二章①



 馬車でかくせいしてからおおよそ二時間。

 トマスに連れてこられたのは、王太子エドワードのしきだった。

 あいさつもそこそこに、アイシャはだまってふたりの会話に耳をます。

 なんとか状況をあくしなければ。そのことに必死だった。

 気づけば過去にタイムスリップしてしまい、なぜだかわからないまま、パドマを演じている。

 なぜ自分が王太子の屋敷に連れてこられているのか。その部分もあいまいではあったが、話の内容から、どうやら、パドマが医師でもあるトマスに、

『王太子に病の兆候がある。心配なので屋敷に住み込んで様子を見たい』

 と、申し出たようだ。この件は団にはかられ、だくを得てのことのようで、トマスはしきりに、こんやく者同士とはいえ、まだ結婚前なので、くれぐれもちがいが起こらぬように、とそちらの心配もしていた。

「さて。それでは」

 ぱん、とひざをひとつ打つと、トマスが立ち上がる。

「なんだ。けいは飲んで行かぬのか?」

 低い声がかかった。

 アイシャはまばたきをして、となりを見る。トマスがぼうをもてあそび、かたすくめていた。

むすめとの別れが名残なごりしいところではありますが。きりがありません」

 目じりに深いしわを刻ませて、トマスは微笑ほほえんでくれた。手をばし、アイシャのかみでる。

 彼とかかわって数時間しかっていないが、こんな仕草から、パドマに多大な愛を注いでいることがわかった。

「まだ、十六の不束ふつつかな娘ですが……。よろしくお願いいたします」

 深く、エドワードに対して頭を下げた。その姿を見ると、胸が痛む。

(ごめんなさい……。私、あなたの本当の娘じゃないのに……)

 言い出せないもどかしさと、申し訳なさに、ぎゅ、とドレスのスカート部分を握る。

「ああ。わかった」

 エドワードからの返事は素っ気ないものだったが、十分だと思ったのだろう。トマスは姿勢を正すと、今度はアイシャの方を見ずに、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 ぱたり、と音を立ててとびらが閉まる。アイシャは不安なまま、その扉を見ていたのだが。

 あしが、ゆかをこする音に、まばたきをする。

 見やると、青年が立ち上がっていた。

 ずいぶんと、背の高い人だ、というのが第一印象だった。

 つややかなしつこくの髪と、よいやみに似たこんいろひとみをした青年。街ですれ違えば、思わずり返るほどのじようだ。

(エドワード・ルイ・ダブリー……)

 アイシャは注意深く彼を見る。

 はだは白いが、不健康そうなそれではない。単純に日に焼けていない、という意味の白さだ。

 白いシャツに、あわい水色のネックスカーフ。そこからのぞくのどぼとけがなければ、女性にさえ見えるほどの中性的な美しさを、この青年は持っていた。

 だが、きやしや、というのではない。シャツしにうかがえるがっしりとした筋肉と上背。身のこなしもしっかりと体幹を感じさせる。

(……二十歳はたちで、びようぼつ、ね……)

 首をかしげざるを得ない。

 彼とのねんれい差は三歳。パドマが十七の時、彼は死ぬのだ。あと一年。確かに、いきなりきばく急性のしつかんもあるが、今の彼からは、びようへんりんは見えない。

(エドワードを死なせない)

 これが最大の目標だ。幸いなことに、自分には医学の知識と、〝今後歴史がどう動くのか〟がわかる。このふたつを利用して、なんとかこの時代に適応しなければ。

 とにかく、挨拶の仕方やことづかいすら、まったくわからないのだ。しんがられては人間関係もこじれてしまう。

 しんちように、と思いつつも。

(……だけど、どこが悪いのかな……)

 アイシャはまじまじとエドワードを見つめる。

 その視線がしつけだったらしい。

 彼の紺色のそうぼうに真正面からえられ、アイシャは顎を引く。エドワードが立っていることもあって、かなりのあつかんだ。

 だが。

 目が合ったのは、数秒だった。

 視線は不意に外され、エドワードは、アイシャに背を向けて歩き出す。

 こつこつと鳴るのは、彼の乗馬用長靴ブーツだ。みがき上げられたそれはあめ色で、随分と年季が入っているように見える。

 アイシャの目の前で、彼は部屋の北側にしつらえられたしつ机に着くと、ぱらり、と紙をめくっては文書を読み始めた。

(……え、っと……)

 アイシャは、彼と、テーブルの上の茶器をこうに見やった。

 さっきメイドがれた紅茶が手つかずに残っている。トマスにお茶をすすめていたくせに、自分は飲む気がないのだろうか。

 ぽつん、と。

 アイシャは椅子に座っていた。

 特にエドワードから、「ゆっくりして」とか「お茶を飲んでて」とか、「こっちは勝手に仕事してるから」とか言われてはいない。

 かりかりと紙の表面をペン先がく音だけがひびき、アイシャはまどいながら、何度かこしかした。

「あ、あの……」

 おそるおそる、事務作業をしているエドワードに、たずねてみる。

「お茶、飲まないんですか……?」

 王太子なる身分の人間に話しかけたことなどないアイシャは、とりあえずていねい語を使ってみたが、エドワードは動きを止めない。

「………私、ここに座ってても……?」

 ならば、と自分がどうすべきかを尋ねてみる。

 だが、返事はない。無言だ。

 まるで部屋にはだれも存在しないような態度で、エドワードは文書を読み、何か書き付け、そしてまた別の文書を手にしている。

(………なんか私、きらわれてる……?)

