――ひどく悪い夢を見た。


 千代野が家に来てから見なくなった夢。妻と娘がガラス玉のような濁った瞳でぼくを見つめている。ふたりの口が小さく動いた。


 どうして。


 そう言ってぼくを責める。何もしてやれなかったぼくを、生きながらえているぼくを、幸せを感じ始めたぼくを、責めている。不自然な方向に曲がった手がぼくに触れる。冷たくて、少し硬いゴムみたいな触感がやけにリアルだった。



「――くん……らくん! さくらくん!!」

「っ! な……なんだ、チヨノスケ、どうしたの?」

「朝ごはん! 寝坊なんて珍しいね。……あのね、さくらくん魘されてたよ。汗すごいし、ご飯より先にシャワーだね。お布団とパジャマも洗濯しなきゃだね」

 千代野は、どこか息苦しいような表情で、眉を下げて笑った。静かに笑った。哀しい表情だった。

「チヨノスケ……?」

「……ほらほら! 早く起きて、シャワー行ってらっしゃい! 原稿の進捗状況はどーなんですか、せんせー」

「うっ、まあまあ進んでるってぇの! はいはい、シャワー浴びてきますよ。じゃあ布団よろしく」

 何も聞けなかった。千代野は切り替えるのが上手だ。こちらが異変に気付いたと分かると、すぐに隠すし聞くタイミングを失わせる。ひとりで、抱え込んでいる。


 ぼくは千代野の親じゃない。あくまで同居人、家主と居候。……頼りないだろうか。頼れないだろうか。家族のようには、なれないだろうか。たかが五年の月日が。

「……ぼくも、話してないことあるし、な」

 いつか話すときが来たら、そのときはちゃんと話すよ。隠している、わけじゃない、けど……哀しい話だから。ぼくも、まだ完全に消化できていない話だから。いつか……。


 「もー! さくらくん遅いよ! 朝ごはん冷めちゃうー! せっかくあっため直したのに」

「ごめんね、ちょっと考え事してた」

 煙草に火を付ける。千代野は膝を抱えて、下を向いた。目が合わない。

「……夢のこと?」

「まぁ、ね。あとチヨノスケのこと」

「アタシ?」

 ぱっと顔を上げた千代野。今度はバチッと目が合った。きょとんとした顔に思わず笑みが浮かぶ。烟を吐き出してから言う。

「誕生日ケーキと、誕プレ選んでもらおうと思って」

「たんじょーび……あっ、アタシ今年で二十歳!! お酒飲も!!」

「そうね、お酒も買おう」

 ぼくは朝食をいつもよりゆっくり食べて、千代野はケーキのカタログを見て、ふたりで冗談を混ぜながら話をした。優しい時間。庭の藤の花が香りを運んできて外を見る。


 千代野が整えてくれた庭だった。ぼくは手入れを怠っていて。雑草を抜いたり、枝葉を整えたり、水やりや肥料まきも。それで、千代野が来た年の誕生日プレゼントに、藤の木を上げたんだ。鉢の、だったんだけど、植え替えてさ。藤槻だからって単純な理由だったな。すごく喜んでくれて。

「さくらくん? ……藤の花今年も咲いたね。いい香り」

「うん。まぁ世話してたのチヨノスケだから、多分、藤もチヨノスケのために毎年咲いてるんだと思うよ」

「なにそれ、ロマンチック! アタシのためかぁ。さくらくんのためでもあるよ、きっと。そうだ、誕生日ケーキね、これがいい!」

「フルーツタルトケーキ……いいね美味しそう」

「でしょ! 誕プレどうしよっかなあ。コスメ買ってもらおうか、服にしようか……うーんもっと別の?」

「ケーキは当日のがいいけど誕プレは思いついてからでもいいよ。欲しいもの考えといて」

「はぁい。お皿下げるね」

「ん、お願い」

 六月二十一日。午前十時。さて、仕事しないとな。あとでケーキとチョコプレートの予約入れて、誕生日祝いの酒と、あと何がいいかな、ご飯も豪華にする? 千代野が好きな食べ物はハンバーグ。作れるな。材料メモしておこう。


 千代野誕生日まであと一週間。

 浮かれているのはぼくのほうかもしれない。

「さくらくん……いま、ちょっといい?」

「うん? いいよ。一段落ついたからね。これから推敲作業するところ。お茶くれるかい? あとお菓子。頭使った」

「わかった」

 ぐぐっと背伸びをする。数時間作業をして、昼食を挟んでまた数時間。疲れたけど仕事だからね。推敲が終わったらあとは編集部に郵送する。万年筆をくるくる回して手慰みをしていると、千代野がお茶とお菓子を持って、それから神妙な顔つきでこちらを見る。思わず背筋が伸びた。

「……なんか用事があったんだもんね、ぼくに」

「うん。……あのね」


 開かずの間、開けちゃった。


 千代野は泣きそうだった。どうしていいか分からない表情で、ぼくの触れてはいけないところに触れたみたいな顔をして。ぼくは、動揺したのかもしれない。そしてそれが千代野に伝わったのだ。


 頬が引き攣るのを隠し通せないまま、乾く喉から無理矢理吐くようにして言葉をポツリとつぶやいた。


「そうか。それじゃあ、話そう」


 今朝、話すときが来たらなんて考えていたのに、些か早くそのときが来てしまった。


 「もう十年も昔の話なんだ。ぼくが取り乱してしまったらごめんね、千代野」

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