第42話 嵐の予感
昨年実施した経営方針会議は、今年から株主総会前の五月中旬に実施される。私のチームはそこで実施されるアワードの中で、特にアジャイル賞の選考を任されていた。
これはフェリックスから直接指名されて私が請け負ったタスクだ。フェリックスは、「他の二つのキーワードは事業環境と成果を見れば、納得性を伴なう選出が可能だ。だがアジャイルは違う」と言った。
それは梅川もロスも、指名された私も同感だった。この賞の受賞理由に、今後のTECGの企業カラーが左右される。既存の欧米の多国籍企業の後を追うのか、日本独自のグローバルカンパニーとして先鞭をつけられるのか。
以前の私だったらしり込みして辞退するような大役だが今回は違った。やってみたいと思った。今年の誕生日が来れば四四才に成る。シンガポールに発った長澤に影響されたのか、それとも優秀なチームメンバーに触発されたのか分からないが、明確なのは理沙を失ってから初めて、自ら難題に取り組もうとしたことだ。
青島と里香は、演出上の課題として会議全体をTECGカラーで編成するミッションがあるので、この仕事は遥香と春馬の三人でやらなければならない。二人をどう活かすかが成功への鍵となる。
付き合いの長い遥香の役割は既にイメージできている。類まれな情報収集能力と分析能力を駆使した判断力で、膨大な推薦データを整理してもらう。おそらく彼女も今回のミッションが来た時点で、自分の役割を自覚しているはずだ。
問題は未知数の春馬をどう使うかだ。遥香のアシスタントとして使う方法はある。一般的には経験の少ない彼には、その仕事が適任だろう。だが、私にはそれがベストとは思えなかった。
そう思った最大の理由は、遥香の類まれな能力は学んで身に着いたものではないと言うことだ。彼女自身が生まれつき持つ、ある意味天才のパーソナリティに寄って発揮されているものなのだ。
言い方を変えれば、彼女はその方法で自分と異質の人間と協業はできない。むしろパフォーマンスが低下する恐れがある。
一方、春馬には別の魅力を感じる。一言で言えば情熱だ。春馬から発せられる熱い気持ちは、このチームにはないものだった。熱さは別の一面として視野を狭めて、遥香の得意とする分野には適さない。もっと深く掘り下げて誰も気づかなかった意味を付加する仕事をさせるべきだ。
「高木君はこれから二週間、私の指定する資料を読んでくれないか?」
「はっ」
遥香を交えた三人のミーティングで、私は敢て春馬にファジーな指示を出した。それは彼にとって、今回の仕事で戦力外通告を受けた感じがしたようだ。それでも、すぐに反発はしない、右足に貧乏ゆすりさせながら、必死で私の命令の意味を考えている。
「言っておくがこれは遊ばせようと思っての指示じゃない。この後の作業で必要になると思うから命じたんだ。もし、必要な時にスタンバイできていなければ、その時私は君を戦力外と考えるよ」
私の厳しい言葉に、春馬は一瞬たじろいだがすぐに元気良く答えた。
「室長の狙いは今は分かりませんが、がむしゃらに読ませていただけます」
こういう姿勢は営業育ちならではのものだ。まず上司の指示に従う。そして自らの行動を通して独自の意見を育てる。これこそがTECGの伝統だなと感じた。
打ち合わせを終えると、遥香は早速自分の仕事を開始した。予想通り既にやるべきことのアウトラインは描けている。そのまったく隙のない動きに、こちらは任せて大丈夫だと自分の見たてに自信を持った。
春馬に読ませる資料を指示しようとした時、梅川から電話がかかってきた。電話に出ると緊急招集だった。
「申し訳ない、梅川さんが呼んでいる。帰ってきたら資料を指示する」
「分かりました。それでは、室長の社内発表原稿を読んでいます」
春馬の言葉に私は安心した――こいつ真意は分からなくても、本能的にするべきことを理解している――きっと成果を出してくれると確信した。
