第32話 七年前の決着

 テレビではどのチャンネルでも、俄かに原発要否の論戦が繰り広げられるようになった。本来は真摯に取り扱われなくてはいけない問題が、娯楽化している気がして視るのが辛い。

 私は原発に対して知識不足で賛否を言えないが、電気が無くなると困るのは確かだ。

 そう考えるとテレビ局こそこんな議論で電気を使ってないで、十時以降放送自粛するべきだと思い、無用ないら立ちでエネルギーを消費する。

 きっとそれを思いついたテレビマンも少なくないのだろうが、スポンサーとの関係とかで実現できないのだろうと思う。

 それならスポンサー側で放送自粛を申し出れば、その企業の株が上がって宣伝効果も大きいのになど、必要のない思考がどんどん展開されていく。

 こんなことを次々に考えてしまうのも、大木の死、高階の復興策、梅川の葛藤など震災を契機にいろいろなことが起こって、正常に考える力が狂ってしまったのだろうと思う。

 今でも思い出すのは沙織から投げつけられた「死ねばよかったのに」のフレーズだ。この言葉を聞いて、心の底にしまっていた理沙の事故の当事者である二人の男女への憎しみが、心の表面に顔を出してしまった。沙織の心に生まれた自分では制御できない怒りにシンクロしてしまったのかもしれない。

 理沙の死から既に七年の月日が経つが、あの二人は未だに見つからない。

 もう警察も半分諦めているんだろうと思う。

 この状態をあの二人はどう受け止めているんだろう。

 やってしまったことの大きさに怯えて暮らしているのだろうか。それともラッキーと舌を出してのうのうと生きてるのだろうか。

――いかん、いかん

 こんな結論の出ないことを考えていては身体に悪い。そう思って風呂に入ろうと立ち上がったところで、スマホが着信を告げた。

 時計を見ると夜の七時を過ぎている。こんな時間に誰だろうと思って着信画面を見ると「里村」と表示されていた。見覚えのない名前だが、名前が表示されるということはどこかでアドレス帳に入れたのだろう。

 電話に出ると、低い男の声だった。

――もしもし星野さんの電話ですか?

「はい、そうですが」

――里村です。奥さんの事件を担当した者です。

 思い出した。最後に喫茶店で話して以来、連絡を取ってなかったのでピンとこなかったが、確かあの老刑事の名前だ。

「お久しぶりです。何かありましたか?」

――はい、こんな遅い時間に申し訳ないですが、少しだけお話しできないでしょうか?

