不幸がいつ訪れるか分からないのなら、幸せなうちに終焉を迎えてもいいんじゃないか、とは何度か思ったことがある。けれど、今日まで終わらせなかったということは、何かしらの執着がぼくにもあったってことなんじゃないだろうか。

「さくらくーん! ずっと前から気になってたんだけど、あの部屋なにー? ずっと閉まってるよね。もしかして開かずの間!?」

 家中の掃除を任せていた千代野がちょいちょい、と手招きをする。一番奥の部屋。千代野がやってきた当初から、ここには立ち入らせたことはない。……この部屋は自分で掃除をすると決めている。


 ――10年前の、あの日から。


「………さァ、ね。少なくとも、チヨノスケが面白がるようなものは置いてない。この部屋はぼくが掃除しておくから……まだ掃除する部屋たくさんあるでしょ。掃除機かけて、玄関を箒ではく、それから」

「はいはい、もー、さくらくんってばチヨノヅカイが荒いんだから!」

 頬を焼いた餅みたいに膨らませて、唇を尖らせる。まだまだ子どもだ。

「なんだ、チヨノヅカイって?」

「ヒトヅカイのアタシ版」

 そう言って今度は歯を見せて笑う。百面相だねぇ、本当に。ころころと表情が変わるから見ていて飽きないところはある。

「……掃除頑張ったら、コンビニスイーツ爆買いしてもいいよ。ぼくの煙草のついでに。一緒に買いに行こうか」

「ほんと!? よぉし、アタシ今から本気出すわ」

「いつも本気でやって」

「むり。疲れちゃう!」

 それもそうだなぁ、と笑えば、そうでしょ、と笑い返す千代野。とたとた足音を立てて他の部屋へ掃除に向かった。


 煙草を吸いながら、千代野が『開かずの間』なんて言っていた部屋の襖を開ける。軽く箒ではいて、畳用のウェットシートで拭いて、丁寧に丁寧にやる。天井のホコリも、電気周りも。線香立ての灰を除去し、短くなった蝋燭を交換、マッチを補充。花瓶の水を変えて下の花屋で新しく買っできた花を飾る。古い花は庭の一箇所に捨ててきた。


 ここは、仏間だ。


 十年前に交通事故で亡くした妻と娘の遺影が僕に微笑みかけてくる。この部屋には、ふたりの遺品も置いてある。当時、妻がつけていたぼくとの結婚指輪と、娘が好きだった玩具は仏壇に一緒に飾った。

「どうして……」

 いつも、その先は言葉にならない。いろいろ、言いたいことがありすぎて言えないのだ。どうして僕だけが生きてるんだ、とか、どうしてキミたちが命を奪われなければいけなかったんだ、とか。


 ――どうして何もできなかったんだ、とか。


「……今更……もう後悔しても遅いのに」

 奥歯がギリッと鳴った。

「さくらくーん! その部屋終わったならこっちも手伝ってー!」

「…………今いくよー、少し待ってー」

 千代野が仏間を見たら、変な気遣いをするかもしれないから、この部屋は秘密だ。


 2時間もすれば家中綺麗になった。

「はぁぁ、つっかれたぁ! これだけやればコンビニスイーツ爆買い確定でしょ!!」

「そうだなぁ、結構頑張った。……あ、腰痛ってぇ……」

 ぐぐぐっと体を伸ばすと、節がパキパキっと鳴った。いやぁ、動いた動いた。

「コンビニ行こうよ! 早く行こ!」

「元気だねぇチヨノスケは……。うん、行こうか」

 玄関に鍵をかけ、ふたりでコンビニへ。徒歩十分ほどの距離をゆっくり歩いていく。今日は小雨が降っているから、傘をさして、そして駄弁りながら買い物に行く。これが、また楽しいのだ。

「お酒と煙草も買っていい?」

「チヨノスケはまだ未成年だからぼく用ならいいよ」

「今月の二十八になったら大人だよ!」

「でも今はだめ。……誕生日が来たらさ、一緒に飲めるようになるね」

「さくらくんのおすすめは?」

「梅酒とか柑橘系のやつとか好き」

「あんま苦くないやつあるかなあ」

「今日は僕の分しか買わないからね」

「わかってるもん! アタシが二十歳になったらってこと!」

 あっという間にコンビニについて、カゴの中にスイーツをたくさん入れていく。ショートケーキ、モンブラン、プリン、ゼリーシュークリームetc.それからお菓子と飲み物と、酒と煙草。

「なんか菓子パみたいで楽しいね!」

「映画とか見ながら食べたい」

「わかる! 録画してるのあるからそれ見ながらお菓子食べて、ちょっとだけ夜ふかししようよ」

「そうだな、それがいい」

 他愛もない日常が、幸せだと思う。きっと、ずっとは続かないだろうから、できるだけ長く、幸せでいたい。千代野はどうだろうか。この家に来て五年になるが、幸せだろうか。実家が恋しくなったり、寂しくなったりしていないだろうか。ぼくは自分の大切な人には、幸せでいてほしい。

「チヨノスケは、今幸せ?」

「ん? うん、幸せだよ! 毎日楽しいし、さくらくんと話すのもそうだし、掃除洗濯とかほかの家事だって、みんな楽しい。ここに来て良かったなって思うくらい!」

 満面の笑みで千代野はそう言った。そうか、それなら良かった。


 笑い合って、じゃれ合っての帰り道。

 雨はもう上がっていた。

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