第29話 帰京

 まだ外は暗かった。テレビは相変わらず地震関連の情報を流し続けている。特に福島原発の状況は深刻なようだ。メルトダウンしなければいいが、と思いながら旅立つ用意をして部屋を出た。

 新大阪には五時に着いた。まだたくさんの人が駅にいるが、どうやら今日は新幹線の運行が再開するようだ。六時の始発に乗り込み発車を待つ。

 乗車した人たちは、帰れるとなっても誰も安堵することなく、東の状況に憂慮して暗い顔だった。既に外は明るくなってきたが心は晴れない。

 普段よりも何倍も長く感じる新幹線の車内で、スマホからインターネットをチェックするが、昨日とあまり変わりはない。昨夜は遥香の言葉通り大勢の人が夜通し歩いて帰宅したようだ。

 東京に着くと、中央線は既に運転を再開していた。まずは家族の下に帰らないとと思い、快速電車に乗り込む。

 ――理央と沙穂は無事か? 

 ――家は大丈夫か? 

 様々な心配が心を横切る。悪いことは考えないようにしようとするのだが、なかなか不安を振り払えない。

 吉祥寺の駅に着くと、荷物が多かったのでタクシーに乗る。

「お客さん、昨日は出かけてたんですか?」

 タクシーの運転手が声をかけてきた。

「ええ、大阪に行っていて、こちらも揺れましたか?」

「揺れたなんてもんじゃないですよ。車を運転していて揺れるのを感じたのは久しぶりです。昨夜は徹夜で歩いて帰ってきた人も多かったようですよ」

「家族や家が心配だったんですね」

 やはりたいへんなことになっていたようだった。車は五分で家に着いた。

道すがら街の様子を見てみると、確かに遥香の言葉通り武蔵野市の被害は少ないようだ。元々地盤の安定した土地なので、大きな被害にはつながらなかったのだろう。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 家について帰りを告げると、理央の元気な声がして、続いて沙穂が飛び出してきた。その後ろから理央の顔が覗く。

「お父さん、大丈夫だった。新幹線座れた?」

 さすがに高校生にも成るとしっかりしている。

「座れなかったが大丈夫だ。二人は何か食べたか?」

「うん。カップヌードルの買い置きやお菓子があったから大丈夫だよ。電気は止まらなかったからお風呂にも入れたし」

「まあ何にしても良かった。朝ごはんは食べたか?」

「ううん、まだ。もうすぐお祖母ちゃんが来るって、ご飯も持ってきてくれるみたいだから一緒に頂こう」

 理央の話では、美穂子が心配して何度も電話をしてきたようだ。今日から泊まっていくとのことだ。美穂子が来てくれると聞いて、身体の力が抜けた。


 美穂子の持ってきてくれた朝食は素晴らしかった。おにぎり、卵焼き、ウィンナー、お弁当箱の中に美穂子の優しさが込められていた。特にポットに入れて持ってきてくれたみそ汁は、身体の内側から染みこんでいくようだった。

「パパ、美味しいね」

 沙穂が愛らしい笑顔を向けてきた。

「お父さんは大阪でいっぱい美味しいもの食べたんじゃないの~」

 理央がからかうように追及してくる。

「どんな料理よりもお祖母ちゃんの優しさが詰まった料理に勝てるものはないよ」

 月並みなセリフだが、心からそう思った。そして、言葉には出さなかったが、みんなで一緒に食事できる幸せに感動していた。

 テレビをつけると地震の情報でいっぱいだった。福島の原発は事態が回復せず、たいへんな状態に陥ってるらしい。仙台に行った大木のことを思い出して、携帯に掛けてみたが依然としてつながらない。少し嫌な感じがした。

「お父さん、会社に行ってみる。心配なことがあるんだ」

 三人とも何も今日行かなくてもという顔をしたが、それでも快く送り出してくれた。


 会社に着くと、その外観、内観共に大きく変化が見られないことに安心した。オフィスに入ると、なんと遥香が来ていた。

「どうしたんだ。今日は休んで構わなかったのに」

「早紀さんも絵利華も出勤するというので、私も来ちゃいました」

「自分の部屋に帰ってないのか?」

「まだ帰ってません。まあ大丈夫じゃないですか」

――緻密そうに見えて、意外と大胆だ。いや仕事熱心なだけか。

「一回家に帰った方がいいよ。何かものが倒れているかもしれないし、それに余震の心配だってある」

 遥香はそう言う私の顔をじっと見ている。心なしかいつもより素直そうに見えた。

「分かりました、帰ります。ところで、仙台に行った大木さんとの連絡は取れたのでしょうか?」

「何度も彼の携帯に電話を入れてるんだが、電波が届かないまたは電源が入ってないと返って来るんだ。充電できなくて足止めを食ってるのかもしれない。この後、人事部にも行ってみる」