「今から?」

 わざわざこんな時間に会いたいということは何か捜査に進展があったのかもしれない。

「分かりました。今どこですか?」

――今、中野です。私が吉祥寺迄行きますので、駅に着いたらまた電話します。

 私は電話を切って子供部屋に行くと、沙穂は夕飯を食べて満腹になったせいか、風呂にも入らずカーペットにうつぶせになって寝ていた。理央は机について宿題をしていた。

「お父さん、今からちょっと外に出るから沙穂のこと頼むな」

 理央が顔をこちらに向けて、夜に外出する私を不審に思って聞いてきた。

「どうしたの? 今の電話誰?」

「お父さんの会社からだ。忘れ物をしたんで近くに住んでる人が届けてくれるんだ」

 とっさに嘘をついてしまった。

 何となく理央にあの事件のことは思い出させたくなかった。

「いいよ、分かった」

 理央はあっさりと承諾してまた宿題をやり始めた。

 中野からなら二十分以内に着くだろう。着替えてリビングのソファに座って電話を待った。


 南口の喫茶店に着くと里村は既に待っていた。まだ飲み物は来てないので、それほど待たせてないだろう。

「こんな時間にすいません。どうしても伝えたいことがありまして」

 里村は何となく前のような威圧感が薄れたように見えた。

「もしかして、あの二人が見つかったのですか?」

「その話をする前に話すことがあります」

 里村は言いにくそうにモジモジしている。間違いなく前のような刑事の雰囲気がなかった。

「何でしょうか?」

「実は昨年十月に定年退職になって、今は刑事ではなく普通の老人になってしまいました」

――そういうことか、何となく得心がいった。

「そうなんですね。どうもお疲れさまでした」

「ええ、星野さんには在職中に奥様を死に追いやった犯人を捕まえることができず、大変申し訳ありませんでした。それだけが警察人生の中で心残りでした」

「とんでもありません。捜査本部が縮小される中で熱心に対応してもらい、それだけでもありがたいと思っています」

 それは本心だった。みんなが何事もなかったように事件を忘れていく中で、里村だけは忘れずに気にかけてくれていた。それだけでも救われる気がした。

「実は今日はご報告があってきました。男の方の犯人が見つかりました」

「えっ、逮捕されたんですか?」

 聞きながらおかしいと思った。犯人が捕まったのになぜ警察から連絡が来ずに、退職した里村が知らせに来るんだろう。

「いえ、逮捕はされていません。私が偶然見つけたのです」

 私は何か事情があると思い、まずは黙って里村の話を聞くことにした。

「私は当時駅の防犯カメラに映った二人の顔を何度も何度も目に焼き付けるように見ました。おかげで退職後も二人の顔だけは忘れずに覚えていました。震災の後、家でテレビを見てますと、被災地で働くボランティアの取材をしていました。警察を辞めてから特にすることもなかったので、こういうところで人様のために働くのもいいなぁと思って見てました。すると――」

 そう言って里村はコーヒーを口に運ぶ。一口だけ飲んで話を続ける。

「テレビにあの時の男によく似た顔が映っていたのです」

「テレビって」

「ボランティアで働いていたんです。私は一瞬見間違いかと思いましたが、七年間追い続けた男の顔を間違えるわけないと思い、取るものも取り敢えず自家用車で被災地に急行しました」

「会えたんですか」

「会えました。管理事務所に行ってわけを話してその男が働いている現場まで行きました。直接顔を見て間違いないと確信し、男と二人にしてもらいました」

「それで――」

 聞きたいことは山ほどあった。しかしうまく纏まらず出てきた言葉はこれだけだった。

「男の名前は斎藤雄太、年齢は三四才で事件当時は二七才でした。自宅は調布市で両親と三人で暮らしています。これは事件当時から変わりません。事件のあったころは神田の電気量販店で働いていて、事件のあった日もそこで働いた帰り道でした」

――なるほど、だから土曜日も働いていて、新宿で降りようとしたわけだ。

「斎藤は仕事が終わって帰宅するために神田から中央線に乗り込みました。電車はお茶の水で混み始め、斎藤はヘッドホンステレオで音楽を聴いている若い女と向かい合うような感じになったそうです。女は音楽に夢中でノリノリで体を揺すったりするので、女の口紅が斎藤のスーツの胸に付いてしまいました。その日は就職しても長続きせず、転職を繰り返していた斎藤が、やっと一年間通して働いたので、母親が喜んで買ってやったスーツでした。それを汚されたので、カーッとなってしまって、女のイヤホンを外して『迷惑だから聞くならおとなしく聞け』と言ってしまったそうです」

 斎藤の気持ちも分かる気がした。満員電車の中で自分勝手な迷惑行為を行う人間は意外と多い。潜在的には暴力的な衝動が生じることはあるが、たいていの場合我慢してしまい実際に行動に移す者は少ない。

「女は謝るどころか斎藤を睨みつけて、『勝手に人に触るなよ』と言って、次の瞬間『痴漢野郎』と罵ったようです。しばらく口論になりましたが、女が『痴漢、変態』と繰り返す罵るので、痴漢冤罪が頭を過り、新宿に着いたらすぐに逃げようと思ったそうです」

 確かに女が男を痴漢にしようと思ったら簡単にできる。痴漢をする奴が一番悪いのだが、一般的には目の前で痴漢らしき行為があったとして、よっぽどはっきりと痴漢だと言えない限り止めに入ることはない。