「ええっー」
梅川は三五階の自分専用の役員個室に私を呼んだ。そこで梅川が切り出した話は、驚きの声を上げさせるだけの十分な衝撃があった。
その話とは、アレクサンダーロスの転職だった。
「まだ一年じゃないですか。このまま頑張ればフェリックスの後も狙えるのに」
言ってからしまったと思った。梅川もその候補であることは間違いない。私の戸惑った表情に、梅川は冒頭の厳しい表情を崩して笑った。
「私のことを気にすることはない。そんな気遣いよりもシリアスな問題だ」
「株主総会前ということですよね」
「そうだ。去年は君のおかげで危険な状態を回避できたが、それでも無風だとは言い難かった。外国人社長に対する不信感は思ったよりも根強い」
「対策を打つにしても後二カ月しかありません」
「こう言う問題は発表してから反応を見てみないと、どこに火種があるか分からないものだ。しかし火が点いてから動き出すには時間がなさすぎる」
「でもどうして……ロスはどこに行くんですか?」
「Pearだ。ジョセフから年俸三千万ドルで副社長として引き抜かれたんだ」
Pearなら分かる。年俸も大きいが、それ以上にジョセフは今年七二才だ。今年五二才のフェリックスに比べれば後継者になるチャンスは格段に大きい。ロス五四才、梅川五三才とTECGの社長を狙うのはフェリックスが引き抜かれたり、会長と成るときのワンチャンスだけだ。もちろんフェリックスが若すぎることが原因だが。
「これを止めることは私にはできない」
それはそうだ。ここで止めれば社長レースからリタイア宣言するのと同じだ。梅川はロスを押しのけて社長に成ることができなくなる。
「フェリックスは何と言ってるんですか」
「グッドラック、アメリカ人のフェリックスとしては何も問題ない話だし、Pearの副社長に成る人間に、一年間働いてもらった事実は、彼を見つけ出した本人としては、むしろ満足できる結果じゃないか」
「そうなると引き留めは無理ですね」
「そうだ、それは同時に株主総会の嵐を予感させる。下手するとフェリックスの解任が決議されかねない。そしてイコールTECGの改革の終わりを意味する」
「誰が何を言い出すか、予想がつかないですね」
「まずはこの事態に対し誰がどのような態度をとるか見極めていくしかない」
いつもの梅川の口調ではなかった。欧米社会に慣れた梅川にとっても、自社の中枢であるロスの突然の退任は、これまでにない戸惑いと心配を引き起こしたようだ。
梅川の部屋を出て、今度ばかりは何をすればいいか分からない不安の中で、エレベータホールに向かって歩いていると、渦中の人アレクサンダーロスがいた。まるで私が梅川の部屋を出るのを待ち構えたようなタイミングだった。
「ハロー、ロス」
今の時点で何も言う気になれなかった。
「慎一、今晩私に付き合わないか?」
思ってもみない言葉だった。
「問題ないが」
「じゃあ、五時に地下駐車場に来てくれ」
そう言って、ロスは去って行った。私は反射的に承諾したが、今更どんな話があるのか、そこに興味を覚えた。
居室に戻り、遥香にベビーシッターの手配を頼む。遥香は早紀の後輩の前田に電話を入れる。以前、ベビーシッターを頼んで以来、必要な時は必ず前田に頼んでいる。理央も沙穂もすっかり馴染んでいて私も安心だ。
五時になって地下駐車場に降りると、なんとロスが先に来ていた。二人でロスの社用車に乗り込んだ。
「私の話は聞いたか?」
「ああ、今日梅川さんから聞いた」
「さすがに早いな」
車は西神田から高速に入った。
「どこに向かっている?」
「南麻布の薬膳料理だ。昨日激しかったんだろう。遥香から聞いたよ」
そう言ってロスは片目を瞑った。
車は天現寺で高速を降りて、麻布通りを北上し網代公園のあたりで停まった。住宅街と入り混じった中に、
