第28話 日本が揺れた日
Q&Aセッションが終わり大役が済んだと安心して東京に帰ろうとしたときに、本来であればお疲れ様でしたと
「東北で大きな地震があって、東京も大きく揺れたようです。本社に状況を確認しようと電話しているのですが、まったくつながりません」
「地震があったのですか!」
私はスマホを取り出して、社史編纂室に電話したがつながらない。次に保育園、小学校にかけてみたが全部つながらない。
「すぐに新大阪に行きます」
一刻も早く東京に戻りたかった。
「駄目です。地震のせいで新幹線は止まっています」
沙織はそう言って、すまなそうに首を振った。
「森田さんたちはどうするんですか?」
「私たちはとりあえず、もう一日プログラムがあるので、ここに泊まります。研修を継続するかどうかは、被害状況を確認して判断します。海外からの参加者は、交通機関が回復したら帰しますが、日本の参加者たちをどうするかは、これから事務局で話して決めます」
「分かりました。私はここにいてもしかたがないので、新大阪に向かいます。最悪駅で徹夜してでも、少しでも早く帰れるように手を尽くしてみます」
そのときだった。ホテルの営業担当が慌て気味に走って来た。
「森田さん、たいへんです。津波です。大津波が東北の沿岸部を襲いました。もう大変なことになっています」
急いでホテル事務所のテレビを見た。それは宮城県を高さ一○メートルの津波が襲う映像だった。津波は東北地方の太平洋側海岸のほぼ全域を襲ったようだ。
「地獄だわ……」
沙織が絶望的な表情でポツリと漏らした。
新大阪の駅は新幹線の再開を待つ人でごった返していた。渦巻くような喧噪の中で、私はいつもと違う違和感を感じていた。誰もが焦りや苛立ちを覚えているはずなのに、ヒステリックな言動や駅員を罵る声が聞こえないのだ。
都内で最終電車が大雨などで止まった時は、必ず駅員に食って掛かる人や、周囲に当たり散らすような人が出て来るのだが、不思議とこの場にはいなかった。ある意味整然としてるようにさえ見える。
アナウンスによると今日の新幹線は終日運行停止になるようだ。それならばウェスティンに帰った方が情報を取れるかもしれない。そう思い直した私は、今日中に帰ることをあきらめてタクシーに乗った。
ホテルに着くと既に六時を回っていた。予定していた懇親会は中止となり、用意していた食事だけ、参加者が夕食代わりに食べていた。
沙織が戻って来た私の姿に気付いて近寄って来た。
「やはり駄目でしたか」
「子供たちが心配ですが、ここは情報収集して明日以降の対策を練ることにしました。スマホの電源も心配だし、コンビニからは予備バッテリーは姿を消していました」
「先ほどホテルから連絡があり、宿泊を予定して来れなくなった方が多数いるらしく、必要であれば部屋を回してくれるということです。泊まりますか?」
「お願いします。状況を把握して対策を練ってから動きます。もし会社から何か連絡があったら教えてください」
沙織の話では、日本人は事務局以外は新大阪や伊丹空港に向かったようだ。自分と同じように、どうにもならないので帰って来た者もいるようだ。
チェックインを済ませ部屋に荷物を置くと、沙織の勧めに従って懇親会場で食事を取ることにした。今やるべきことは、動けるようになった時に疲れを持ち越さないことだ。
もう一度、スマホで連絡を取ろうとしたが、まったくつながらなかった。
会場では海外の参加者を中心に、静かに食事を取っていた。私も手早く食べて、部屋で通信の回復を待つつもりだ。
エックベルトという名のドイツ人が近づいて来た。
「今日はナイスプレゼンテーションだった。ためになったよ」
「ありがとう」
今は褒められても、東京に残した子供たちが気になって気持ちが上向かない。
「それにしても大変な事態だな。こういう時にいろいろなことが試される」
「試される? 何を」
ドイツ人らしい哲学的な表現に興味を惹かれ、思わず訊き返した。
「まず最初に試されるのは政府だ。こういう時にトップの決断力と胆力が試される。次に試されるのはマスコミだろう。こういう非常事態にどういう報道ができるかで、その国の成熟度が分かる」
成程、欧米人のこういう目が、政府やマスコミを育てるのだろうと納得した。
「しかし、我々ビジネスマンは自分の所属する会社のトップを見る。なぜだか分かるか?」
「ああ、君たちはトップの動きを見て、今の会社にいるべきか、去るべきか判断するんだろう」
「ザッツ イグザクトリー ライト!」
エックベルトはそう言って、ウィンクして去っていった。
部屋に戻ると午後七時になっていた。もう一度スマホを手に持って、自宅に掛けてみるがつながらない。もしかして倒壊しているんじゃないかなど、悪い考えが頭を走る。
会社は大丈夫か? 情報のない不安感に押しつぶされそうになりながら、たった一人の同僚の遥香の安否が気になった。
