二章③



 次の日の朝。

「……それは、なんだ」

 顔を合わせるなり、エドワードは眉を寄せてアイシャをにらむ。

「……紙製ちようしん……」

 れた声が力ないのは仕方ない。アイシャとて、これが本当にそうだと言い切れる自信はない。

 ゆるり、と右手ににぎった、『紙を束ねてつつじようにしてみたもの』をながめる。

 一応、歴史としては、聴診器の初期型は、厚紙を筒状にしてひもしばり、にかわり固めたものだ、ということは知っている。だが、これがそうだ、とは言い切れない。この時代、まだ聴診器はないのだ。

 昨晩。夕食が終わると同時に、アイシャは、パドマの部屋に引きこもった。

 彼女が書いた文書や医学の覚え書き、手帳のようなものを片っぱしから引っ張り出しては目を通し、この時代の〝誰もが当然のように知っている常識〟のようなものについて調べた。

 とにかく、何もかもがわからないのだ。

 夕飯の時でさえ、作法がわからず、同席したエドワードを真似まねてやり過ごしたが、あんなきもの冷える食事は、もういやだ。

 あいさつぎよう作法、ことづかい、階級。

 アイシャは次々と頭の中にたたきこんでいく。

 パドマの、かなり私的な部分に土足で立ち入ることに多大な申し訳なさがあったのだが、はいりよしているひまはない。

 彼女の書き残した文書をたどっていくと、じよじよに、パドマの人間関係もわかり始めた。

 エドワードについては、やはり、表面上のこんやく者であること。こいびとと呼べそうな男性がパドマにはいるようだということが察せられた。だが、エドワードがどうしてここまでパドマのことをきらうのか、パドマの恋人は誰なのか、についてまではわからない。

(そりゃそうよね……。婚約者の家に、恋人の身元がわかるものは持ち込まないか……)

 りよう水準について調べたところ、この時代にはまだ、聴診器がないことはかくにんした。では、どうやってほかの医師は心音を聞いているのか、と調べると、直接胸に耳を当てて聞くらしい。

(そりゃ、聞こえるけど……。だけど、それってどうよ……)

 どう考えてもためらいがある。

 そこで、引き出しの中にあった紙を使い、丸めて紐で縛ってみた。聴診器として使用しようと思うのだが。

 これで心音が聞こえる気がしない。

「……朝ご飯前に、ちょっと脈とか心音とか聞きたいんですけど」

 アイシャは、エドワードに提案する。

 だが、エドワードは、不気味なモノでも見るようにアイシャと紙束を眺め、それから銀のさじでスープを飲み始める。その左後ろには執事とメイドがひかえており、そっと目をせた。

「私、そのために、結婚前に来たんですよね、このしきに」

 ハイヒールの音を鳴らしながら、アイシャはエドワードにめ寄った。

「だから、毎朝、殿でんの体調を、お父さん……。じゃない、父上に報告しないといけないと思うんですよ」

 昨晩、慣れないベッドの中でいろいろ考えた。どうやって、エドワードにけんこうしんだんや診察を認めさせるか。

 思いついたのは、父の名前を出せば、意外にいけるんじゃないか、ということだ。昨日の様子を見る限り、エドワードはトマスに一目置いているところがある。

 で、あるならば、「父に報告したいから、私の診察を受け入れろ」と言うのが一番いいのではないか。

「…………」

 案の定、エドワードは数口スープを飲んだ状態で、無言のままこちらを睨みつけている。

「お手間は取らせませんっ。ちょっとだけ、お願いしますっ」

 ぺこりと頭を下げて動きを止めた。

 しばらく、その状態でエドワードの言葉を待っている。

「…………今、ここで行うのなら、許そう」

「ありがとうございますっ」

 かちゃり、とこうしつな音がし、その後盛大なため息が続く。アイシャはぴょこりと頭を上げ、満面のみをかべた。

「すみません。ちょっと、この借りますね」

 エドワードのそばにある椅子を引っ張り寄せると、あわてて執事が近づき、エドワードの近くに移動させてくれた。

「まずは、脈を取りますねー」

 よいしょ、と椅子に座り、ひとまず、紙製聴診器は、テーブルの上に置いた。

 アイシャはエドワードに向かって手をばす。むっつりと自分を見つめているエドワードだったが、執事やメイドの位置を確認するかのように、視線を左右に向け、アイシャに腕をき出した。あきらかに、けいかいしている。

(別に、おそいやしないわよ)

 ふう、と息をき、絹のシャツのそでを押し上げ、慣れた様子でアイシャは脈を取った。

(……不整脈って感じはしないな……)

