第44話 五番目の星

 私は約束の一二時が近づいて来ると、もしかしたら遥香は来ないかもしれないと思って、だんだん不安になって来た。理央は待ち合わせ場所で会おうと言って先に家を出たので、一人で遥香と約束した紀伊国屋書店新宿本店前に来た。

 理央が予約したランチの店は初めて行く場所なので、約束の時間の三十分前に新宿に来て、場所を確かめてからここに来た。幸いお店はすぐに分かったので十五分前に着いた。 恐ろしく長い十分が過ぎると、珍しく五分遅れて遥香が現れた。その姿を見て、私は息を飲んだ。

 華やかな薄いピンクのレースワンピースに、しっとりと上品な質感のスエード素材でノーカラーのガウンコートを羽織った春らしいフェミニンな装いは、会社では見たことがない私だけのための演出だった。

 遥香は美しい顔を更に輝かせていた。

「遅れてごめんなさい。ちょっと慣れなくて時間がかかっちゃって」

 これも会社では聞いたことのない、甘えた感じで言い訳をした。

「いや、まったく問題ないよ。それよりも、今日はいつも以上にきれいで、自分が犯罪を犯しているようだ」

 私の限界を超えた誉め言葉だったが、遥香にはジョークに聞こえたようだった。それでも嬉しそうに微笑みながら、「行きましょう」と促し、連れ添って理央の予約した店に向かった。

 理央の予約した店は、ランチ三千円のカジュアルフレンチのレストランで、既に理央は来ていたが、同年代の外国人の男の子と一緒でびっくりした。

「初めまして、星野理央です。今日お会いするのを楽しみにしてました。隣にいるのは、高校の同級生のノア・モーリーです。小学校からのつきあいで、今は本格的に付き合ってます」

 理央は臆することなく、自分と連れてきた男の子を紹介した。ノア・モーリー、まさか。

「もしかして、ミニバスのコーチをしていたモーリーさんの息子さんですか?」

「そうです。私はこれまで星野さんを何度かお見掛けしたことがあります」

 小学校の頃の金髪巻き毛のかわいらしい男の子は、身長は一九〇センチに届きそうな、逞しい男に変身していた。

「私はあなたのお父さんに危ういところを救われた恩があります。あの時はアメリカ人の信念にかける思いに感動しました」

 理央が小学生時代に巻き込まれたトラブルが蘇って、懐かしくなった。

「まあまあ、いきなりで驚かせて悪いけど、私もちょっと緊張するからノアに来てもらったの。それより早く紹介してよ」

「そうだな。こちらが長池遥香さん。父さんと一緒に働いている。先日結婚を申し込んだ女性だ」

 婚約者であることを改めて紹介すると、遥香は少しハニカミながらそれでも嬉しそうに笑顔になった。

「長池遥香です。私も今日は緊張しています。これからよろしくお願いします」

 不思議なことに理央よりも遥香の方が緊張していた。こんな遥香は職場では見たことがない。

「遥香さん、一つ聞いてもいいですか?」

「何ですか?」

「本当に三年後に結婚でいいんですか?」

「私たちは上司と部下の関係でずっと過ごしていて、こんな風に会うのはまだ二回目なんです。だから三年間も恋人同士でいられるなんて、嬉しいです」

 確かにビジネス以外の会話はほとんどしたことがない。遥香の本音だと思った。

「分かりました。それは置いときます。じゃあこれを見てください」

 理央はリフォーム屋と打ち合わせて作ってもらった、簡易間取図を出してきた。

「家はこんな風にリフォームします。工事が終わったら、一緒に住むんですよね。まだ婚約だから遥香さんの部屋も作ります。週末は祖母の家に泊まることも了承済みです」

「理沙さんのお母様ももう知ってるんですか?」

「ええ、大賛成で今日は妹の沙穂のために吉祥寺の家に来てくれています」

 こんなに手回しがいいのは、何か不気味だった。

「私、大学に入ったらノアと一緒にアメリカに留学したいんです。時期は教養課程を終了後に一年くらい。その時は沙穂も中学生ですから。でも父を一人にするのは不安だったんです。父のことよろしくお願いします」