 ほおをひくつかせながら、アイシャは思う。

 おかしい。確か、ふたりは婚約して二年が経っているはず。よそよそしいならまだしも、なんだか険しいではないか。

(このふたりの関係って、どうだったわけ……? 体調変化に気づくぐらいは親しくやってたんじゃないの? え? 実は仲悪いの?)

 ひょっとして、おこらせるようなことをしたか、とここまでの流れを思い返してみたが、そんな態度や言葉を発した覚えはない。

 いつものパドマと違う、とあやしんでいるのだろうか。だからげんなのだろうか。

 それとも、おうこう貴族というのはすべからく、このようにおうへいなのだろうか。

 いや、トマスの前では違った。

 父といつしよにこの執務室に入った時、彼は仕事の手を止め、それから立ち上がってむかえてくれたのだ。それに、お茶もさそっていたではないか。

「あのー……。で、殿でん?」

「うるさい」

 私、なんかやらかしましたか。続けようとした口は、彼の一言でふさがれる。

しつがもうすぐ来る。それまでじっとしてろ」

 エドワードは顔も上げずに言い放つ。さすがに、アイシャはあつに取られた。なんだ、この態度。かちん、と来たのは確かだ。

 現在アイシャは十六歳の少女に見えるだろうが、中身は二十四歳だ。たかだか、十九、二十歳の男に暴言をかれるいわれはない。

「じゃあ、執事さんがいらっしゃるまで、その辺、散歩してきていいですか?」

 すっくと立ちあがる。ふたりでここにいても、息がまりそうだ。

 着なれないドレスのすそるようにして一歩み出すと、ペンが紙を走る音が止まった。ちらりと視線を向けると、エドワードが無表情な顔で見ている。

「わたしのしき内を勝手にうろつくな。部屋に案内させる。そこでじっとしてろ」

「はぁ!?」

 思わずとんきような声が出た。それではゆうへいではないか。

「屋敷内をなんのために歩き回るつもりだ」

 ぱくぱくと口を開閉させていたら、き放すようにそんなことを言われる。

「なんの、って……。え。私、しばらくここで暮らすんですよね? ちょっと見学というかなんというか……」

「必要ない。部屋にいろ」

 返事は早く、短い。命じられて、アイシャは確信を持つ。

 だめだこれ。

 理由はわからないが、パドマという少女は、こんやく者であるエドワードに完全に嫌われている。こんなことでは、彼が王となっても、またしよけいされる結末しか見えない。

かんべんしてよ……。この最低王子との人間関係からまず作んなきゃいけないわけ?)

 うんざりだ、と無言で首を振る。

「用があればこっちから呼ぶ。動くな」

 また、この命令口調が腹立つ、とアイシャは彼をにらみつける。まずは仲良くなる、というスモールステップすら成功する自信がなくなってきた。

「……じゃあ、しんさつの時におこえけいただけます?」

「はぁ?」

 だが、鹿にしたような返事を、がつんと投げつけられた。見やると、エドワードはペンを放り出し、机にほおづえをついて目をすがめた。

「いやだ」

「あのねぇ」

 にべもなく言われ、大声を張り上げた。

「どっか、悪いんでしょう!? だから、私、来たんでしょうっ」

「悪いのはわたしではない。お前の頭と性格だろう」

 断じられ、アイシャは目を見開いたまま、間近にあるエドワードの顔を見た。

 なんともれいこくで、なんともこくはくで。いかりやにくしみをたたえた目で、アイシャを見ている。

 いや。

 を、見ている。

「わたしはこの通り、健康だ」

 エドワードは頬杖をついたまま、無表情にアイシャを見据える。

「お前だけが、なぜわたしの身体からだを心配する? その理由はなんだ」

「……それは……」

 わからない。くちびるむ。

 今のところ、自分にはわからない。エドワードが言う通り、本当に彼は健康そうに見えるのだ。なぜ、約一年後、彼は死ぬのだ。

 アイシャはうでを組み、じっくりと彼を見る。

「わからない」

 正直に答えた。

 たんにエドワードは笑い、の背もたれに上半身を預ける。

「だけどね。あなたに、死んでもらったら困るの」

 そう。

 彼に生きて、そしてパドマを大事にしてもらわないといけないのだ。

 本物の〝パドマ〟がどこでどうなっているのかわからないが、このままでは、パドマの身体ごとアイシャが死んでしまう。

 そして、この国も、いずれ戦乱に?み込まれるのだ。

「……お願いだから、私の診察を受けて」

「何度でも言うが、いやだ」

 執務机をはさみ、たがいに睨み合う。なんて仲の悪い婚約者だ。アイシャが内心あきれた時。

 とびらが、ノックされた。

「入れ」

 エドワードが短く応じると、ひとりの男性が顔をのぞかせる。

「お時間でしょうか、殿下」

 初老の男だ。しろぶくろに、黒い上下のお仕着せ。表情がとぼしく、動きにがないせいか、なんとなく機械じみて見えた。

(執事……、さん、かしら……)

 その服装や態度からアイシャは判断する。

「ちょうどよい時間だった。話は終わった。そいつを部屋に連れていけ」

 言うなり、エドワードは再びペンを取り上げ、なにごとかを書き記していく。

「それでは、どうぞ。お部屋にご案内させていただきます」

 執事がアイシャに対して深く頭を下げる。あいまいにうなずき、退室する時にエドワードをいちべつするが、彼はもう、興味などせたように、仕事にぼつとうしていた。

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