玖
――その手紙は、文字が震えていた。
文面は以下の通りだ。
さくらくんへ
こんな手紙を残して、急にいなくなったりしてごめんなさい。アタシは、今までずっと幸せになっちゃいけないと思っていました。でも、さくらくんに会えて、一緒にご飯食べて、ほんとの家族といるより何億倍も幸せでした。
アタシ、さくらくんのところへ来て、満たされて……ダメだなって思って。アタシ含めた藤槻の人間が、これ以上さくらくんたちに関わっちゃいけない。アタシがいなくても、さくらくんは、もう大丈夫。アタシのことも小説のネタにしていいんだから、ちゃんと長生きしてください!!
5年間、本当にお世話になりました。もしも生まれ変わったら、またさくらくんのところへ、藤の花を見に行きます。あなたが贈ってくれた藤の花を。
手紙なんかじゃない。これは遺書だ。
僕は家を飛び出した。走って、走って、二人で行った場所をまわって探した。傘も差さず、足が棒になっても、喉がカラカラになっても。
「千代野!!!!!」
いない。いない。ここでもない、そこでもない、どこにいるんだ、どこに……………。
結局、僕ひとりの力ではどうにも探せなくて、警察に連絡をした。捜索願いを出して、近所の人にも声をかけて。
今度はちゃんと守ろうって、思っていたんだ。家族を。千代野を佳代やふわりの代わりだと思ったことはないし、そんなものにするつもりもなかった。千代野は千代野で大事な存在だった。
夜にやっと家に戻り、シャワーを浴びた。べったりと張り付いたシャツを剥いで、雨で冷えた身体にお湯をかける。千代野はどこかで雨宿りできているだろうか、お腹は空いていないだろうか。遺書、だと、思ったのが僕の早とちりで、単純に都会へ帰ったのかもしれない。行く宛はあるのだろうか、藤槻の家に戻った? 本当の家族より、と言ってくれたがどうかな。藤槻が嫌なら、ここに、またおいで、僕だけじゃない、佳代もふわりも、あの藤の木も、キミを…………。
夜は眠れなかった。心配も不安もたくさんで、雨の音を聞きながら、気を紛らわせるように小説を書いた。もちろん、いい作品ができるわけもなかったが、どうにも落ち着かなかったし、飯も食べる気が起きなくて。幸せを切り取ったみたいな、昨日の笑顔の僕らを見て……泣いた。
その翌週、警察から連絡が入った。
「………はは、はははは」
それはそれは、小説の中の悲劇よりずっとずっと悲劇で、悲壮で、残酷な結末。降り続いた雨で増水した川、もみくちゃにされて、ふやけてグチャグチャになった死体が見つかった。すぐに千代野の、本当の両親にも連絡がいって、僕はあの人たちと十年ぶりに顔を合わせた。
時刻は午後三時。
少し白髪と皺が増えたように見える。
「確認してきました。確かにあれは娘のようですね」
自分の娘が死んだというのに表情がぴくりとも動かない。感情の揺れも見られない。淡々としていた。
「……随分、その……平静ですね……悲しくないのですか。普通、取り乱したり……僕を、なじったりする」
「勘当も同然でしたし、あれに特別な情はありません。よりにもよって花見さん、あなたの家に居候していたなんて、最期まで厄介な女でしたね。5年でしたか、その間の生活費等お支払しましょうか? 名義上」
僕は愕然とした。怒りで震える手をなんとか抑えて、絞り出した声でなんとか言葉を紡ぐ。
「……いいえ。もう二度と、大事な人を金に変えるようなことをしたくは、ないですから」
「そうですか。……ではあとは用はありません。明日には仕事に戻らないといけないので。お前、あとは任せた」
「…………はい」
今の今までうんともすんとも言わなかった母親が小さく返事をした。彼が退出したのを見届けて、深々と礼をした。無表情のまま。
「あなたがよろしければ、千代野を預かっていただけませんか? 葬儀代はお支払いします。……あの子も、私達といるより、あなたと一緒のほうがきっと嬉しいでしょうから。……娘をどうぞよろしくお願いします」
顔を上げたとき、初めて目があった。涙がはらりと落ちて、頬を伝っていた。ハンカチでそれを拭うと、また礼をして去っていった。
残された僕は、誰もいない空間でぽつりとつぶやく。
「…………なんだ、ちゃんと母親じゃないか」
葬儀代は遠慮したが、千代野はこっちで預かることにした。
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