二章③
次の日の朝。
「……それは、なんだ」
顔を合わせるなり、エドワードは眉を寄せてアイシャを
「……紙製
ゆるり、と右手に
一応、歴史としては、聴診器の初期型は、厚紙を筒状にして
昨晩。夕食が終わると同時に、アイシャは、パドマの部屋に引きこもった。
彼女が書いた文書や医学の覚え書き、手帳のようなものを片っ
とにかく、何もかもがわからないのだ。
夕飯の時でさえ、作法がわからず、同席したエドワードを
アイシャは次々と頭の中に
パドマの、かなり私的な部分に土足で立ち入ることに多大な申し訳なさがあったのだが、
彼女の書き残した文書をたどっていくと、
エドワードについては、やはり、表面上の
(そりゃそうよね……。婚約者の家に、恋人の身元がわかるものは持ち込まないか……)
(そりゃ、聞こえるけど……。だけど、それってどうよ……)
どう考えてもためらいがある。
そこで、引き出しの中にあった紙を使い、丸めて紐で縛ってみた。聴診器として使用しようと思うのだが。
これで心音が聞こえる気がしない。
「……朝ご飯前に、ちょっと脈とか心音とか聞きたいんですけど」
アイシャは、エドワードに提案する。
だが、エドワードは、不気味なモノでも見るようにアイシャと紙束を眺め、それから銀の
「私、そのために、結婚前に来たんですよね、この
ハイヒールの音を鳴らしながら、アイシャはエドワードに
「だから、毎朝、
昨晩、慣れないベッドの中でいろいろ考えた。どうやって、エドワードに
思いついたのは、父の名前を出せば、意外にいけるんじゃないか、ということだ。昨日の様子を見る限り、エドワードはトマスに一目置いているところがある。
で、あるならば、「父に報告したいから、私の診察を受け入れろ」と言うのが一番いいのではないか。
「…………」
案の定、エドワードは数口スープを飲んだ状態で、無言のままこちらを睨みつけている。
「お手間は取らせませんっ。ちょっとだけ、お願いしますっ」
ぺこりと頭を下げて動きを止めた。
しばらく、その状態でエドワードの言葉を待っている。
「…………今、ここで行うのなら、許そう」
「ありがとうございますっ」
かちゃり、と
「すみません。ちょっと、この
エドワードの
「まずは、脈を取りますねー」
よいしょ、と椅子に座り、ひとまず、紙製聴診器は、テーブルの上に置いた。
アイシャはエドワードに向かって手を
(別に、
ふう、と息を
(……不整脈って感じはしないな……)
いつもの
「ちょっと、顔や、耳の下を失礼しますよ」
袖口を整えてやり、今度は、エドワードの首に向かって両腕を伸ばした。
ぎょっとしたように彼は背をのけぞらせたが、構わずアイシャは
「……な……」
気持ち悪そうに自分を眺めるエドワードの様子を見る限り、この時代の医師はここまで
(……いちいち、やりにくいな……)
アイシャは口をへの字に曲げながらも、エドワードに告げた。
「口を開けてもらえますか?」
「は!?」
「
「はい、あーん」
言いながら、自分でも口を開ける。エドワードは
「ちょっとじゃあ、心音を聞かせてくださいね」
アイシャはテーブルに放置した、筒状の紙束を持ち上げる。
「それはなんだ」
エドワードが再び顔をしかめた。
「………
自分でも
「な、何をなさるんですか、それで」
さすがに
「心臓の音や肺の音を聞こうと思うんですけど……。こんなの使ってません、よね……?」
ぐるり、と執事やメイドを見るが、
「他の医師は、直接胸に耳をつけて心音を聞くが、お前はそんな道具が必要なのか?」
エドワードが鼻を鳴らす。
「やっぱりその方法か……」
がっくりとうなだれる。だけど、衛生面やいろんなことでそれは問題がある。
「……とりあえず、ちょっとシャツを開いてくれません?」
申し出ると、エドワードは深いため息をつき、執事に視線を向ける。心得たのか、執事はエドワードの前に回り、
「失礼しますねー」
アイシャはとりあえず
「…………」
「…………」
そっと、筒をテーブルの上に置いた。
「………はい……っ。次は、肺の音を聞きますねー」
「ちょっと待て。今のこれはなんだったんだ。説明しろ」
「あ。シャツを
「おいっ。なんだったんだっ」
診察用の丸椅子ではなく、背もたれがあるから、これはちょっと難しい。上半身をねじこむようにしても、うまく見えそうにない。
「ごめんなさい、立ってもらってもいいですか」
アイシャはその彼の背中に回り、二本指で
目を閉じ、耳に集中する。
難民キャンプでも、すぐにレントゲンを
(肺も、内臓も問題なさそうね……)
水がたまったような音や
うむぅ、と低く
「……座っていいのか」
