黒船

第33話 波乱の人事

「えー」

 メールを確認していた私は、思わず大声をあげてしまった。「従業員の皆様へ」と題されたそのメールには、TECGが震撼する知らせが書かれてあった。

――四月一日付で高階CEOが退任し、新CEOにアメリカ人のフェリックス・ベアードが就任する。新CEOは六月の株主総会で代表取締役社長に就任し、現高階社長は会長に就任する予定。

 これで高階社長の後を狙っていた二人の副社長と、最有力とされた有永専務は、事実上社長の目はなくなる。社内の勢力図が大きく書き換わることが確定した。

 それ以上に社員には衝撃が走った。オーナー企業だったTECGに、高倉一族以外の社長が誕生したときは、次はまた高倉一族から社長が生まれると、感じている者が社内には少なくない人数でいた。社外から外国人が社長に迎えられることによって、それは永遠にないと宣言したに等しい。

 いったいこの会社はどうなっていくのか、私自身も会社にいられるのか不安になる。きっと国内の全社員が、いろいろな不安を感じながらこの記事を読んでいるのではないかと思った。

 フェリックスは米国の多国籍企業、ICBの欧州統括会社の社長を務めており、その輝かしい経歴の中でアジア地区の責任者をしたこともあった。

「長池君は社長交代について知っていた?」

 それを聞いてどうするという質問だが、今は誰かに話しかけずにはいられなかった。聞かれた遥香は事務的に応える。

「私も今朝イントラを見て始めて知りました」

「社内では誰が関わっていたんだろう」

 私が独り言のように呟くと、聞かれたこと以外は余計なことを言わない遥香が珍しく口を開いた。

「梅川さんに決まってるじゃないですか。仲介はアメリカのヘッドハンターでしょうから、梅川さんならその筋にパイプがあるし、何よりも自然に高階社長と重要案件の打ち合わせができる立場です」

 私は遥香のきれいな横顔を見ながら、こんな状況でもいつもと同じシャープな答えを返す冷静さと優秀さに舌を巻く思いだった。

「確かにそうだ。人事部長は副社長の息がかかっているし、技術畑の取締役では荷が重い。かと言って国際派として梅川さんに勝てる人は、今の国内の取締役にはいない」

「これから星野さんには大役が来るかもしれませんね」

「えっ、何で?」

「だって、フェリックスが一番初めにしなければならないことは、高倉家の人達とそれに近い人たちを反対派に回さないこと、つまり倉援会を支持者にすることです。そうなると星野さんは実績があるし、高倉家の知識では社内随一だし」

 遥香はおめでたいことだと言わんばかりに、嬉しそうな顔をした。

「そういうものかな」

 働きが足りなくて早晩解雇を言い渡される自分の姿が、どうしても頭から離れなくて、遥香のように楽天的には考えられない。

 何とも不安な感じでもやもやしながら、フェリックスをよく知ろうと、インターネットを検索していると、社長秘書の早紀から電話があり、梅川が呼んでるから来てくれと言われた。


 急いで席を立ち梅川に呼ばれたと遥香に告げると、満面の笑みで送り出してくれた。

 秘書室のドアを開けると、早紀に秘書室の奥の梅川専用の部屋に入るように言われた。

 部屋に入って待っていると、すぐに梅川がやってきた。

「フェリックスのニュースを見たか?」

「はい、たいへん驚きました。梅川さんは知ってたのですか?」

「まあ、それはどうでもいい。今日はフェリックスのことで君に頼みたいことがある」

「私に?」

「フェリックスに高倉家について、彼のインスピレーションを刺激するような話をして欲しい」

 予知能力があるのではと疑うほど、遥香の言う通りに進んで行く。

「新社長にですか?」

「最優先事項だ」

「何かあったのですか?」

「フェリックスの社長就任に、和江さんが反対している」

「和江さんが……」

 高倉和江は前社長高倉将司まさしの妻だ。將志とお嬢さんが相続税対策として、シンガポールで暮らしているのに対して、海外暮らしはしたくないとただ一人日本に残っている。

 今まであまり、TECGの経営について口を挟んだことはない。

「今日の発表に備えて、昨日高階さんが高倉家の主だった方に対して説明に行ったら、和江さんに強く反対された」

「梅川さんも行ったのですか?」

「社長のお供をした」

「それで反対の理由は分かっているのですか?」

「理由は三つで一つ目は、フェリックスはTECGの社長を本気でやろうとしてないように思うと言われた」

「そう思う理由を訊かれましたか?」

「もちろんだ。経歴から言ってもTECGは腰掛に過ぎず、成果を上げたらすぐに他の米国企業に移るのではないかと懸念している」

「馬鹿な、それは外国人経営者の普遍的なモチベーションであって、だからこそ彼らはキャリアの選び方は慎重で、いい加減にはしない」

「そう、これは会社に求めている考え方の差だから、あれこれ言っても仕方がない。むしろグローバル化によって、同じモチベーションの各国のリーダーをコントロールしやすいとも言える」

