第37話 重任

 フェリックスへのレクチャーから一週間が過ぎた。私の周囲は比較的穏やかだった。

 長澤と二人で飲みに行ったように、最近はたまに仕事帰りに飲んで帰ったりすることが多い。それができるのも、理央と沙穂がしっかりしてくれているからだ。

 相手は昔の営業の同僚だったり、他社の社史編纂に携わる知り合いだったりするが、一番多いのは、部下の長池遥香だった。

 二人共あまり飲む場所に拘らないため、ほとんど水道橋界隈で飲む。たまに社内の人間に目撃されたりするが、遥香の普段の雰囲気と二人の飲んでる姿があまりにも堂々としているせいか、変な噂が立つことはなかった。

 遥香からは一度だけ酒の席で、「自分と結婚しないか」と、言われたことがある。しかしそのときの雰囲気は、思いを告げるというよりも、彼女の語るキャリアプランを聞くという雰囲気だった。

 それ以降遥香はこの話を一切しない。私もたまに思い出すこともあるが、言われてから既に三年以上たっているので、特に意識することもなく普通に話をすることができた。

 だから女性を意識した飲みではなく、一緒に働いた四年間で分かったビジネスパーソンとして、大きな伸びしろがある部下と飲んでいる意識が強く働いた。

 いずれにしても遥香とは上司と部下として良好な関係を築いている。いつか彼女が私の下を離れ、会社の重要ポジションに就いて働く姿を見るのが楽しみだった。


 リーン、突然電話の音が部屋の中に響いた。遥香が出て秘書室の鈴川早紀からだと告げる。少しばかり嫌な予感に包まれて電話に出ると、午後一で部屋に来るようにと梅川から召集がかかったことを告げられた。

「フェリックスが何かやらかしたのかなぁ」

 私の不安気な呟きに、遥香がクスっと笑って私を見た。


 一時になって梅川の部屋に向かうと、思ったよりも秘書室の面々が暗い顔をしていた。

 尋常ではない雰囲気に包まれながら梅川の部屋に入ると、いつもの精気に溢れた表情と打って変わった、どんよりとした目で肩を落として座っている梅川がいた。

「いったい何があったんですか?」

 私が恐るおそる聞くと、梅川は何か重いものでも持つかのように、踏ん張った表情で話し始めた。

「フェリックスが高倉家に最初の挨拶をした。スイスにいる将司さんを除いて、ほぼフルメンバーだ」

 高倉将司は会長引退後、日本を離れずっとスイスに滞在している。自分の存在感を自覚し、後任の高階の重荷にならないようにと配慮した帝王の引き際だった。

 妻の和江は娘の美和が大学生ということもあり、白金の本宅に残っていたが、美和は今大学を卒業して、將志の後を追ってシンガポールにいる。

 本宅の隣には、高倉源治の屋敷がある。

「挨拶は順調に進んでいた。フェリックスは気負いも萎縮もせずに、普段の整然とした語り口でTECGの最高責任者としての覚悟を語っていた。それは想像以上のものだった。私でさえ彼の覚悟の深さを感じて身震いするほどだった」

 そこまで聞いた時、野心に溢れた源治の顔を思い浮かべた。あまりにも素晴らしい出来栄えが、返って敵対心を増加させたのか?

「君もそうだと思うが、我々が一番気にしていたのは源治さんだ。発表時に新聞に載った彼のコメントは、明らかに否定的な気持ちが現われていたし、元々高倉家の復権を強く望んでいた人だから」

 やはり源治がキーマンかと、リーマンショックの際の攻防を思い出した。ただ、旧本社のレセプションで見せた潔い引き際は、経営者として修羅場を潜った男の持つ小気味良さを感じた。

 それだけに理不尽な理屈でぐずぐず言ってる姿は、あまり想像できなかった。

「源治さんのフェリックスに対する印象は悪くなかった。フェリックスは君のおかげもあって、高倉家の歴代当主の特徴を実によく掴んでいた。そこに彼の経験をプラスして、まさにTECGのグローバル企業への成長の可能性が、力強く示されていくようだった。その姿は革命家と呼ばれた高倉将司さんそのもので、あの源治さんが熱くなって『良し』と呟いたぐらいだ」

「では上首尾じゃないですか」

 思わず声が出た。三人の高倉出身社長の中で將志をフェリックスのロールモデルに選んだわけは、私がその偉業に心酔していることとは別にもう一つの理由があった。

 それは高倉源治が実際に將志と共に企業人として育ち、その偉大さを目のあたりにしているからだ。


「そうだ、我々は手ごたえを感じた。ところが本社に帰って来てすぐに爆弾が降って来たんだ」

「やはり、源治さんは納得してなかったんですか?」

 梅川は複雑な表情だった。

「違う。電話をしてきたのは和江さんだ」

「和江さん!」

 予想外の人物だった。高倉和江は夫のエネルギッシュな活動の原動力として、いつも陰で支え続けてきた人だ。將志を最も理解し信頼していた女性ひと

 夫とダブるフェリックスの姿に違和感を感じるのは何かおかしい。もしかして美枝さんの呪縛は、聡明な和江さんを惑わすほどに強かったのか。

「和江さん自身はいつものように凛とした口調だったよ。ただ、面会が終わった後で、強い拒否の姿勢を示した」

「いったい何があったんですか?」

「些細なことなんだよ。フェリックスの『アイムアンビシャス』という言葉を、通訳が『私は野望がある』と訳したんだ。そこまでのフェリックスの言葉が力強かっただけに、逆効果になって売却意志があるように感じさせてしまったんだ」

