一章
タブレット端末に
「もう、患者がいないってことはないですよね」
さっき、流行性
「おかしいわね……」
リタが布製の
『
さっきの患者の声が耳によみがえる。
自分の腕が未熟だからだ。感謝されても、申し訳なさが先に立つ。
医大を卒業してまだ一年目。指導医から、『海外派遣に応じてみるか?』と声をかけられたのは、腕を見込まれてではない。
『うちの系列の一員として医師が参加した、っていう実績が欲しいんだ。医師
ようするに、病院としては熟練の医師は残し、未熟な者を差し出したい、ということだろう。
だが、アイシャは一も二もなくそれに応じ、マルゴット共和国に来た。
もともと、医師になろうと思ったきっかけは、この国の難民キャンプの様子を、ドキュメンタリー番組で
ただ、〝生きる〟ということが困難な様子に、どうしようもなく
なんとしても、彼らの力になりたい。
そう思って、アイシャは必死に医師となり、そしてようやくここにやってきた。
医薬品も、食料も。人も、水さえ満足にないキャンプで、
栄養治療食バーさえあれば、あと数日生きられた児童。きれいな水を飲んでいれば、病にかからなかった幼児。
ここで働く医師にとって、性差や
それでも、アイシャはここから
そんな自分に、患者たちは、心から感謝してくれる。
(……私の方が、彼らに謝らないといけない……)
もっと、自国で研修を受けておけばよかった。もっと私に
気づけば、ぼんやりと腕時計を
「ドクター! 逃げて!」
落ち込みかけた思考を
アイシャは反射的に立ち上がる。回転
(……ゲリラ……?)
まさか、と思うのに、身体は
そのアイシャの眼前で、テントがまくりあげられた。ぶわり、と
いきなり飛び込んできた男たちは、自動小銃の銃口を向ける。
パラパラ、と。雨だれに似た音を聞いた。
ばりばり、と。
アイシャは、静かに死を
もうだめだ、と息を止めた。
そして。
自分の手から
つなぎとめられなかった、未来のことを。
もっと、自分にはやれたのではないか。
もっと、努力できたのではないか。
自分は、もっと……。
誰かのために、役に立てたのではないか。
アイシャは、震えながら、立ち
自分の命を
(このまま、死にたくない!!)
『誰か助けて! このままじゃ……っ!』
不意に、
(……え?)
聞き覚えのないその声に、全身のこわばりを解いた途端。
がくり、と上半身が右に傾いだ。
こめかみを何かにぶつけ、アイシャは声を上げる。
「
声をかけられ、
真向かいにいるのは、四十代半ばの男性だ。この男のものではない。
(……だ、誰……!?)
せわしなく視線を動かし、思わず声を
「え……。えええ……?」
四角い、箱のような場所だった。
内面は布張りで、中年の男と向かい合って座っている。
がたがたとひっきりなしに
揺れに
その手を見て、ぎょっとする。絹の、白い
そればかりではない。見たこともない水色のドレスを着ているではないか。
(な、なにこれ……)
とっさに考えたのは、「自分はテロリストに
(そうだ……。傷……)
(どういうこと)
ふ、と視線を横に移動させる。
単純に、日が
鏡面化し、室内の様子を映したそこには。
「………えええええ、ええ?」
口を半開きにし、驚きに目を見開いた、見知らぬ少女がいた。
「……パドマ・キャベンディッシュ……」
思わず
そうだ。これは、医学史には必ず登場する女性。パドマ・キャベンディッシュだ。
(か、彼女が生きてたのは……。え……と。今から、よ、四百年前……?)
男性しか医師になれない時代に、初めて女性でありながら、医師として
アイシャも、
彼女は有力貴族キャベンディッシュ家の
ちょうど、ダブリー王朝
国内勢力は、大きくふたつに分かれていた。
辺境
マルゴット家は貴族でありながら金の持つ力をよくわかっていた。
領地や
そうして生まれたのが、ハリソンだ。
マルゴット家は
そんな中、パドマは、王太子エドワード・ルイ・ダブリーと
父親のキャベンディッシュ宮中伯が王太子派の
『従来の貴族たちは、すべからく王太子および王家に忠誠を尽くす』
そういう意味を込めた
その後、王太子について王城内に出入りする彼女は、女性で初めて侍医団に入る。
婚約して三年目。パドマが十七歳の時、エドワードが
代わりにハリソンが王太子に
しかし、それはあっさり裏切られた。
ハリソンはその後、東の
パドマが十九歳の時に隣国シザーランド皇国に
「ここは悪路が続くから、馬車が揺れたね。こぶでもできたかい?」
目を細め、体調を
(なにこれなにこれなにこれなにこれ、だれこれだれこれだれこれ)
ぱくぱくと口を開閉しているが、声にはならない。
改めて窓の外を見る。
一面、青麦が揺れていた。時折見える
(……電柱、どこ……。え……。自動車は……? ってか、道がアスファルトじゃないっ!)
見知ったものを探そうとするのに、窓の外にはそれがひとつもない。
「王太子の
男は
「もう、うちの領地は見えなくなったね」
(うちの領地……っ!!)
なんだそれは、と
(まさか、と思うけど……。私、中世の……。パドマの時代にタイムスリップしてる……?)
