第45話 魂が震えた夜

 最後のコーヒーを飲んで会計を済ませると、二組に分かれて私と遥香は、エンゲージリングを買いに伊勢丹本店に向かった。理央がネットで検索して、伊勢丹のブライダルリングアテンドサービスを申し込んでくれたのだ。

 嬉しそうに歩く遥香の横顔を見ながら、会社の中ではついぞ見たことのない可愛さを感じた。元々仕事中の遥香の聡明さと、誠実な仕事ぶりに惹かれて結婚を申し込んだのだが、こういう女性らしい可愛さに触れることができるなら、自分のプライベートは想像以上に幸せになるだろうと嬉しくなった。

 当初は梅川やロスの言葉で、これからの自分の働き方について真剣に考え、導き出した結果だった。それは、六年間尽くしてくれた遥香の夢を、実現するための支えになりたいという気持ちだった。

 だが、自分が遥香に与えようとする幸せ以上のものを、彼女から与えられている自分に気付く。思いも寄らなかった理央や美穂子の応援も嬉しかった。もう迷わず決めた道を信じて行こうと思った。


 連休明け、梅川との約束により自分の執行役員就任に関する返事をするために、フェリックスの部屋に向かった。そこには、私からお願いして来てもらったロスの姿もあった。

「では、星野さんの返事を聞かせてもらおう。期待しているよ」

 フェリックスは自分の提案が拒否されるなど、まったく考えてない様子だった。梅川は一番私のことを知るだけに、落ち付かない様子だった。ロスは自身が原因であることを自覚してか、どうなっても受け入れるという風だった。

「では私の結論を報告します。今回のお話は辞退します」

 ロスは無表情に受け流した。梅川はやっぱりという風に下を向いた。フェリックスは驚いて、「なぜ、理由を聞かせてくれ?」と聞いてきた。

「私は経営メンバーには加わりません。理由はこれから話す提案の方が会社のためになると判断したからです。今からそれを話してよろしいでしょうか?」

 フェリックスは急かすように「プリーズ」と言った。

「コミュニケーション部に、経営戦略に特化したニュースを、社内外に伝え浸透させるミッションを負う、特殊チームを作っていただきたいのです。そして、経営会議に議決権を持たないメンバーとして、そのチームのトップを加えて欲しい」

「議決権を持たないメンバーとはどういう役割だ?」

 フェリックスは今一つ合点がいかないといった顔で聞いた。

「経営会議のメンバーなので、経営会議には必ず参加し、提案権と質疑を行う権利を持ちます。そして決まった内容を社内外に発表する計画を作ります。そのチームで発表内容を作ることもあれば、IRのように作られた原稿を確認しアレンジする権限を持ちます」

「それはどんな効果を生むんだ」

 フェリックスは懐疑的な面持ちで聞いてきた。

「これからの時代は社内外を問わず、情報発信の巧拙で経営の成果が大きく左右されると思います。だが経営メンバーは経営のプロであっても情報発信のプロではない。そこで発信技術に精通し、その時々の状況に合わせて情報の価値を測れる人間に、経営情報を全て知らせて情報戦略をコントロールしてもらうのです」

「ナイス」

 ロスが嬉しそうに私の提案を肯定した。

「その役割を君が負うのか?」

 フェリックスは、それならOKだという顔をした。

「いえ、そのチームのトップには、私の部下の長池遥香さんを推薦します」

 その瞬間、フェリックス以下三人は一様に驚いて言葉を飲んだ。次にロスが「ククク」と笑い出した。

「それは長池君が承知しまい。彼女が今君のチームを動く気がないことは、君と私とで確認したじゃないか。それに彼女はまだ若すぎる」

 梅川が無理を言うなと、言わんばかりに否定した。

「若さは関係ありません。これからのTECGは、能力次第で相応のポジションをアジャイルに与える会社のはずです。それに社長自身十分に若い」

 確かに五○才の社長の下に、三四才の準執行役員がいても不思議ではない。しかも議決権を持たないなら風当たりも小さいはずだ。

「しかし、彼女は承知しないだろう。能力の話ではない。誰が見たって彼女は君の下から動かないぞ」

 梅川は本人が承諾しない事態を心配して私に忠告した。

「梅川さんの心配する問題は解決しました。この場で報告するのは恥ずかしいですが、私は長池遥香さんと婚約しました。三年以内に結婚する予定です」

 ヒューとロスが口笛を吹いた。梅川は唖然として私の言葉の意味を再度確かめようと口を開きかけたときに、

「いいよ、そのアイディアいいよ。ダイバーシティの典型的なロールモデルに成るし、経営発表するコンテンツに公私に渡って君が関与できる」と、フェリックスの口からあっさりと承諾の言葉が出た。

「おめでとう。私は個人的に君と遥香を祝福する」

 ロスが心底嬉しそうに握手を求めてきた。

「まったく、君ってやつは……」

 最後まで私を御し仕切れなかった悔しさと、期待をいい意味で裏切るあっぱれさが相混じったのか、梅川は口ごもって多くを語らなかった。しかしその表情は私の提案を承諾していた。

