第30話 沙織の悲しみと怒り
大木の遺体は東京に戻って来ることなく、三日後に仙台で荼毘に付された。会社からは人事部長の大島と上司の宮坂、それに同期の森田沙織が、大木の両親と一緒に遺骨を受け取るために仙台に向かった。
鉄道は回復しないため、レンターカーを借り社用車の運転手が車で五人を運んだ。高階も行くと言い張ったが、事後処理が厖大なため梅川に説得されて東京に留まった。
私も行きたかったが、子供たちを再び置いて行くことが不安で東京に残った。それにやるべきこと、私にできることは東京にある。
告別式は両親の住む大木の生まれ育った埼玉県上尾市で行われた。実家は通勤圏内だったが、昨年ちょうど人事部に異動して一年経った頃、大木は両国に引っ越して一人暮らしをしていた。
両親とは結婚したら実家を二世帯住宅にして一緒に暮らす約束をしており、それまでの独身生活を一人で楽しんでいたようだ。もしかしたらいい
大木には妹が一人いて、こちらは既に結婚して家を出ていた。兄妹の仲は良かったようで、告別式に現れた妹は両親と一緒に終始悲しみの中にいた。
TECGは九年前に社葬制度を取りやめていたので、葬式にかかる費用の一部を、なんと高階が自費で負担した。葬儀にはTECGの営業や人事の上司や同僚に加え、学生時代の友人も駆けつけ、大木の魂は大勢の人々に見送られた。
私は遥香と一緒に出席し焼香が終わって帰ろうとした時、出口で待っていた沙織に声を掛けられた。沙織は大木の思い出を語って送り出したいから、酒に付き合って欲しいと切り出してきた。
沙織の真剣な表情に断り切れずに私は承諾した。そんな私を心配して遥香も同行した。
三人で上尾駅近くの居酒屋に入り、故人を悼み献杯を交わした後、沙織が唐突に語り始めた。
「私、会社を辞めようと思います」
私は思いがけない言葉に驚いて思わず、「なぜ?」と聞いた。
沙織はここ数日で絶食でもしたかのように、痩せてやつれていた。頬もこけて大病を患った病人のような顔になっていた。
「私は大木君と付き合ってたんです。結婚の約束もしていました」
今度こそ心底驚いて何も言葉が出なかった。隣に座っている遥香も黙っている。沙織は空いたグラスに手酌でビールを注いで、それを一息で飲み干して話を続けた。
「始めは好きじゃなかった。営業出身の男はいつもそう。利益を上げない人事部のことを馬鹿にしている。そして営業に戻りたいと愚痴を言う」
「でも、彼は一生懸命やってたじゃないか。講演を頼みに来た時にも、とても気持ちが営業に向いてる人間には見えなかった」
「それは全部星野さんの影響です」
「俺の……」
「大木君は営業の時から星野さんに憧れていたんです。星野さんのように斬新なアイディアを出して、情熱でチームを引っ張って成果を上げる。その結果会社が変わる。そんな営業マンに成りたかったんです」
「それは営業時代の話だろう」
なぜそれで人事部の仕事に情熱を燃やすのかよく分からなかった。
「人事部に来て、社史編纂室での星野さんの成果を知って、気持ちが変わったのね」
遥香が確信したかのように横から口を挟んだ。
「そうなんです。人事部に来て三カ月経った頃、星野さんが幹部社員研修で講演するのを見て、一緒に研修を企画していた私に言ったんです。星野さんはどこに居ても凄いと」
「営業時代に感じた思いをそこでも感じたわけね」
遥香は得心がいったように付け加えた。
「彼は星野さんが家族のために営業を去った時、とても悲しくてしばらくやる気を失ったそうです。でもある仕事で吉木さんと話すことがあって、星野さんの作った道の先を共に作ろうと言われて、一念発起したそうです」
吉木の名前が出て懐かしい思いに捉われた。彼がそう言う思いで頑張ってくれていると知って嬉しかった。
「それで人事部に異動になってやる気を失ったんですけど、社史編纂室で頑張る星野さんの姿を見て、またやる気が湧いたんです。そんな彼を見ていて、いつの間にか惹かれている自分を感じました」
「辛いわね」
