨拶周りをしている。

 月に移住して、ちらほら無人になってしまった家はあってさみしいとは思うのだけれど、近所の人たちも、僕も、実は楽しみにしていることがある。

 もうすぐ、月がスイングバイで最後の超加速を行う際に、ちょうど地球の付近を通るのだ。その時に、僕らはまた、彼らと交信できる機会を得る。

 その時間は合計して、わずか六時間ほどだというが、それがもうそろそろ、の頃なのだ。


 今は、夕方の時間帯で、僕はちょうど外回りから帰るところだ。

 田んぼの畦道に車を停めて、赤みがかった太陽よりも、少し左上方向の空間を見つめる。


(ああ、すごいな)


 昼の三時頃から、大昔で言う宵の明星みたいに輝いていた僕らの月は、今はもう大きな満月のように、すでに太陽よりも大きな、ちょうど五百円玉位の大きさになっている。

 ショウの住んでいる街も、望遠鏡ならば、見ることが出来るかも知れない。

 ブー、ブー、と携帯がうなる。恐らくはショウからのメッセージだろう。

 僕はまた、携帯のメッセージ履歴を見るけれど、どうもずっと、様子がおかしい気がしている。


<リョータ君。お元気ですか。)

<リョータ君。お変わりないですか。)

<リョータ君。僕たちは、元気です。)

<リョータ君。日本の外へは、行っていますか。)

<リョータ君。おかしいことも、あるものですね。)

<リョータ君。僕らのお母さんは、もう子供が、いらないみたいです。)


 先ほどからずっと、こんな調子だ。

 どうやら、何か混線している様子で、ネット上ではマザーの調子がおかしい、と言う話が出回っている。

 いずれにしろ、今夜、月が地球に最接近する頃には、電波は回復するのだろう、と思う。

 久しぶりに、ショウと会話するのは、胸が弾む。そして、それが永遠の別れになると言うのも、やっぱり、とてもさみしいものだ。


 僕は、肺いっぱいに溜めた息を、ゆっくりと吐き出した。出会い、別れの当事者になる時、何だか、自分は生きている、という感じがする。


 慣れないスーツに身を包んで、僕は小さなコンパクトカーの脇に、立っている。

 そして、もう一度、みるみると暮れなずみ、今はもう、茜色から紺色に染まり出した空を見上げた。


 ああ。いつもより、今夜の月は、本当に、大きく見える。



(了)

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