ドアの内側には黒いスーツを着た中年の男が立っており、ロスの顔を見ると「いらっしゃいませ、ミスターロス」と、挨拶し案内を始めた。
通された部屋は、六人がけのテーブルが置かれた広い部屋だった。内壁の白地のクロスが清潔感を出している。
「ここへはよく来るのか?」
「近所なのでプライベートが多いかな」
そういえばロスの家は会社で用意した西麻布のマンションだ。私のような普通のサラリーマンには、交通の便が悪くて済むには不便な場所だが、社用車が使えるロスのような外国人には魅力があるようだ。
席に着くと疲労した身体の回復に効果がある薬膳茶が出てきた。なつめや朝鮮人参など六種類の漢方素材が組み合わされ、飲むと確かに疲れた胃が落ち着くような気がした。
最初の料理はくらげの胡麻和えが出てきた。季節の果物としていちごがついている。食物繊維のくらげが胃腸に優しい。次にフカヒレのスープが出たが、これも体中に染み渡って元気が出て来る。
ロスが、自分の体調を思い図ってくれたのだと、素直に感謝した。アレクサンダーロスはそういう細かい配慮のできる男だ。
三品目に北京ダックが出てきたところで、私は今日の本題を聞いてみた。
「ところで、今日は何の話がしたくて誘われたのかな。今回の転職の件か?」
美味い美味いと舌鼓を打っていたロスは、少し真面目な顔に戻って私を見つめた。
「今日は、君に感謝の言葉を言いたくて誘った。君のパフォーマンスのおかげで、この一年で私は自分が目標にした成果を無事に上げることができた」
この一年のロスの成果はすさまじかった。シリコンバレーで二社、ボストンで二社、オランダで一社、上海で一社と、合計六社のベンチャー企業を買収した。どれもリージョン重視の経営を行う、フェリックスの方針に沿った有望企業だ。
驚くべきことは、一昨年に円が史上最高値の七五円を記録し、景気回復が見えない中で総額一兆円超の決断ができるだけの企業を見つけ出し、更には円が安値に向かって舵を切り始める前に、そのほとんどの決済を進めたことだ。社内調整を始めとした超人的なハードワークを認めざるを得ない。
「私はこれと言って助けになるようなことはしていない。全てはあなたの実力があってのことだ」
「グローバル企業で働く者として、誇大アピールは良くないが謙遜も悪い。分かっているとは思うが、グローバル企業の人事は機械のようなものだ。私の後任探しも私の入社前実績に基づいて、相応の人間を人事が探し出す。それは極めて高い精度でだ。そして後任には私と同じ年俸が支払われるのと同時に、これからの私に期待される成果を求められる。だがおそらく失敗するだろう……」
ロスは時折哲学者のような表情を見せることがある。今もその表情だ。
「なぜ、そう思う?」
私の問いに、ロスはニヤッと笑った。
「人事はかなり高い精度で、私と同等のキャリアと、似たパーソナリティを持つ人間を見つけて来るだろう。だがそれではだめなのだ」
「だからなぜだめなんだ」
ロスは本来アメリカ人らしくズバッとアンサーを返す男だ。だがこのやり取りは日本人っぽい。
「私はこのミッションを二年かけて実施するつもりだった。これは自分でもかなり精度の高い計画だったと思っている」
「しかしあなたは四月に就任して、約半年で成果を上げた」
「そうだ。しかも計画では四社の買収だったはずが、シリコンバレーとボストンで二社増やすことができた」
それは初耳だった。
「交渉が予想以上に上手くいって、買収額が予想を下回ったのか?」
「それもある。だが正確な勝因ではない。私は、いや米国のアナリストは、円が二〇一三年の後半から、円安方向に舵を切り始めることを予想していた。私の計画上の買収時期は概ね今年の年末当りで考えていた。そうなるとドル円相場は一〇〇円ぐらいで見込まざるを得ない。今回予定した資金では、四社が精いっぱいだ」
「今回はスピードが六社買収の成功要因だったわけだ。でもなぜ、予想よりも早く進んだんだ」