 説明しながら少し嫌な予感が掠めた。

「無事だといいですね」

 そう言って遥香は帰って行った。親しい人たちの安否を一通り確認して、急に大木のことが気に成り始めた。人事部に行こうと思った。


 人事部には同期の宮川がいた。労務課長をしている。学生時代にラグビーをやっていた宮川は元はがっしりして精悍な体形だった。今は飲むのが仕事というのも手伝って、お腹周りに貫禄が出てきて益々大きくなっている。部屋を見渡すだけですぐに見つかった。大木の話を聞こうと近寄ると、宮川の方が私の姿を見つけ会議室を指さした。

「大木のことか?」

 部屋に入るなり、宮川が切り出した。

「俺の代わりに行ったことを知っているのか」

「ああ、菅原から聞いた」

 菅原とは教育グループ長だ。今は大阪にいる。

「それで、連絡はついたのか?」

 宮川が私の顔をじっと見る。ただならぬ雰囲気だった。

「講演の後で仙台支店の加納支店長と昼食に行ったらしい。そして昼食が終わって仙台駅で別れてから消息を絶っている。うちの消息不明者は今のところ彼一人だ」

「消息不明……」

 駅で消息を絶ったと聞いて、私の脳裏に理沙の死が過った。

「今、総務を通じて警察に仙台駅周辺の負傷者リストを調べてもらっている」

「しかし、仙台は津波も来なかったし、ダメージ的には他に比べれば安全なんだろう」

「それでも震度七だ。何が起こるか分からない」

 私はまた理沙のことを思い出した。理沙の死も突然やって来た。

「まだ、はっきりしたことは分からないんだな」

「ああ、だが津波に揉まれてない分、はっきりするのも早いだろう」

 不安が全身を包んだまま、人事部を出た。状況からは何一ついい要素がない。


 居室に戻っても仕事が手につかなかった。社歴資料で災害時の記録をぱらぱらと見る。直ぐに目につくのは大正一二年に起きた関東大震災だ。今回の震災が水によって未曽有の大惨事が引き起こされたとするならば、関東大震災は火による災害だと言える。

 一〇万人以上が死亡し、東京が焼き尽くされた。建物の下敷きになった被災者も多数記録されている。

 そして高倉家も将造の姪の紀久子きくこが亡くなっている。この時将造は社員だけではなく、地域の生存者に働きかけ、治安と秩序を守り補給を確保するなど、類まれなリーダーシップを発揮したとある。

 身内の不幸にも負けず、復興に向かって大きな力となったのであろう。エックベルトの言葉が思いだされる。有事の時こそ、真のリーダとしての資質が現れる。高階も試練の時を迎えたことは間違いない。


 宮川から電話が来た。

「大木が死んだ」

「えっ」

 言葉が出なかった。

「大木はエスカレータに乗っている時に地震に遭遇し、バランスを崩した人間の下敷きになった。打ちどころが悪かったのか、病院に運ばれた時には手遅れだったらしい」

「そうか」

 それだけ言って電話を切った。窓から覗く空は、青く晴れていた。もう大木が二度と見ることができない快晴の空だ。

 私は頭に手をやって下を向いた。目を瞑ると大木の快活な笑顔が浮かんでくる。やりきれない思いで辛くなった。


 部屋を出ると早紀と絵利華がパソコンと格闘している。おそらく役員のスケジュールが大きく狂ってしまったのだろう。クライシスルームには社長と一緒に梅川も詰めているはずだ。邪魔をしないように声をかけずにそっと通り抜ける。


 エレベーターに乗り込み目的もなく古巣の営業部のフロアに向かった。九階には長澤がいた。さすがに出勤している者は少ないが、長澤の周りには七、八人のスタッフが詰めていた。皆懸命に電話していた。