 私は三人に対しダメ押しとして、もう一つ用意している話をした。

「今日はこの話とは別に、報告するべきことがあります。先日高倉源治さんがやってきて、ロスの退職に伴う高倉家の反応を教えてくれました」

 それから私は源治から聞いた話を、主観を一切交えず正確に伝えた。その間聞いている三人は一切言葉を挟まず真剣に聞き入った。

「その件に関して慎一の意見はどうなんだ?」

 あまりにも客観的な報告に、フェリックスから意見を求められた。

「対応によっては、国内売り上げだけではなく、海外の従業員に対しても少なからず影響があると思います」

 そして、私は今度はポイントに応じて自分の見解を指し込みながら、源治の話を最初から最後まで話した。

 話を最後まで聞き終えると、フェリックスとロスは深刻な顔になった。打開策が思い当たらないのだ。特に現役の有永が絡んでいるだけに、大きなお家騒動になる可能性がある。

 それでも梅川だけは涼しい顔で私を見て言った。

「既に何らかの対処はしたんだろう。早く話せよ」

「実は、源治さんの仲介で孝一さんに会いました。話してみて分かったのですが、孝一さんは確かに会社経営といった実業には向かない優しい性格でした。お母様の暴走に心を痛めていても、自分のふがいなさを感じて何も言えないご様子でした」

「何も言えないと言ってももう五十才を超えてるだろう」

 梅川は情けないという感情を露骨に表した。

「ビジネスの世界に生きてる人間からするとそう思われるかもしれません。だからこそ感受性豊かで競争の嫌いな孝一さんにとって、高倉家に生まれたということは辛いことで、普通の家に生まれたかったのだと思います」

 フェリックスとロスは黙って聞いている。

「ただ、祖父にあたる将治さん、叔父である將志さんのことは実によく覚えていて、実業家ではなく人間としての側面からお二人を描けることが分かりました」

「まさか」

 私がそこまで言うと、流石は梅川には何を言おうとしているのか分かったらしい。

「そうです。私は社史編纂室長として、孝一さんに将治さんや將志さんの人としてのエピソードを綴ってもらうことを提案しました。その代償として非常勤の特別嘱託として社史編纂室のメンバーになってもらいます」

「ご本人は了承したのか?」

「こんな形で高倉に貢献できることは嬉しい、無給でいいとおっしゃいました」

「美枝さんは了解したのか?」

「はい、とても喜んでいられました。そして、社史編纂室が存続する限り現経営体制を支持するともおっしゃいました」

 三人とももう何も言わなかった。今回ばかりは自分でも会心の調整だったと胸を張った。


 その夜、私は書斎のデスクに置かれたパソコンに向かって、株主総会までのシナリオを作成していた。

 理央と沙穂は既に熟睡しており、私の作業を邪魔する者は誰もいなかった。

 静まり返った部屋の中では、蛍光灯のうなりとエアコンの風切り音がやけに耳に響く。

 このシナリオを明日遥香に渡せば、遥香の上司としての自分の仕事は終了する。そこからは遥香の新ポジションでの初仕事となる予定だ。

 最初の書き出しはやけに時間がかかった。頭の中では真のグローバル企業に変貌しようとするTECGの現経営陣の顔が思い浮かび、一方で高倉電機を立ち上げ育て上げてきた創業者一族の顔が横切る。

 それぞれの思いが私の中で融合した時、創業者である高倉将造が語り掛けて来る。その声に耳を澄ませ、心の中に深く取り込んでいくと、将造と触れ合った私の魂が震えてくる。

 やがてシナリオのテーマが浮かび上がって来た。

「チャレンジ&ハーモニー」

 テーマが見えた途端に、それに沿ったシナリオが、高倉将造が目の前にいて語りかけているように、私の頭に次々と聞こえて来る。それらを次々に打ち込もうとする手を、私は落ち着いて押しとどめる。

「慌てなくてもいい。どうしたらより多くの人に伝わるのか、じっくり考えて文字にするんだ」

 矢継ぎ早に浮かんでくる言葉の波をかき分けながら、本当に必要な言葉を見つけ出していく、その作業を夢中で行ううちに、将造がこの時代に生きていたら何を考え、何を行動しようとするのか見えて来る。

 そして将治や將志も現れて諭すかのように私に語り掛けて来た。やがて蛍光灯のうなりもエアコンの風切り音も消えて、キーボードを叩く音だけが名曲を奏でるピアノの音のように私の中で鳴り響く。

 夜はどんどん更けていき、朝日が届く時間が近づいて来た。それでも高揚した精神は肉体の疲れを凌駕し、シナリオは高倉家からのメッセージとしてその形を確かなものにし始めた。

 このまま朝を迎えれば、確実に身体にダメージは来るだろう。しかし、今でなければ再び彼らは現れないかもしれない。

 その思いが、私の創作の手を止めることを許さなかった。

 ふと、自分の心を包んでいる悦びに気付く。グローバル化の嵐の中で漂うTECGという名の巨船を、創業者の思いを組みながら日本で唯一の企業に導く羅針盤に自分はなる。そこには地位も名誉も報酬も期待できないが、これらに拘る気持ちは既に払底されていた。

 先の見えない時代に、社史編纂を通して創業者の心に触れ、明日向かう方角を指し示す、その悦びが誰に理解されずともいい。自分の選んだ道は、光り輝きながら前に続いて行くのだ。

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