「ああ、ごめんなさい。どうぞどうぞ」
ぞんざいにそう言うと、はん、と鼻を鳴らされた。椅子に深く
「結果的に、何がわかったんだ」
「まぁ、今のところ、
ああ、検査のフルオーダーをしたい、とアイシャは
「おい」
立ったまま、ぼんやりと様子を
「気が散る。そこに立つな」
エドワードが
「ああ。はい、はい」
おざなりに返事をした時、するり、と執事が近づいてきた。
「奥方様も、どうぞお席に」
当初、その〝奥方〟が、いったい誰を指すのかわからず、アイシャは、きょときょとと、まばたきを
「そいつはまだ、わたしの妻ではない。
エドワードに吐き捨てられて、ようやく、自分が彼の
「さようでございますか、
執事は
主人の不機嫌な態度や
「あの……。手を、洗いたいんだけど」
「診察したし……。一応」
「わたしが
すぐに
「フィンガーボウルでよろしいですか?」
「できれば、大きなやつで。洗面器ぐらいの」
「せ、洗面器、ですか……?」
給仕がちらりと執事を見るが、執事が大きくうなずいたので、素早く準備に走る。
「別に殿下が汚いわけじゃなくて、
アイシャは言うが、もうエドワードはこっちも見ない。ふん、とばかりにそっぽを向いている。ため息をついていると、給仕が、本当に洗面器ぐらいある銀色のフィンガーボウルを持ってきた。
メイドが差し出す布で手を
「……すっごい、
目の前に用意された食事を見て、目を丸くした。
ざっと見ただけで、レンズ豆や大豆。細かく切られたベーコン、セロリ、玉ねぎが見える。
そっと顔を近づけると、湯気に乗り、にんにくの
「豆のスープでございます」
執事が告げる。アイシャはごくり、とつばを飲み込んだ。
「昨夜はあまりお
「そいつに気を
エドワードに
「昨日はいろいろと……。環境変化がありすぎて、ちょっと食欲がなかったの」
何しろ、気づけば過去にタイムスリップするわ、いなくなっていると思っていた〝パドマ〟は心の中で閉じこもっているわ、と情報量が多すぎた。
そのうえ、
「ごめんなさい、心配かけて。あの……」
耳まで真っ赤になって銀色の匙を取り上げると、ちりりとした視線を頬のあたりに感じた。
「………お
言い訳する視線の先で、エドワードが
「健康なことで、何よりだな」
白いパンをちぎり、無造作に口に運んでいる彼は、明らかに馬鹿にしていた。
(……く……っ。この最低王子めっ)
心の中で毒づき、ざくり、と具沢山スープに匙を入れる。口に運ぶと、
「おいしい……」
豆の
(……〝パドマ〟が閉じこもっている以上、とにかく私がしっかりしなくちゃ……)
せわしなく匙を口に運び、強く自分に言い聞かせながらも、スープに目を落とす。
(……
「いつも、こんな感じ?」
つい、エドワードに声をかける。
優雅なしぐさでティーカップを口元に寄せていたエドワードは、無言で
「スープと、パンと、あと卵料理とか……?」
彼の態度を無視し、話を続ける。これぐらいで遠慮していては、聞きたいことも聞けない。
「お前の実家は違うのか」
「いや、こんな感じ……、かな?」
答えながら、だとしたら、
「あ───っ!」
「なっ! うわっ!」
「アレルギーない!? 食べ物のっ!」
椅子を
「
「うるさいっ!」
げほがほ、とせき込む合間にエドワードが
「お、お前……っ。いきなり、大声とか……っ」
「大事なことなのよっ! アナフィラキシーショックじゃないのかな、って思って!」
エドワードを上回る大声で言い返す。
「……アナフィラキシー? なんだそれは」
口元をハンカチで
(そうか。アナフィラキシーって、この時代から三百年後に論文発表されたんだっけ)
この時にはまだ、
「特定の成分が入った食物を食べたら、身体中が
アイシャは、ぐるり、と食堂を見回した。メイド、執事、給仕。彼らを眺め、
「ねぇ、教えて。彼が、何か食べた後、かゆみや痛みを訴えたことはなかった?」
当初は
「よくあるのは、カニとかエビとかの
指を折って単語を
「わたくしの記憶では、それらのものを食したのち、殿下が体調不良やかゆみを訴えられたことはございません」
「……そう、なのね……」
「全く、白々しい」
代わりに立ち上がったのは、エドワードだった。視線だけ上げると、口元を拭いたハンカチをテーブルに投げ出し、彼は
「わたしの
「本当に心配してるんだって」
「どうだか」
彼の視線を
(なんでこんなに〝パドマ〟を
知らずにため息が口から漏れる。
(だけど、〝パドマ〟は彼のどんな異変に気付いたんだろう……)
アイシャは額を手で
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