 野望、創業者高倉将造は野望に溢れた男だった。高倉電機自体が多くの企業を取り込んで大きくなった経緯がある。

 もしフェリックスの陰に、將志以上に将造を見たとすると、逆に大きな疑いを持たれる可能性はある。

「なぜ、梅川さんがすぐに訂正しなかったんですか?」

 梅川ならこの危険にすぐに気づいたはずだ。少しばかり攻め口調で問い詰めた。

「私は、いやそのときその場にいたスタッフは、誰も通訳音声を聞いてなかったんだよ」

 愕然とした。確かに梅川達はバリバリのバイリンガルだ。通訳音声を聞く必要はないが、それでも高倉家の人たちに直接届くのは通訳の言葉だ。それをチェックしなかったのはボーンヘッドだと言える。

――これだから英語に自信のある日本人は信用できない。英語に関して目的よりプライドが優先する。


「まあ、誤訳で心証を害しただけなら、あまり気にしなくてもいいんじゃないですか?」

 今の高倉家で最も力があるのは、前会長の将司を除けば倉援会の会長である高倉源治だが、四年前の旧本社解体のレセプション以来、高階の経営姿勢には好意的になっている。

 元々高倉電機を愛している男だけに、この先百年のTECGの繁栄のためならと分かってくれるはずだ。

 長男の高倉貴志も英才教育で帝王学を身につけた高倉家のプリンスだが、同族経営によるデメリットを理解し、自身も常務を務める三倉銀行で、能力を試したいと強く望んでいる。社外取締役を受けることはあっても、自らTECGに乗り込む気持ちはないだろう。

「確かにフェリックスが力を発揮して、業績を上げることによって配当を上げれば、株主であるOB連中は納得するだろうから、それほど大きな問題になるとは思わないが、和江さんの凛とした口調がどうにも気になってしまった」

 梅川は社内で一番女性の力が強い秘書室を纏めているだけに、女性の怒りに敏感なところがある。気にしすぎではないかと思った。


「ひとまずこの話は無視しておこう。下手に動いたら思わぬ展開になる可能性があるし。ところで、フェリックスは君のことをたいへん気に入ったようだ。今後の体制固めの中で、君を政策ブレーンの一人として迎えたいと言っている」

「私を――」

 いくら何でも社史編纂室長を経営スタッフに考える会社は、日本には存在しない。突拍子もない考えに私は絶句した。

「フェリックスの話では、米国ではそう珍しいことではないらしい。社史編纂だけを専門とする部署は米国にはないが、人事がそれに近いファンクションを持っているというのだ。知っているかもしれないが、米国は人材流動が激しい社会だ。当然重要ポジションをヘッドハンティングした人間が占める。彼らが会社の方針とズレないために最低限の行動フレームを作り、社員や株主を納得させる役目が必要らしい。私も米国で何人かそういう人間を見たことがある」

「私はこてこての国内営業出身ですよ。そんな米国企業の経営なんて想像もつかない」

「いや、フェリックスは君と話してみて、君が適任だと思ったようだ。下のお子さんも小学生になって、付きっ切りというわけではないんだろう。何なら米国流のワークライフバランスのロールモデルになってもいいじゃないか」

 梅川自身も以前から、何を間違ったか私を片腕に欲しがっていた。フェリックスのせいにしているが、梅川自身が仕掛けた話ではないかという疑いがある。

「私には当面のミッションがさっぱり見えませんが――」

 否定の言葉で反撃しようとしたとき、遮るように梅川が言った。

「フェリックスは株主総会が終わる七月に、新社長として今後十年間を睨んだ経営ビジョンを発表しようとしている。その製作スタッフの一翼を君に任せたいようだ」

 私は言葉が出なかった。そんなもの自分に作れるはずがない。

「大丈夫だ。そのプロジェクトの指揮は私が取る。私は五月に経営企画室長に就任する。その時に新経営ビジョン策定のプロジェクトチームを経営企画に作る。そのリーダーが君だ。そしてスタッフは鈴川君、小川君、長池君だ。社内で一番華やかなチームになる。やる気が出るだろう」

 冗談じゃない。社内で一番気の強い女性が集まるチームではないか。そんな部署を任されたら、一月で胃に穴が開きそうだ。

「女性ばかりのチームですか?」

「安心しろ、男も一人バリバリのやつをつけてやる」

 完全に梅川は高倉家のもめ事を忘れている。いやそれも新ポジションに就く私に任せるつもりなのかもしれない。

「梅川さん、私は前に源治さんとの間に生じた問題を解決する条件として、今のポジションから異動しないことを、あなたと約束しましたよね」

 それを聞いても梅川は怯まなかった。

「そうなんだ。それが私としては非常に気にかかって、反対はしたんだ。ところがフェリックスが強い希望だと言って押し切ってしまった。トップの意向とあっては私と君との約束など吹き飛んでしまった。たいへん申し訳ない」

 そういいながらも、ちっとも申し訳なさそうではなかった。これ以上話してもしょうがないと思って、「考えさせてください」と言って、梅川の部屋を出た。

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