事故を起こしたのは千代野の父親だった。当時、千代野も車に乗っていたらしい。事故の現場を見ていた。当時、十歳の千代野にはあまりにもショックな出来事だった。

「……忘れられません。事故の現場も、桜さんの虚ろな目も……父が、金と権力に物を言わせて事故をなかったことにしたのも、それに何も言わなかった母の表情も」

 それ以来、両親を信用できなくなった千代野は、中学を卒業後、謝りに来た。五年前、あの雨の日、尋ねてきたのはその為だった。出逢いは、偶然ではなかった。

 ぼくは、藤槻千代野が、あの藤槻の娘であることを分かっていて、この家に迎えた。面影が残っていて、それでも、彼女はまだ子どもだったし、あの事故のことは忘れているものだと思っていた。そうか、ずっと……ずっと、覚えていてくれていたのか……苦しかっただろうに。

「でも、事態はアタシが思ってるより、ずっとずっと深刻で……桜さんは今にも死んでしまいそうで……今、思い出させてしまうことは出来ないって思ったら、言えなかった」

 確かに、その頃のぼくは鬱で、眠れず食えず、文字も浮かばない抜け殻のような状態だった。実際、死んでしまっても構わないと思っていたし。

「だから、生きてもらえるように……アタシ、なんとかしなくちゃって……だから、元気になるまで……元気、とまではできなくても、死ななくてもいいかなって思えるくらいになるまで、支えようと思って……」

 千代野の頬を涙が伝う。大粒の、きらきらひかる感情の欠片。十年、五年前までは少女だった彼女は、もう子どもではなくて、ひとりの女性だった。

「アタシ……アタシが……アタシも同罪……なんだよ? 桜さん、の……奥さんと、娘さんを……うぅ……奪って……おか、お金に変えちゃったの! もう、どうしていいか分からないよ……桜さんをッ……追い込んで……」

「千代野……千代野も、たくさん、考えてくれてたんだね。それに、あの事故は、千代野のせいじゃない。……たくさん、苦しんだんだ、ぼくも、千代野も。もういいんだ、苦しまなくて。ありがとう、キミの存在に救われたよ。ぼくは……ぼくは、誰も恨んではいないよ、藤槻の人のことも、自分のことも、もちろん千代野のことも。死んでもいいとは、もう思わないから……」

「さ、さくらくんはバカだよ……っ、うらんで、なじって、お前のせいだって責めてくれたって、よかったのに! どうして……どうしてそんなに優しくできるの……」

 千代野にティッシュを渡して、ゴミ箱も近くまで持ってきて置いてやる。あー、お茶よりココアとかホットミルクのほうが落ち着くのかな……うーん、まぁ牛乳をレンチンして……ココアにしようかな。

「それは、千代野がぼくに優しくしてくれたから。……優しいひとには、優しさを返したいんだ。ミルクココア作ってくるね」

 わぁぁぁっと泣き崩れる声が聞こえた。そういえば、千代野が泣いているのを初めて見た気がする。ずっと我慢して、ぼくを支えてくれていた。その優しさにぼくは報いたい。

「ゲホッゴホッ…………煙草、もう吸わなくていいな……ゴホッ」

 ショックから逃れるようにして十年前に手を付けてから吸っていたメビウスを燃えるゴミに放り込んだ。

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