部屋に戻ると持参したPCをLANにつないで社内メールを立ち上げる。どうやらネットはつながるようだ。受信トレイの中に遥香からメールが来ていた。慌てて開いてみる。
遥香のメールは遥香らしい内容だった。感情的な内容は一切排除され、東京のオフィスは特に家具の転倒などの被害はないこと、社員は勤務免除となり会社に泊まることができるが、専務秘書の絵利華の家が本郷にあるので、早紀と二人で今夜は泊めてもらうことなどが、箇条書きで書いてあった。
ただ、その中に武蔵野営業所の同期の社員に問い合わせて、武蔵野市の被害がほとんどないことと、携帯電話はつながらないが固定電話はつながることに目が止まった。
(そうか固定電話で掛ければいいのか)
携帯での連絡に慣れていたため意外な盲点だった。すぐに部屋の電話から自宅に電話する。ツーコールで理央が出た。
「もしもし、理央か」
「お父さん」
理央の声は弾んでいた。
「家の中は無事か?」
「大丈夫だよ。物とか倒れてないし、食料もあるから大丈夫だよ」
「沙穂はどうしたか分かるか?」
「ここにいるよ。私が小学校に迎えに行って連れて帰ってきた」
理央は今年高校生になって、一時期の反抗期も終わり、すっかり大人になった。
理沙に似て思慮深い面があるので、安心して任せられるが、必要とされてない気がして少しだけ寂しさも感じる。
「沙穂と話しできるか?」
「いいよ、沙穂ー」
家の電話がスピーカーに切り替わったようだ。どたばたと賑やかな物体が近づいて来る。
「お父さん、沙穂だよ。びっくりしたねー。初めて机の下に入ったんだよ。お父さんも入った?」
小学二年生に成る沙穂は、ますますおしゃべりになった。母のいない寂しさに挫けることなく、明るくていつも元気な子に成長した。
「お父さんのいる場所は、あまり揺れなかったから机の下には入らなかったなぁ」
「そうなんだ。
私が知らない幹夫君の話をして笑い転げている。
「そうか、今夜はお父さんは家に戻れないから、おねぇちゃんの言うことをよく聞いていい子にするんだぞ」
「うん、先生は入るところがなくて、ずっと立ってたんだよ」
よっぽど、机の下にもぐったのが楽しかったようだ。
指示されなくても、机の下に入る姿が目に浮かんで、思わず笑ってしまった。
「じゃあ、お姉ちゃんと代わってくれ」
とりあえず大丈夫そうなので、理央に代わってもらった。
「もしもし、何?」
「お父さんは今日は帰れないんで、一泊して始発で帰る。戸締りと火の元に気をつけるんだよ」
「大丈夫、この家にいればお母さんが守っていてくれる気がするから」
確かにそうだ。理央は大丈夫そうだ。
次にメールに書いてあった絵利華の自宅の電話番号にかけてみた。電話には絵利華の母が出た。名前と身分を名乗り、遥香に代わって欲しいとお願いした。
「星野さん、やはり帰れませんでしたか」
「新大阪に行った時は新幹線は運休になっていた。それよりも君が無事で良かった」
「東京は埋め立て地区は液状化とか起きてるようですが、内陸部は揺れはしましたが意外と大丈夫です。ただ交通機関はマヒしたので、大勢の人が歩いて帰るようです」
「そうか、たいへんだな」
「武蔵野市は大丈夫みたいです」
「ああ、わざわざ確かめてくれたんだな。ありがとう」
礼を言った時電話の向こうで嗚咽が聞こえた。
「どうした?」
返事がない。
「大丈夫か?」
やはり返事がない。星野は電話の向こうの声をしばらく待った。
「すいません。少し疲れました。もう休みます」
「ああ、疲れてるところを悪かった。ゆっくり休んでくれ」
電話を切ってから、もしかしたら遥香は泣いていたんじゃないかとふと思った。
(まさかな、あの長池君が泣くなんて)
ありえないと思いながらも気になった。だが確かめようがないのでテレビを点けた。
テレビは全て地震の特番になっていた。特に東北地方を襲った津波の映像はすさまじかった。そして、津波によって原子力発電所が自動停止し、政府から原子力緊急事態宣言が出たことを知った。それはエックベルトの言う通り、まず政府が試される事態だった。
(大木はどうした!)
自分の代わりに仙台に行った大木のことを思い出した。予定では午前中に講演が終わるはずだから、すぐに帰れば地震からは免れる。だが、支店長から昼食に誘われる可能性がある。そうなると巻き込まれた可能性も出て来る。
私はフロントに電話して沙織の部屋番号を聞き、大木の安否を確かめるために電話した。電話はすぐにつながった。
沙織の話では、大木のことが気になって、すぐに何度か連絡を取ろうとしたようだが、未だ連絡がつかないということだった。やはり地震発生まで仙台にいた可能性が高い。念のために大木の携帯の電話番号を聞いておいた。
とにかく、体力を温存するしかない。まずは寝て明日は全力で活動しよう。
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