 いつものくせうでけいを見たが、当然自分の手首にそんなものは巻いていない。仕方なく、かんで脈を測るが、正常値のはんだ。

「ちょっと、顔や、耳の下を失礼しますよ」

 袖口を整えてやり、今度は、エドワードの首に向かって両腕を伸ばした。

 ぎょっとしたように彼は背をのけぞらせたが、構わずアイシャはりようてのひらでがっつりと彼の顔をつかみ、親指でしたまぶたを引っ張る。なんともれいな赤色だ。貧血はなさそうに見える。ついで、リンパ節やこうじようせんしよくしんしていくが、かんはない。

「……な……」

 気持ち悪そうに自分を眺めるエドワードの様子を見る限り、この時代の医師はここまでかんじやれないらしい。

(……いちいち、やりにくいな……)

 アイシャは口をへの字に曲げながらも、エドワードに告げた。

「口を開けてもらえますか?」

「は!?」

のどの奥を見るんで」

 ぜつあつを取るために腕を伸ばしかけて、慌てて止める。そうだ、そんなものはない。照明のようなものもないが、この明るさであれば、ある程度判断できるだろう。

「はい、あーん」

 言いながら、自分でも口を開ける。エドワードはあつに取られたように自分を見つめているが、アイシャは「あーん」と言い続ける。

 しぶしぶ、といったぜいでエドワードが口を開くから、アイシャはのぞき込む。特にれやらんは見あたらない。

「ちょっとじゃあ、心音を聞かせてくださいね」

 アイシャはテーブルに放置した、筒状の紙束を持ち上げる。

「それはなんだ」

 エドワードが再び顔をしかめた。

「………ちようしん……?」

 自分でもが上がる。だれたずねているんだ、と言いたい気分だ。

「な、何をなさるんですか、それで」

 さすがにしつが言葉を差しはさんでくる。

「心臓の音や肺の音を聞こうと思うんですけど……。こんなの使ってません、よね……?」

 ぐるり、と執事やメイドを見るが、いぶかし気に首を横にる。エドワードに至っては、完全に鹿にしていた。

「他の医師は、直接胸に耳をつけて心音を聞くが、お前はそんな道具が必要なのか?」

 エドワードが鼻を鳴らす。

「やっぱりその方法か……」

 がっくりとうなだれる。だけど、衛生面やいろんなことでそれは問題がある。

「……とりあえず、ちょっとシャツを開いてくれません?」

 申し出ると、エドワードは深いため息をつき、執事に視線を向ける。心得たのか、執事はエドワードの前に回り、上着ジヤケツトのボタンを外してシャツをはだけた。

「失礼しますねー」

 アイシャはとりあえずつつせんたんをエドワードの心臓辺りにつけ、もう片方の先端を自分の右耳に押し当ててみる。

「…………」

「…………」

 たがいに気まずいちんもくが落ちていく。アイシャの耳には、聴診器からのような音が聞こえてこない。

 そっと、筒をテーブルの上に置いた。

「………はい……っ。次は、肺の音を聞きますねー」

「ちょっと待て。今のこれはなんだったんだ。説明しろ」

「あ。シャツをもどしてもらっていいですよー。背中をさわりますねー」

「おいっ。なんだったんだっ」

 りつけられたものの、アイシャは執事をかして衣服を整えさせると、ばやく立ち上がり、エドワードの背後に回る。

 診察用の丸椅子ではなく、背もたれがあるから、これはちょっと難しい。上半身をねじこむようにしても、うまく見えそうにない。

「ごめんなさい、立ってもらってもいいですか」

 うながすと、むっつりと押しだまったまま、それでも椅子のあしらして立ち上がる。

 アイシャはその彼の背中に回り、二本指でたたいていった。

 目を閉じ、耳に集中する。

 難民キャンプでも、すぐにレントゲンをってかくにんするわけにはいかなかったので、よく打診法で診察していた。これには自信がある。

(肺も、内臓も問題なさそうね……)