遥香の言葉に沙織の目から涙が零れた。そんな沙織に、私と遥香はしばらく声をかけず、そっとしておいた。二人は沙織の悲しみに寄り添うように、静かにグラスを傾けた。
静かな時間が過ぎて行った。大木の死を悼みながらも言葉が出て来ない。人智では回避できない自然の力によってもたらされた死には、悔やんだり憎んだりして気持ちをぶつける先がない。
私が理沙の死の時に感じた、心の奥に沈み込んでいく鉛のような塊が、沙織の心の奥にも生じているのかもしれない。
私は二人の娘の存在で、それを取り除くことができたが、あの塊が心の中に存在し続けたとしたら、それがどんなものに形を変えたのか想像するのも恐ろしい。沙織の心をどうしたら救えるのか考えた。
ずっと黙っていた沙織が突然立ち上がった。じっと星野を見下ろしている。その顔をどこかで見たことがある気がした。
「死ねば良かったのに!」
沙織がそう言って震えている。私は少し時間が経ってその言葉が、自分に向かって放たれたものだと気付いた。沙織が荷物を持って飛び出て行く。
「星野さん、会計お願いします。私は森田さんを送っていきます」
遥香はそう言うとバッグとコートを抱えて、急ぎ足で沙織を追った。取り残された私はグラスに残った酒を飲み干すと、伝票を握ってレジに向かった。
私には沙織の心に沈んだ鉛が、尖った銛に変わったように思えた。それは狙いを自分に定め放たれた。
それならそれで構わない。理央と沙穂のような存在のいない沙織は、誰かに銛を打ち込まないことには、鉛がいつまでも心に残って前に進めない。
おそらくこれから、心の鉛が無くなるまで、いろいろな人に銛を打ち込み続けることになるのだろう。だけど、その銛を沙織自身にだけは打ち込んで欲しくないなと思った。
家の前まで帰ったところで、遥香からメールが届いた。沙織を無事に家まで送って行き、今は落ち着いたから心配しなくていいとのことだった。
あの場での機転の利き方といい、シンプルなこの文面といい、沙織の心の鉛が銛に変わったことに、遥香は気付いているんだろうなと思った。それならば、沙織が自分に向けて銛を打ち込まないように、うまく話してくれたような気がした。
玄関を開けると、理央がリビングから飛び出してきた。
「ちょっと入らないで、今塩持って来るから」
塩を振りかけられながら、理央に理沙の姿を重ねた。不思議なことに女の子は成長に合わせてどんどん母親に似てくる。
沙穂もまだ起きていた。元々寝るのが好きな子だったが、ここのところベッドに向かわずリビングで起きていて、そこで眠ってしまうことが多い。きっと震災の時に理央と二人で夜を明かした経験が、家族と同じ空間に居たがるのだろう。この子の心も見えないところで傷ついているのだ。
「疲れた?」
理央がコーヒーを淹れながら聞いてきた。
「ああ、少し疲れたかな。亡くなったのは、お父さんの代わりに、仙台に行った人だったから」
「私ね、お父さんは行ったとしても無事だったような気がするの」
「どうして?」
「変だけどね。私たちのことは、お母さんが守ってくれてるような感じがする」
「ちょっと怖いな」
「ちっとも怖くないよ。お母さんだもん」
そう言うと理央は宿題すると言って、自分の部屋に戻って行った。
「今日ね、ねねがいいものくれたんだよ」
沙穂が嬉しそうに報告した。
「何をもらったんだ?」
私が聞くと沙穂が目をクルクルさせて答えた。
「これ」
沙穂が見せてくれたものは、少し色あせたキリンのぬいぐるみが付いたキーホルダーだった。
「どうしてくれたのかな?」
「今日ね、ねねが怒ったから、沙穂は泣いちゃったんだ。そしたらくれた」
「フーン、良かったねぇ」
また沙穂がご飯を食べないか、風呂に入らないかで怒られたんだろう。理央にも沙穂のお守で苦労を掛けるなと申し訳ない気持ちになった。
「これね、ママがねねに買ってくれたものだって」
「えっ」
よく見ると思い出した。それはあの日上野動物園のお土産屋で、理沙が理央に買ってやったものだった。大切なものをなぜ?