そう思ったものの、いや、おかしい、と否定する。
どうして、〝アイシャ〟ではないのだ。
どうして自分は〝パドマ〟の姿かたちをしているのだ。
「生まれ育った屋敷を
椅子の背から上半身を起こし、そっとアイシャの手を握ってくれた。
「セイラが
育てた、ということは、彼はパドマの父親か。
確か、侍医団に所属している医師だ。おまけに、宮中伯の
「周囲から、トマスに育てられるものか、と何度言われたことか……」
トマス。これがこの男の名前だろうか、とまじまじと見つめる。
「だがね、パドマ」
ぎゅ、と強く手を握られる。
(や、やっぱり、私、〝パドマ〟なの……? どうなってるの。じゃあ、本物の〝パドマ〟はどこ!?)
名前を呼ばれ、混乱する頭のまま、なんとか首を縦に振った。やわらかく
「今、エドワード王太子を守れるのは、ぼくたちキャベンディッシュ家しかない」
(いや、そんな大層なことを言われてもっ! なに、王太子って!)
ごくり、と息を
「つい先日、君が侍医団に見習い医師として入ったのは、神の
言ってから、
「もちろん、君の努力がちゃんと実っての結果だというのは知っている。女性でありながら、侍医団に入るなんて快挙だよ。その後も勉強を続けているからこそ、君は
まばたきをひとつした後、トマスは
「正直なところ、今の侍医団は、あまり信用ができない。殿下を守れるのは、
(た、体調の異変……? 王太子って、病気なの……?)
額に冷や
「陛下が
ほう、とトマスは深い息を
「殿下のお母上がご存命なら、後ろ
苦い笑いを
「それに、生きてさえいれば、第二妃ごときのマルゴット家にこれほど大きな顔をさせなかったに
(……マルゴット家……。マルゴット共和国の母体を作った一族……)
その争いの種を振りまいたハリソンという男。あれは、マルゴット家出身だ。
そして。
(パドマも、その男のせいで、
そうだ。確か、処刑されるのだ。
戦場で
その死の真相や、なぜ、男性優位社会であった時代に侍医団に入り込むことができたのか、という多くの
ぞわり、と
(……二度と、あんな思いは
胸を
「やはり、体調が悪いんじゃないのか?」
トマスが顔を寄せてくるから、慌てて首を横に振る。意識して呼吸を深くする。
「あの……。ちょっと、
ぎこちなく微笑むと、トマスも
「
十六。
ごくり、とアイシャは息を?む。
(パドマは、
自分に残された時間を想像した途端、時計の針が動く音を聞いた気がした。
「本来であれば、
トマスは、ほんの少し
「お前のたっての願いだし。殿下のお身体も心配だしね。心を
窓の外を
「殿下も我々も目を光らせているが、
「マルゴット家は……。貿易で……、財を成してましたもんね……」
「海外で何をやっているのか考えるだに
小さく舌打ちしたトマスの視線は、窓の外に
「あいつらは、この国を見ていない。他国にばかり、ぎらぎらした目を向けて、
わしわしと、乱雑に頭を
「自分たちの爪と
そうだ、領土拡張政策だ、とアイシャは思い出す。
ハリソンが。いや、トマスの口ぶりでは、彼個人ではなく、マルゴット家全体が
「他国を……。この国の領土として
おそるおそる
「そんなにうまくいくものかね。
だが、彼等は、「ある」と思っているのだ。そして、そのマルゴット家を止める力が、準備が、まだ王太子にはできていない。
「いいかい、パドマ」
トマスは
「我々が王家の
だが、彼は死ぬ。
エドワードが二十歳で
しかし、そうはならない。ハリソンが、東の
その後ハリソンは、ダブリー王朝を
それらは、国を富ませるどころか、
ハリソンから数えて三代目の時、クーデターが
数百年前のハリソンがもたらした領土拡張問題が、現在まで近隣国に
(すべての混乱は、ハリソンに端を
交渉に応じず、当時、絶大な人気を博していたであろう彼女を、あっさり見捨てたのだ。
いや。
ハリソンが、ではない。
トマスの話を聞く限りでは、今現在の、ダブリー王家は
で、あるならば。
パドマを殺したのは、マルゴット家であり、ハリソンである、ということになる。
それはそうだ。パドマの父親がこんなに公然とマルゴット家に敵意を示しているのだ。交渉に応じ、彼女を取り
(……だったらなんで、パドマを王太子
眉根を寄せる。
エドワードが没したのち、ハリソンが、パドマを王太子妃に指名するのだ。
この段階で、さっさと手を切ればよかったのに。
(ん……。ちょっと待って、ちょっと待ってよ。……だとしたら)
ふと、
(エドワードとかいう王太子を生かしておけば、
そうだ。ハリソンの婚約者におさまってしまうから、パドマは死ぬのだ。
だったら、エドワードを生かせばいい。ハリソンが王位を
今現在、本物の〝パドマ〟がどうなっているのかわからないが、彼女がまた戻ってくるまで、この
今後、戦争は起こるかもしれない。パドマはまた、医療団を組織し、戦地に行くかもしれない。そこでまた、
だが。次に
エドワードに愛され、大事にされたならば。
きっと、彼はパドマを救い出してくれるだろう。
そう。
エドワードが、生きてさえ、いれば。
(そうすれば、歴史も変わるかもしれない)
ぎゅ、と固く
アイシャが活動していた難民キャンプ。あの風景が胸をよぎる。
あそこで日々起こる
(あの難民キャンプの人たちの未来も、変わるかも)
エドワードが死なず、王となってダブリー王家を継いだ世界。
そこには、ひょっとして現代まで長引く戦争も、内乱も、紛争もないのではないか。
平和な、未来が
アイシャはぐい、と
「
力強く、そう宣言した。
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