 私の姿に気づき長澤が近づいてきた。

「どうしたんだ。なぜここにいる。お子さんは大丈夫なのか?」

「ああ、うちは家も含めて皆無事だ。今理沙のお母さんが来てくれて子供たちの面倒を見てくれている」

「それは良かったなぁ。家にいなくていいのか?」

「ああ、昨日まで大阪にいた。いったん家に帰って今来たところだ」

「それなら家にいても良かったんじゃないか。ここに来てもすることはないだろう」

「俺が大阪に行く代わりに仙台に行った人事部の若手が心配で来てしまった」

「人事部の若手、誰だ?」

「営業三部にいた大木だ」

 その名前を聞いて長澤の顔が変わった。

「大木!」

 私は長澤に大きく頷いた。

「それで大木はどうなったんだ、見つかったのか?」

「死んだ。支店長と飯を食いに行った帰りに、エスカレーターで上から降ってくる人の下敷きになったらしい」

 大木の名前を聞いて長澤の表情が変わった。厚い唇は半開きに開き、メガネの奥の目は焦点が合ってない。

「大木を知っているのか?」

「ああ、奴は俺がマネジメントを学ばせたくて人事部に送った。いずれは営業に戻すつもりだった」

 いつもの長澤らしくなく力のない声だった。

「大木は優秀だったのか?」

「仕事はできた。だが奴の評価は成果よりも人間性にあった。精神がきれいなんだ。俺は高倉の営業は誠実が柱だと思っている。口先だけで納めない、真心をぶつけて信用を勝ち取るのがうちの基本スタイルだ。その王道を進む男だった」

「残念だな――」

「ああ」

 二人ともそれだけ言うのが精いっぱいだった。

「今日は何してるんだ?」

 この話をこれ以上続けられないと感じて、話題を変えた。

「東北の支店、営業所に送る救援物質を手配している」

「お前もたいへんだな」

「何を言っている。会社の仲間が困っているかもしれないんだ。対処して当然だろう」

 エックベルトの言葉を思い出した。やはり長澤はその精神においてリーダーの資質が十分なのだろう。

「邪魔しちゃ悪いな。戻るよ」

「お前大丈夫か?」

 きっと理沙のことを思い出したのだろう。長澤が心配している。

「大丈夫だ。心配かけてしまって悪いな」

「ノープロブレムだ」

 最近流行りの英語で答えて、長澤が作業場に戻っていく。その後ろ姿を見ながら、非常事態にちゃんと第一線で踏ん張れる長澤は真のリーダーだと感心した。


 長澤と別れて階段で八階に向かった。そこには懐かしい吉木の顔があった。

「星野さん、どうしたんですか、家にいなくていいんですか?」

 吉木は星野の娘のことを心配してくれた。こんな状態でも仲間の心は温かいものだ。

「ああ、理沙のお母さんがヘルプで来てくれたのでうちは心配ない。そっちは大丈夫か?」

「ええ、三濃商事関係のシステムやトレーナーは特に問題ありませんでした。震災が起こって金属関係の相場が大荒れなので、三濃商事では全員がフル稼働して働いているようです。うちのシステムもコミュニケーションとノウハウ抽出で大活躍しているらしいです」

「こんなときでも経済は動くんだなぁ」

 私はこんなにも経営陣の近くにいながら現場から離れただけで、事業家という名の獰猛な人種から縁遠くなっている自分に気づく。

「まあこんな時に商機を感じて動く人間って正直どうかと思いますけどね。ただ、最低限の対応はとらないと会社がダメになりますから」

「こういうのもBCPって言うんだろうな」

 BCP=ビジネスコンティニュティプラン(事業継続計画)は、こうした天災だけではなくテロなどの人災も含み、事業の継続が困難な状況での対応を計画するリスクマネジメントだ。

 今吉木が出勤して対応していることも、災害時に製品やサービスの提供が困難になることで取引先の信用を失うリスクへの対策であり、TECGのBCPを策定するときに組み込まれている。

 別に吉木がこの地震を商機と捉えているとは思わないが、三濃商事は明らかにそう思い行動している。それをサポートしなければならないことが、大木を失った今の精神状態では受け入れることが難しかった。

「邪魔したら悪いから居室に戻るよ」


 これ以上ここにいたら言わなくてもいいことを言ってしまいそうで、居室に引き上げることにした。吉木は人手が足りなくて忙しいみたいで、特に引き留めることもせずに軽くお辞儀をしただけで仕事を再開した。

 最上階に戻るエレベーターの中で、うちの経営陣もこの機会を好機として動くかもしれないと、いささかうんざりした気分になっていた。

 エレベーターホールを出て奥にある社史編纂室に戻る途中で、半開きになった秘書室のドアから梅川の声が漏れてきた。相当大声で指示を出している。

 何を支持しているのか知りたくなってドアを開けると、梅川が秘書室だけでなく経営企画、CC部、総務部の社員も集めて指示をしていた。トラックなどの単語も飛び交っている。途中から聞いているので詳しくは分からないが、これから社をあげて何かに対応するようだ。

