Ⅲ.くらいあと
ぴしり、と何かが罅割れる音が聞こえた。思わず顔を上げると、それはどうやら踊り場にある鏡の端からしたのだと気づく。
その鏡は本当に大きくて、踊り場の横壁を覆うくらいだった。後輩と僕を映し込んでも、まだ入れるに違いない。そんな大きな鏡の右下、壁側の角から大きな罅が蜘蛛の巣状に走っていた。それは前からあるものではなくて、今音を立てて割れていた。
「なんか罅入ってるんだけど、何かしたの?」
「何もしてませんよー!」
思わず叱責の滲んだ声を漏らすと、即座に否定の声が上がった。後輩は心外だ、とでも言うように頬を膨らませたが、先にいた方を疑うのは仕方ないのではないか。
「だって罅なんて勝手に入らないでしょ。こんなに……」
古かったとしてもさ、と続けながらもう一度鏡を見る。僕達ふたりを悠々と映したままひっそりと立つそれは、汚れてくすんだ鏡面に罅を入れている。今も時折ぴし、となって蜘蛛の巣が広がっていた。何か衝撃を与えてしまって、それが遅れて現れていると考えるのが妥当かもしれない。
「なんでいきなり割れたんでしょう。先輩、下手に触って怪我しないでくださいね」
「君じゃないんだからそんなことしないよ」
「どういう意味ですか。邪魔なものを取って貰っただけです」
そんな軽口を叩き合いながら、僕達はその場に立っている。けれど何分経っても鏡に映るものは変わらない。スマホの時計を確認すれば、もう0時だった。噂通りなら異世界が見えるはずなのに、何も変わらない。
やっぱり噂はただの噂なのかな。微かにしていた期待を裏切られたようで、少し力が抜けてしまった。やや長く息を吐いたところで、僕はそれに気が付いた。
鏡に映る僕と後輩。その写し身の後輩が、両手を上げて困ったように何か呟いている。隣にいる方の後輩は……僕を見上げて話をしていた。
違う動きをしている。鏡なのに。
それを理解した瞬間、氷水を掛けられたようにさあっと頭が冷えた。真似をしない鏡なんてこの世界にあるのだろうか。マジックミラーとか、そんなからくりだったりするのか。この現象を説明できる何かを探して考えを巡らせた時、僕はまた一つ気が付く。
お札なんて、ない。
友人が言っていた、「剥がすなよ」と忠告をしていたお札なんてどこにもない。それが何を意味するか知らないし、お札があったところでどんな効果があるのかもわからない。ただ、それが理解の追いつかない現状をしっかり説明できてしまう気がした。
「センパイ」
アナログ放送の砂嵐が被さったような、掠れた声が聞こえた。男にも女にも、子供にも老人にも聞こえる声。それが、僕を呼んでいた。
指先がうまく動かない。身体が凍り付いてしまったかのように、身動きがとれなかった。
返事をしてはいけない。だって隣にいるのは誰?
鏡に映った後輩が泣きそうな顔になった。必死に動かしているその口の形が何を意味しているのか、理解してしまって。
たすけて
「せんぱ、ぁい」
鏡の中にいる後輩の口が動くのと、その言葉が重なった。首に冷たい指先が触れる。その指は優しく、けれど容赦なく僕の首を掴んだ。
「いっしょに、いましょ」
とても優しく優しく、無慈悲な誘いが聞こえた。
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