「納得はしてくれたのですか」

「この点についてはこれからウォッチして判断してもいいと言われた」

「ある程度引いてくれたんですね」

「二つ目は何ですか?」

「二つ目は、フェリックスはTECGという会社に、ひいては高倉家が築いてきた創業の精神を理解できないだ」

「なるほど。本質的に分かるかと言うと、そこは怪しいかもしれませんね。本人と会ってみないと分かりませんが。でも国内と海外の売上比率が逆転して、国内市場に大きな伸びしろがない以上、止むを得ないかもしれないですね。高倉の精神と呼ばれてるもの自体が変化への柔軟な対応だから、環境に合わせて大きく変わることが悪いとも言えないし」

「そうだ。それは同席していた源治さんも納得してくれた」

――高倉源治、元専務で現倉援会会長、一族の中でも最も発言力のある男だ。

「源治さん自身、創業者が作った高倉連合を自ら潰していますしね。でも意外ですね。そう思っても、積極的に賛同はしないと思ったのに」

 彼は高倉一族がTECGのトップであらねばならない考え方を持っており、今回の社長交代は最も激しい反対をすると思っていた。

「うん、あの人はどうもよく分からん」

 ちなみに対人力においては無双の強さを誇る梅川が、唯一苦手とする男だ。

「三つ目って何ですか?」

 ここまでのところ、それほど深刻な問題とは思えない。この程度は梅川も予期していたはずだ。

「三つめは、高階がTECGを、ICBへ売却するためのファーストステップとして、今回の社長交代を進めたと言っている」

「えっ、そうなんですか?」

 さすがに面食らった。それが事実なら説得しようがない。

「もちろん違う」

「でも、高階社長の目の前で和江さんは言ったんですよね。よっぽど確かな証拠がないと言えない話じゃないですか?」

「和江さんの根拠は美枝さんだ」

「美枝さん!」

 高倉美恵は高倉将司の姉で、和江にとっても義姉にあたる。

「美枝さんは何を根拠にそんなことを言うんですか?」

「孝一さんが有力筋から情報を入手したと言っている」

 美恵の一人息子の孝一は、高倉家にしては無能な男で、大学を卒業しても家でぶらぶらしている自称『経営アナリスト』だ。

「そんなの信用する方がどうかしている」

「ああ、だが和江さんは美枝さんに負い目があるみたいなんだ」

「何ですか?」

「孝一さんが高倉電機に入社できなかったことだ」

 高倉将司は今後のグローバル化において、リーダーの重要性を強く認識していた。だから何の実績もない高倉家の人間が入社して、忖度でリーダーに成ることを恐れ、思い切って高倉家の人間は入社させないと宣言した。

 孝一はまさにそれによって排除された典型的なパターンと言える。

「いや將志さんの考えは正しいと思いますが」

「そこは女同士だ。和江さんは自分の夫が事業のために、親戚を切り捨てたと本気で思っている。だから美枝さんには同情的でその意思を尊重しているんだ」

「詳しいですね」

 なぜ、梅川が自分も知らない高倉家の内部事情に詳しいのか不思議に思った。

「源治さんから聞いた」

「源治さんが教えてくれたんですか」

 源治の名を聞いて、何となく理解できた。源治の息子貴志は、孝一と同じように高倉電機には入らず、三倉銀行に入社し、今では最年少取締役に成ったできのいい男だ。

 だからこそ高倉一族こそ真のリーダーだと誇りを持っているのだが、そんな源治からしたら、孝一は一族の出来損ないに見え、面汚しぐらいに思っているのだろう。

「源治さんは、その場で解決案を提案してくれた。フェリックス自身が高倉家が集まる場に出向いて、そこで見極めようというものだ」

「和江さんや美枝さんは納得したんですか」

「源治さんの言うことだから、渋々納得した」

「これから大変ですね。フェリックス自身に、今の状況を分かってもらわなきゃいけないし」

何他人事ひとごとのように言ってるんだ。君がフェリックスに説明するんだよ」

「えっ、それは分を超えてませんか?」

「これは源治さんの要望でもある。君のお手並みを拝見したいと嬉しそうに言ってたよ」

 復讐だと思った。一度源治の企みを防いだことがある。そのときの意趣返しだと思った。

 自分の将来が良く見えないのに、また難問を突き付けられてしまったのだった。

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