 満員電車では些細なトラブルが大きなトラブルになりかねないので、善悪を別にしてみんな関わり合いになることを避けてしまう。そういう負のサイクルがスパイラル上に大きくなった先に理沙の事件が起きたような気がした。

「だが女は逃がさなかったわけですね。斎藤のネクタイを掴んで、引きずられると理央の腕を掴み、止めようとした理沙が必死で逃げようとする斎藤に跳ね飛ばされた」

「その通りです」

「なぜ斎藤は逃げたんですか?」

「正確には女がすぐに逃げ出したので、自分一人のせいにされてはと、女の後を追いかけたそうです」

「女には逃げられたんですか?」

「いえ、女は駅を出るとタクシーに乗ったので、斎藤もタクシーに乗って追いかけて、女が中野の飲食店で働いていることまで掴んだようです」

「ではなぜ、自首して女のことも言わなかったのですか?」

「家に帰ると怖くなったそうです。自首して女のことを話しても自分が痴漢に仕立て上げられてしまうのではないかと。そして次の日にニュースで奥さんが無くなったことも知り、もっと恐怖でたまらなくなり、会社にも行けなくなって引き籠りになってしまった」

 なんて情けない男だ。自分でやったことの後始末もできないとは。

「それでどうして被災地にいたんですか?」

「この七年間、事件のことを忘れた日はなかったそうです。震災の起こった日、被災地の人たちが理不尽に命や財産を奪われる姿をテレビで見て、贖罪の意味も込めて働き始めたようです。確かに斎藤はよく働いていました。管理事務所の人の話でも一番頑張って働いているようです」

「そうですか」

 私のその一言を最後に、二人の間に長い沈黙が訪れた。その間私はなぜ今すぐ斎藤のところに行って、殴りつけたり罵ったりしたい衝動が起きないのか考えていた。

 理沙を失った悲しみや悔しさが薄れたわけではない。逆に子供たちが成長するに従い、その姿を見せてやれないことを、悔しく思う度合いは大きくなっている。

 それでも斎藤という犯人が見つかったにも関わらず、あの日調子に乗って神田まで行ってしまった自分の軽率さを責める気持ちの方が強かった。

「斎藤に会いますか、それとも警察に突き出しますか?」

 長い沈黙を破って里村が聞いてきた。

「いえ結構です。どちらも必要ありません。彼が被災地で働いた方が世の中のためになる」

 里村は私の答えをおおよそ察していたのか、「分かりました」とあっさり引き下がった。

「申し訳ありません。一生懸命探していただいたのに」

 私は里村の頑張りに不義理を働いたような気がして申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、里村は笑ってそれを否定した。

「私は私の警察人生での最後の殺人事件の決着をつけたかっただけです。単なる自己満足ですから気にしないでください。ところで女の方はどうしますか?」

「女の方ですか――」

 自分の斎藤に対する気持ちに気を取られて女のことが頭から抜けていた。悪いと言えばこの女が一番悪い。しかしさすがに七年前に斎藤が見つけた場所にはいないだろう。

「実は私が新宿署にいた頃の刑事部の後輩、奥さんの事件のときにも一緒にいた若い刑事ですが、今は中野署にいるんです。それでそいつに頼んで女の方も調べてもらった。女の名前や現在の状況など全て伝えられる準備をしてからここに来ました」

――それで今日は中野にいたのか。

 全てがつながった。そして敢えて今まで女の話をせずに、ここでどうするか聞いてきた意図も理解した。

「それも聞かなくていいです。きっとその女に会って責めたとしても、その女にはその女なりの理由があり、余計にやりきれなさが深まるだけだ。それが分かりました」

――それに理央はそんな大人たちの事情を知ったら、今度こそやりきれなさで大人になることに希望を持てなくなる。まだこんな世界を知らせるような年ではない。

 そう思って、自分自身、犯人対する思いとこれで完全に決別することにした。

「分かりました。私も何だかホッとしました」

 里村が肩の力がスーッと抜けたような今日一番いい顔をした。もしかしたら今日でやっと里村も本当の定年を迎えたのかもしれない。

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