 水がたまったような音やにごった音はしない。まぁ、そもそも呼吸器系のしつかんがあるようには見えないのだが。

 うむぅ、と低くうめいて腕を組む。せめて血液検査ができればいいのに、と思うし、なんなら血圧計も欲しい。

「……座っていいのか」

 げんそうな声に、アイシャは慌てて顔を上げた。半眼で、けんにはっきりとしたたてじわを刻んだエドワードがにらんでいる。

「ああ、ごめんなさい。どうぞどうぞ」

 ぞんざいにそう言うと、はん、と鼻を鳴らされた。椅子に深くこしけながら、エドワードはちようしようする。

「結果的に、何がわかったんだ」

「まぁ、今のところ、貴方あなたが健康そうだ、ということはわかった」

 ああ、検査のフルオーダーをしたい、とアイシャはしたくちびるむ。エドワードは鹿にしたようにかたほおをゆがめて笑うと、再び銀のさじを持ってゆうにスープを口に運ぶ。その動作も自然で、しびれやがあるようにも見えない。

「おい」

 立ったまま、ぼんやりと様子をながめていたら、硬質な言葉をぶつけられた。

「気が散る。そこに立つな」

 エドワードがうなった。

「ああ。はい、はい」

 おざなりに返事をした時、するり、と執事が近づいてきた。

「奥方様も、どうぞお席に」

 当初、その〝奥方〟が、いったい誰を指すのかわからず、アイシャは、きょときょとと、まばたきをり返す。

「そいつはまだ、わたしの妻ではない。みような呼び方はせ」

 エドワードに吐き捨てられて、ようやく、自分が彼のこんやく者であったことを思い出した。

「さようでございますか、殿でん。それでは、おじようさま。こちらでございます」

 執事はりゆうれいに頭を下げてみせると、アイシャをエドワードの向かいの席に案内する。

 主人の不機嫌な態度やことづかいに慣れているのか、執事もメイドも、怯えた様子はない。

「あの……。手を、洗いたいんだけど」

 に座る前に申し出ると、おどろいたようにメイドが目を見開く。

「診察したし……。一応」

「わたしがきたないみたいじゃないかっ」

 すぐにせいが飛んでくるのを、アイシャは無視する。給仕が進み出て、まどったように尋ねた。

「フィンガーボウルでよろしいですか?」

「できれば、大きなやつで。洗面器ぐらいの」

「せ、洗面器、ですか……?」

 給仕がちらりと執事を見るが、執事が大きくうなずいたので、素早く準備に走る。

「別に殿下が汚いわけじゃなくて、しんさつしたらみんなそうなの」

 アイシャは言うが、もうエドワードはこっちも見ない。ふん、とばかりにそっぽを向いている。ため息をついていると、給仕が、本当に洗面器ぐらいある銀色のフィンガーボウルを持ってきた。

 ていねいに礼を言い、ざぶざぶと洗う。流水の方がいいのだろうが、そうも言っていられない。

 メイドが差し出す布で手をき、ようやく席に着く。

「……すっごい、だくさんのスープなのね」

 目の前に用意された食事を見て、目を丸くした。

 ざっと見ただけで、レンズ豆や大豆。細かく切られたベーコン、セロリ、玉ねぎが見える。

 そっと顔を近づけると、湯気に乗り、にんにくのにおいもかすかにした。コンソメなのだろうか。あわく、やさしいかおりがこうをくすぐる。

「豆のスープでございます」

 執事が告げる。アイシャはごくり、とつばを飲み込んだ。

「昨夜はあまりおし上がりにならなかったようでしたので……。ご実家の味付けとちがうようでしたら、料理長にそのむね伝えます。えんりよなくおっしゃってください」

「そいつに気をつかうな。ほうっておけ」

 エドワードにかたい声を投げられ、執事が「失礼しました」と頭を下げるので、アイシャはあわてた。自分のせいで彼がおこられるなど、とんでもない。

「昨日はいろいろと……。がありすぎて、ちょっと食欲がなかったの」

 何しろ、気づけば過去にタイムスリップするわ、いなくなっていると思っていた〝パドマ〟は心の中で閉じこもっているわ、と情報量が多すぎた。

 そのうえ、れい作法もわからない。食事中も、エドワードとの会話は全くなく、こちらが話しかけても無反応。食器がれ合う以外音のしない食事は非常に気まずく、結局、ほぼ手つかずで食事を残してしまっていた。

「ごめんなさい、心配かけて。あの……」

 だいじようですから、と声をかけようとした時、ぐう、と盛大に腹の虫が鳴いた。

 ひだりどなりひかえていたしつは目線を下げ、右隣に居たメイドはつつましく、顔をせる。

 耳まで真っ赤になって銀色の匙を取り上げると、ちりりとした視線を頬のあたりに感じた。

「………おなか、空いてて……っ」

 言い訳する視線の先で、エドワードがわらっている。

「健康なことで、何よりだな」

 白いパンをちぎり、無造作に口に運んでいる彼は、明らかに馬鹿にしていた。

(……く……っ。この最低王子めっ)

