壱
天から降り注ぐ拍手のような轟音に目を覚ます。ボサボサの髪を後ろで適当に結わえて、顔を洗うより先にメビウスの1mg のロング。煙草だ。ニコチンでようやく頭を冴えさせたぼくの肺は、きっと真っ黒だろう。
六月二十日。午前八時。
「ゲホッ、ゴホッ……はぁ、煙草なんてロクなもんじゃあねぇや。……チヨノスケ、飯」
「チヨノスケじゃないよ、オジサン。そんなかわいくない呼び名つけないでよ。せめてさ、お千代とか呼べないの?」
「だったらお前もオジサンって呼ぶのやめなさい、無駄に年取った気分だ」
ぶつくさと文句を言いながら紫煙を燻らせる。1本目の煙草を灰皿で潰して朝食をかっこむ。ハムエッグとサラダと白飯。ぼくらの関係は、もうほとんど家族みたいなもんだったし、千代野も家事の手際がずいぶん良くなった。食べ終えた皿を乱雑に洗浄機に突っ込んで、それから小さな作業机の前にドカっと腰を下ろすと、2本目の煙草に火をつける。電子機器が普及する中、ぼくは未だに原稿用紙と万年筆を愛用している。
「童話作家が聞いて呆れるなあ。夢も希望もないね、見てるだけで悲劇」
「あのねぇ、作家と作風は同じじゃないの、悲劇とか言わない!」
「怒った? ごめんて。煙草ちょうだい」
「未成年でしょ、チヨノスケ。ダメ」
「アタシ、メビウスよりピアニッシモとかあーゆーオシャレなのが良いなあ。ねぇ下のコンビニに行って買ってきてよ」
「お前も話を聞かないやつだねぇ。まったく。そら、仕事の邪魔だ、おんもで蛙とか蛞蝓とかと遊んでらっしゃい。大雨だけど」
「えー、カエルとかキモくない? ナメクジとか最悪じゃん、ぬめぬめしてて。バイキン持ってそう。雨に濡れて風邪引いたら、さくらくんのせいだからね!」
「バカは風邪引かないよ。……お風呂だけは沸かしておいてもいいけど」
頭を使わない会話だ。馬鹿と話すと脳が腐るねぇ、と冗談混じりに呟いた。それから、ちょっとだけ笑って、また机に向かう。
この五年間、千代野を尋ねてきた人物はいない。ニュースや新聞、スマートフォンもたまにチェックしているが、千代野を探しているという記事は見当たらない。彼女は、まだ未成年なのに。千代野の親は、彼女のことが心配ではないのだろうか。
最初の頃は早く自分の家に帰ることを勧めた。家族が心配してるだろうとか、ぼくが誘拐犯だと疑われたらどうするんだとか、言ってはみた。けれど、千代野は明るく笑って、
「アタシの家族はさくらくんだよ」
と濁すばかりだった。
「さくらくん! アマガエル!」
「……本当に外に出たのか。アマガエル、珍しくないでしょ、この辺。毎年大合唱してるじゃん」
「雨やばいよ、痣できたかも!」
「そんなにか弱くないよ、チヨノスケは。ほらほら、タオルで体拭いて……お風呂沸くの時間かかるな、シャワー浴びておいで」
「はーい」
元気のいい返事をして、千代野は風呂場に駆けていく。彼女が来てから、ぼくの住処は少しだけ便利になった。スマートフォンとWi-Fiの契約、洋式になったお手洗いと、少し大きくなった冷蔵庫。エアコンもついたし、掃除機もテレビも新調した。
ぼくの作風も随分変わった。というか、鞍替えした。もともとは暗くて重い小説を書いていたけど、千代野にも読めるように、児童向けの小説も書くようになった。
「…………見てるだけで悲劇、ねぇ」
「そんな気にしてた?」
「うぉわっ! 別に、気にしちゃいないよ。それよりチヨノスケ、髪乾かしなさい。畳が腐る」
「いやぁ、さくらくんが落ち込んでたから励まそうと思って!」
「お気遣いどうも〜、結構です」
千代野を座らせて、ドライヤーで髪を乾かす。おとなしくされるがままで十五分くらい。櫛で梳いておわり。
「チヨノスケ、お茶出してくれる?」
「いーよー。お茶請け何がいい? おせんべいもあるしプチケーキとかクッキーとか」
「クッキー」
「はぁい。ちょっと待っててね!」
お茶とお菓子を片手に、文章を書き上げていく。ぼくが仕事をしている間、千代野は冷蔵庫の中身をチェックしたり、家計簿をつけたり、掃除や洗濯をしてくれる。
「お茶のおかわりいる?」
「あー、お願い」
こういう、細かいところにも気づいてくれるようになった。
「なんか浮かない顔だね。筆止まった?」
「……いや」
静かに首を横に振る。
いつかきっと、藤槻千代野を迎えに来る人が現れる。それが少し怖いことを、ぼくは彼女には言えなかった。
……かっこ悪いからね。
「不幸ってのは、幸せを知らなければわからないし、幸せってのは、不幸を知らなければわからないものだよな」
「なに、急に」
「今書いてる児童書のテーマ。両方知ることが大事で、後々自分の力になるよっていう」
「深そう」
「深いんだよ」
「不幸にも幸せにも、いつか終わりが来る?」
はっと千代野を見る。頬を抱えた膝につけて、髪をさらりと流している。普段の明るい彼女からは想像もつかないような、大人を試す子どものそれ。
「…………来るさ。生きているなら」
「そっか! アタシもさくらくんもアマガエルも生きてるもんね! アタシももうちょっと必死で生きようかなあ」
けらけらとさっきの雰囲気はどこへやら。あっという間にいつもの千代野に戻った。ぼくは何も返事をすることができないでいたけど、千代野は満足そうに笑っていた。
「この幸せにも、いつか」
そのタイミングは刻々と迫っている。
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