「ママがねねに言ったんだって。けんかしたら最後は絶対にな・か・な・お・り、するんだって。だからくれた」
私は理沙が口癖のように言ってた言葉を思い出した。
――大切な人とはけんかしたまま別れちゃいけない。何かあった時、絶対に後悔する。次に会う時までそれを思って辛いから絶対に仲直りして別れるんだ。
「沙穂はママがいなくて寂しいか?」
「これ貰ったから、大丈夫」
沙穂は笑って言った。
そう言えば、理央は時々理沙の話を沙穂にしているようだ。理沙は沙穂が生まれて半年で亡くなったから、沙穂の記憶には残ってない。だから理央が自分のお母さんの思い出を伝えようとしているのか。
今日会った沙織のことを思い出した。
――沙織は大木と最後に別れた時、笑って別れたのか?
そうならいいのになと思った。
「沙穂、良かったな」
「うん」
――理央、ありがとう!
心の中でそう呟いた。
次の日の朝は快晴にも関わらず、冷たい風が吹いて体の芯まで凍えるほど寒かった。
――今日沙織は会社に来るだろうか?
それを思うとより寒さを感じて、ベストを脱いで長袖の薄手のセーターを着て出社した。エントランスを通ってエレベーターで最上階に向かう。一緒に乗った人たちが次々に降りて、最後は一人になった。一人になると再び寒さを感じた。
部屋に入ると、そこには遥香と共に沙織もいた。沙織はたくさん泣いたとことを連想させる腫れぼったい目をしていた。
「おはようございます」
いつもの元気はなく、静かな挨拶だった。
「おはよう」
私は努めて明るく声を出した。
「おはようございます」
沙織の背中を押すかのように、柄にもなく元気な声で遥香が挨拶する。その声に勢いをもらったかのように、沙織がおずおずと話し始める。
「昨日はすみませんでした。私、あのとき急に世の中の全てに腹が立った感じになって、星野さんはちっとも悪くないのに八つ当たりをしてしまいました」
沙織はそう言って深々と頭を下げた。
「それよりも、会社を辞めるって気持ちは、今はどうなっている?」
「今日は星野さんに謝らなければ、と思って会社に来ました。でも会社は思い出がいっぱいあって辛いです」
「辛いから辞めたい?」
「そう思ってました。でも少しだけ、長池さんと昨日話をして気持ちが変わっています」
「そうなの」
少し意外だったが、確かに昨日よりも沙織の目には力強さが戻っている気がした。
「私、三日間だけ休みを貰って、大木君のお墓に行こうと思っています。そこでもう一回大木君と話をして、その後で二人で過ごした場所を巡りたいと思います」
「辛くないかい」
「辛いですけど永池さんに言われて、彼が私にくれたものが悲しみだけになったら、申し訳ないと気づいたんです。だから楽しかったことをしっかり思い出して、感謝したいと思いました」
「そうか」
強いなと思った。自分は理央と沙穂のおかげで立ち直れた。沙織は自分の足で立とうとしている。
「全部昨日長池さんに言われたことなんです。言われた時は正直腹が立って、勝手なことを言わないでと思ったけど――」
「思ったけど?」
「星野さんも奥様を理不尽な事故で無くされたんですよね。でも立ち直って職種変更してまで、二人の娘さんのために頑張ってる。遥香さんは、星野さんは奥様といい思い出があったからこそ、それができたんだって言いました。だから私も大木君のために頑張ろうと思ったんです」
それは違うと思ったが、口には出さなかった。理沙との思い出で立ち直ったのは、一番落ち込んだはずの理央だった。昨日の沙穂との会話で、それを痛感したばかりだった。
だが誤解でも沙織が立ち直りそうな様子を見て嬉しかった。沙織が職場に戻った後も、遥香に対して感謝の気持ちでいっぱいだった。
遥香は何もなかったように、いつもと変わらぬ様子で仕事をしている。ついに一日経っても、ありがとうと言えず、その日が終わった。
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