 心の中で毒づき、ざくり、と具沢山スープに匙を入れる。口に運ぶと、ぜつみような塩気とベーコンの風味に、うう、と声がれた。

「おいしい……」

 豆のざわりもいいし、とろけた玉ねぎとセロリが、するりと舌をすべる感じもいい。

(……〝パドマ〟が閉じこもっている以上、とにかく私がしっかりしなくちゃ……)

 せわしなく匙を口に運び、強く自分に言い聞かせながらも、スープに目を落とす。

(……おうこう貴族だから、こんなごうな食事なのかな……)

 いつぱんしよみんはどのようなものを食べているのだろう。

「いつも、こんな感じ?」

 つい、エドワードに声をかける。

 優雅なしぐさでティーカップを口元に寄せていたエドワードは、無言でにらんできた。

「スープと、パンと、あと卵料理とか……?」

 彼の態度を無視し、話を続ける。これぐらいで遠慮していては、聞きたいことも聞けない。

「お前の実家は違うのか」

「いや、こんな感じ……、かな?」

 答えながら、だとしたら、かつかいけつびようなどの栄養素のかたよりによって起こる病気は考えにくい。自分の中で消去したたん、不意にひらめいた。

「あ───っ!」

「なっ! うわっ!」

 とつじよアイシャがさけんだからか、エドワードは飲んでいた紅茶をき出し、給仕と執事が慌てて彼にけ寄る。

「アレルギーない!? 食べ物のっ!」

 椅子をたおす勢いで立ち上がるが、紅茶カップを取り上げられ、まつを拭き取られたり、せき込む背中をでられたりしているエドワードは、答えるゆうもない。

しようじようが出るだけじゃなくって、きらいな食べ物って、せんざい的に……」

「うるさいっ!」

 げほがほ、とせき込む合間にエドワードがせいを発した。

「お、お前……っ。いきなり、大声とか……っ」

「大事なことなのよっ! アナフィラキシーショックじゃないのかな、って思って!」

 エドワードを上回る大声で言い返す。

「……アナフィラキシー? なんだそれは」

 口元をハンカチでぬぐいながら、エドワードはこんいろひとみをアイシャに向けた。アイシャは、目を丸くしておくる。

(そうか。アナフィラキシーって、この時代から三百年後に論文発表されたんだっけ)

 この時にはまだ、がいねんすらないのだ。アイシャはしんちように言葉を重ねる。

「特定の成分が入った食物を食べたら、身体中がじように反応して、死ぬ場合があるの。ねんまくがすべてれあがって、息ができなくなったり、血圧が上がったり、たくさんの臓器が機能不全を起こしたり……」

 アイシャは、ぐるり、と食堂を見回した。メイド、執事、給仕。彼らを眺め、うつたえる。

「ねぇ、教えて。彼が、何か食べた後、かゆみや痛みを訴えたことはなかった?」

 当初はめんらっていた彼らだが、だいに顔を見合わせ、「どうかしら」「いや、覚えはないな」と小声で言い合う。

「よくあるのは、カニとかエビとかのこうかく類。それから、果物なんかもそう。キウイ、モモ。ああ、そうそう。乳製品や卵とかに反応する人もいるわね」

 指を折って単語をれつする。執事は真面目まじめにそれらを聞いていたが、きっぱりと首を横にった。

「わたくしの記憶では、それらのものを食したのち、殿下が体調不良やかゆみを訴えられたことはございません」

「……そう、なのね……」

 らくたんし、どすん、と椅子にこしを下ろした。健康だったのに、ある日とつぜん、病死。アナフィラキシーショックなら、説明がつく、と思ったのだが。

「全く、白々しい」

 代わりに立ち上がったのは、エドワードだった。視線だけ上げると、口元を拭いたハンカチをテーブルに投げ出し、彼はれいたんに笑う。

「わたしの身体からだを心配するふりは、よしたらどうだ?」

「本当に心配してるんだって」

「どうだか」

 彼の視線をはじき返すように睨みつける。何しろ、彼が死ねばアイシャのしよけい率が上がり、国は戦火に包まれるのだから。

(なんでこんなに〝パドマ〟をけいかいするの? トマスは彼のばつでしょうに……。〝パドマ〟はそのむすめよ?)

 知らずにため息が口から漏れる。

(だけど、〝パドマ〟は彼のどんな異変に気付いたんだろう……)

 アイシャは額を手でおおう。同じ医師なのに、彼のどこに死のへんりんを見たのか、全くわからない。

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