 梅川が指示が終わると私の存在に気づき近寄ってきた。

「来てたのか、家は大丈夫か?」

「はい、妻の母が来てくれて子供たちを見てくれています」

「そうか、それなら安心だな」

「ええ、ここはずいぶん慌ただしいですね」

「ああ、先ほど臨時取締役会を開いて、当社の今回の災害に対する取り組みが決まり、その実施を取り仕切る対策本部がここに設置された」

「なるほど、それで各部のメンバーもここに集めっているんですね」

「そうだ。しばらく忙しくなる」

「何をすることになったのですか?」

 いずれは分かる話だが、経営陣がこの事態に何を考えるのか知りたい思いに負けて、待ちきれずに聞いてしまった。

「今、東北の通信ラインは遮断されている」

「確かにそうです」

「だからうちの保有する限りの衛星電話を主な避難所に無料貸し出しすることにした」

「非常電話としてですか?」

「ああ、とりあえず電気が来ているところから優先で配布する。電気が遮断されているところは太陽電池を運んで発電する」

「何台あるんですか?」

「支店や大型営業所に置いてあるものを合わせると50台ある。これを全て運ぶ」

 これは確かに凄い話だった。被災地にはお年寄りが多い。家族や親戚の声を聞ければ多いに励みになる。

「衛星電話を開放するとなると通話料も凄いことになるんじゃないですか?」

 ふと気になって聞いてみた。

「このアイディアは有永さんから出てきた。もちろん通話料の負担に関して経理畑から危惧する声も出たが、有永さんが一蹴した。海外の事業を育てるために莫大な金を投資してきたんだ。日本が未曽有の危機に陥った時に金をケチってどうすると」

 利益の源泉たる国内営業のドンがそう言いきったら、誰も反対できないに決まっている。それにしても思い切った決断だと思った。そこには自社の今後だけを心配するとか、このどさくさに紛れて儲けてやろうとか、そういう自社中心的な考え方はかけらも存在しない。

 国の危機に社をあげて協力しようとする気持ちだけが見える気持ちのいいものだ。エックベルトはこの決定をどう思うのだろう。彼はこの事態にトップがどう動くか興味を示していた。彼のロイヤリティにこの決断は大きく影響するだろう。

――私はどうなんだ

 私はもちろん賛成だ。暗いニュースが続いて萎えていたやる気が燃え上がってくるようだ。

「私にも手伝わせてください」

「君はいいよ。今回は役に立たない」

 勢い余って助力を申し出ると、梅川はあっさりと断った。

 私が怪訝な顔をすると、

「だって君はこの件に関して何もできないじゃないか。今は国内営業の人間ではないし、政府筋に運搬許可をネゴするパイプがあるわけではないし。マスコミ対応もできない。うちはこれを会社の意志としてやるんだ。ボランティアではない」と言われた。

 そう冷静に言われると、確かにその通りだった。私に与える仕事を考える方が負担かもしれない。

「よく考えずに申し出てしまって申し訳ありません」

 私が素直に謝まると、

「それよりも君ができることを考えてくれ」と言われた。


 私はこれ以上邪魔しては悪いと思い、社史編纂室に戻った。ドアを開けるとそこには帰ったはずの遥香がいた。

「どうしたんだ。帰ったはずじゃあ――」

 驚いて言葉が続かない私に、遥香はきっとした表情で答えた。

「家に着いた後で人事部に電話して大木さんが事故死したことを知りました。変に責任を感じてるんじゃないかと心配になって戻ってきました」

 遥香はいつものクールな表情ではなかった。心配で張りつめて今にも倒れそうな深刻な表情をしている。

「いや大丈夫だ。でもどうして――」

 遥香の勢いに押されて言葉が続かない。

「奥さんのこともあるし、必要以上に気にされて悩まれてるんじゃないかと思いました」

 梅川の話を聞くまでは確かにそんな気分だった。だが今は生きてる人間が感情で動きを止める時ではないことも教えられた。

「心配してくれてありがとう。少し前までそんな感じだったけど今は大丈夫だ」

 そして私は梅川に聞いた話を遥香に伝えた。

「経営は間違ってないですね。誇りに思います。それで星野さんは何をしようと思ってるのですか?」

 私の話しぶりから心の底に浮かんだアイディアを感じたようだ。

「私は――」

 今は自分にできることをやる。実行にあたってこの信頼できるパートナーに相談を始めた。

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