「君のおかげだよ」
今日のロスは抽象的な表現が多い。私は話の流れに乗ることができず、思わず怪訝な表情を見せた。
「私は昨年の二月にフェリックスに、今のポジションを打診された時からTECGを研究し、四月に執行役員として入社した。その時には既に今のプランをほぼ作成し終わっていた。もちろん期間は二年でだ。しかし四月から君のチームと共に、経営方針会議に向けた活動を開始してから、ほぼ毎日私の計画は修正され続けた」
分かるかという表情で、一旦ロスは言葉を切った。
私は沈黙を続けた。さっぱり話が見えてこない。そんな私を優しい目で見つめながらロスは説明を再開した。
「あのアジャイルに対する君の解釈と説明ビデオは、私が経営者としてここ十数年見てきた中で、ベストスリーに入るパフォーマンスだった」
「あれは長池君のパフォーマンスだ」
「そう、君と遥香のコラボレーションだ。私はこんな最強コンビは見たことがない。だから君は遥香を手放してはダメだ」
「あのビデオがどういう風に影響したんだ」
話がおかしな方向に行きそうになったので、慌てて修正した。
「まず、社内の良識派に買収に踏み切らせる決断に向けて、最高の下慣らしができた。私はCFOへの提案の場で、もう一度あのビデオを使わせてもらったよ。おかげさまでアジャイルに話を進めることができた」
なるほど、良識派と呼ばれる旧高倉色の強いメンバーは、高倉家から続く流れには弱い傾向にある。
「それ以上に効果的だったのは、六社全ての経営者にあのビデオを見せたことだ。元々ベンチャー色の強い人たちだ。彼らにとってTECGは、既に世界的な巨大企業で親和性を低く感じる。だが、あのビデオを見せることで彼らとの距離がぐっと縮まった。これなら急いで話を纏めても、キーマン流出は抑えられると判断した」
あれをそういう風に使うとは、やはりロスはこの道の天才だと感じた。
「そして青島が作った君自身の紹介ビデオ、あれも使わせてもらった。これは効果的だった。TECGは多様性を尊重する企業として、彼らに強く印象付けることに成功した」
あの場面の恥ずかしさが蘇ってきた。だがロスに抗議しても無駄だと知っている。
「ああいうものが役に立つんだ」
私がそう言うと、ロスはククッと笑いながら、「なぜかは説明しないよ、無駄だから」と言った。そして北京ダックを一口頬張って、噛みながら私の様子を窺う。
動揺を観察されているようで、癪なので私も一口頬張り一時の沈黙を保ちながら、ロスの次の話の展開を待つ。
「正直に言おう。私はグローバルな基準でもって、驚異的な成果を上げた。これは業界でも話題となり、今後あるかどうか分からないチケットを提示された。だからそのチケットを使うことにしたんだ」
当然だろう。Pearの副社長だ。
「だが、私はTECGに対しては、就任時に約束したミッションを達成している。だから胸を張って去ることができる」
これも自然な話だ。彼は十分に責任を果たしている。少なくともビジネスの上では。
「ただ、このチャンスを与えてくれたのは、今去ろうとしているTECGだと思う。だから私が去った後も、経営が混乱しない体制を作っておきたいと思う」
アメリカ人とは思えない浪花節的なセリフに戸惑った。
「どういうことだ」
「君が執行役員になって、梅川と共にフェリックスを補佐しろ。肩書は何でもいい。君にはそれだけの力がある」
「いや待て……」
私はロスの言葉を遮った。これが今日のこの場の目的かと、漸く合点がいった。
「あなたの気持ちは十分に理解した。そして感謝している。でも今の話は承諾できない」
私の厳しい表情を見て、ロスは「OK」と首を振った。
「それでは、この話はこれでストップだ。これから友人として家族の話でもしよう」
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