 そんなことを考えていたのか。娘の成長を喜ぶ半面、寂しさがこみあげてくる。

 一方で普通に訊けば無条件ではうんとは言えない話を、うまく切り出されたことに気づいた。きっと美穂子とはこの話をしていたに違いない。

 そういう意味では自分は通常の父親よりも、若干重たい存在だったのかもしれない。

 私の一生懸命さや捨てて来たものの大きさに、理央は少なからず遠慮が生まれていたのだろう。

 それを察して美穂子が私の再婚を切り出したのかもしれない。きっと私のためというよりも理央の負担を軽くするために。私は改めて母親という種族が持つ独特の嗅覚に、敬意を示さずにはおれなかった。

 料理が運ばれてきた。理央の選んだ店は、とても美味しいフランス料理だった。ノア君も多弁になり、四人の会話も弾んだ。

 ノア君は高校生とは思えないほどしっかりした男だった。将来も生まれ育った日本で暮らしたいが、自分の父親のようなアメリカ人的なものの見方や考え方は身に付けたい。

 だからアメリカに行って、多くの人とのコミュニケーションからそれを確立したいのだ。

 驚くべきはその考えに理央も同調し、そうしたノア君をサポートするために渡米するという。そういう強い行動力はまさに母親譲りだ。

 遥はまだ十六才の二人のしっかりとした生き方に感心したようだ。目的を持ってそれを一つ一つ実現していく。そんな個の確立が眩しいと言った。そして自分もその家族と成って見守りたいと言ってくれた。

 今日の感じだと理央と遥の相性は悪くなさそうだ。この中で唯一の小心者である私は、そのことにただ安堵した。

「あの、遥香さんに言っておかなければならないことがあります」

 理央が改まってまじめな顔で向き直った。

「はい」

 遥香も理央のただならぬ雰囲気を察して姿勢を改めた。

「私はお母さんの連れ子で、お父さんとは血のつながりはないんです。だからお母さんが命を失ったとき、お父さんは私の面倒をみる必要なんてないと思っていました」

 理央の話に私は顔色を失った。遥香の緊張が伝わって来る。

「でも、何でも我慢していた私に、お父さんはお母さんが言ってた話をしてくれました。お母さんは私と同じ四月生まれで、アリエスなんです。アリエスは四つの星から成っていて、お母さんはアリエスのように四人でずっと輝いていたいと言っていました。お父さんはお母さんが死んでも、アリエスは四つの星が輝き続けています。だから私たちもつながっていると言ってくれました。そのとき私はお父さんと本当の親子に成れた気がしました」

 理央の今までの人生で、アリエスが本当に心の支えだったんだと実感した。同時に遥香には少し辛い話だと心配になった。アリエスには星は四つしかない。

「でも、私は調べているうちに、アリエスにはもう一つ星があることを知ったんです。ハマル、シュラタン、メサルティム、バラニー、通常はこの四つで構成されてるとされますが、実はバラニーという星が少し離れたところで四つの星を見守るように輝いているんです。私にはバラニーがお母さんのような気がしてたんです。だから遥香さんは私たちと一緒にアリエスの星になってください」

 遥香が懸命に涙を堪えて、何度も瞬きをしながら頷いている。

「それでお願いがあります」

 理央の顔に悲壮な色が出ている。

「何があっても、絶対にお父さんより先に死なないでください。絶対に……」

 理央も話しながら涙が流れていた。

「はい」

 遥香はやっとの思いで返事をした。

 私はもう、涙でぐちゃぐちゃだった。ノア君が立ち上がって、理央の肩に手を置いても、今日は気に成らなかった。

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