第23話 三つ目の問題

 内では美鈴の母、外では高倉源治と、二つの問題を抱えたまま、エレベーターは私を載せて最上階に登っていく。

「梅川室長がお呼びです」

 出社すると、すぐに恵梨香が現れた

 今日の恵梨香は内向きにカールしたヘアと、薄黄色のカーディガンで、どことなく優しい雰囲気を出していた。

――これだけの美女でも有永専務の秘書となれば、社内の男は誰も手を出さないんだろうな。

 こんなときでも、不埒な考えは頭を掠める。

「今行きます」

 その考えを振り払うように答えて部屋を出た。

 梅川は待ちかねたように、私を迎え入れた。

「源治さんへの対策は何か思いつきましたか?」

 やけに丁寧だ。

 さすがに梅川でも、株主総会まで要求するという源治への対応に、お手上げになっているのだろう。

 またもや源治の言動と美鈴の母の話がダブル。

 今の自分の立場であれば、どちらも即否定すべき内容だが、相手の立場に立ってみれば少しだけその行動も頷ける。

 結局目的は自分の大切なものを守ろうとしているのだ。

 方法が間違ってるだけなので、それさえ気付かせることができれば解決するはずだと思った。

「高倉源治が相手と成ると、一対一では翻意は難しいと思います。何しろ生まれ育った人間の格が違う。ここは源治さんの心に響く場面で、現実を見せるのが一番ではないかと思います。」

「心に響く場面とは?」

 梅川は意外と冷静に聞いてきた。他に方法がないなら、藁にもすがる思いなのだろう。

「私がスピーチするというのはどうですか?」

「君がスピーチ……」

 予想もしてない答えに梅川は戸惑ったようだ。

「今週末に、芝浦の旧本社ビルの取り壊し前の内覧会をやると聞きました。そこにはOB会の有力者も多数招待されているそうですね。内覧の後の講堂でのパーティで、特別プログラムとして、私が旧本社ビルに纏わる高倉の歴史をスピーチするんです」

「源治さんも来るんだぞ。そんな敵地のような場でスピーチしても、何の効果も得られないんじゃないか?」

「それは逆だと思います。自分の味方に囲まれて高倉の聖地にいるからこそ、心が素直になると思います。問題はスピーチの内容だけです」

 梅川は黙ってじっと考え込んだ。長い時が過ぎたように感じた。梅川にしては珍しい長考だ。そして顔を上げた。

「分かった。有永専務に反対されたにも関わらず、私の心を動かしたあの時の君の力を信じるよ」

 あっさりそう言って、梅川は承諾した。

「一つだけ注文してもいいですか?」

「何だ」

「当日の手伝いの中に、キャリア採用で入った外国人で、できのいいのを二十名ばかり送り込んでもらえますか」

「それは構わないが、何に使うんだ?」

「それは秘密です。スピーチの効果を高めるために必要だとだけお伝えしておきます」

 梅川は思わず目を大きく広げて、私の顔を覗き込んだ。

「君ってやつは、いいだろう、すぐに手配しよう」

 そう言って、今日初めて梅川が楽しそうに笑った。

 梅川の部屋を出ると、絵利華が待っていた。

「梅川さんとのお話は無事に終わりましたか?」

 美しい顔が少し曇って見える。

「あまり無事とは言えないですけど、とりあえず今日のところは帰れるかなって感じです」

 いつも颯爽としている絵利華が、珍しくもじもじしながら、言い出しにくそうにしている。

「どうしたんですか?」

 私が聞くと、絵利華がきっとした顔をして言った。

「あの、少しお時間をもらうことはできないですか?」

「えっ、今日ですか?」

 それはできなかった。沙穂のお迎えに行かなければならない。

 躊躇している私に絵利華が言った。

「実は私と鈴川さんで、吉祥寺でベビーシッターの手配をしています。その人は鈴川さんの後輩で、信用できる人です」

 そう言えば、鈴川さんは吉祥寺近くの女子大出身だったなと思い出した。

「どんな話ですか? 私で対応できますか?」

 どうも自分は甘い。きれいな女に誘われるとすぐに妥協する。

「深刻な話です。きっと星野さん以外だと話せない……」

 専務秘書としていつも毅然としている絵利華の頼みに、私の男がぐらついた。

「少しだけならいいですよ」

 OKしてしまった。絵利華は嬉しそうに、スマホで連絡を取っている。

「沙穂ちゃんのお迎え、鈴川さんの後輩の人が行くそうです。二人のご飯も用意して、寝付くまでいてくれるそうですから、心配しないでください」

 絵利華の手回しの良さに少しばかり驚いた。

「費用はどのくらい掛かりますか?」

 この状況で、まだ現実的な話をしている自分がいる。

「大丈夫です。私がお願いしたことですから私が支払います」

 この時はいつもの毅然とした専務秘書としての絵利華がいた。その姿に圧倒されながら私は言った。

「じゃあ、食事に行ってお話を伺いましょう」

 まったくポリシーも何もない。

 美女の前ではホントに自分は弱いなと思いながらも、心が浮足立つ自分がいた。

 深刻な問題が続いて、気晴らしを求めていることも否定できない。

 鈴川早紀の後輩の名前を聞いて保育園に連絡する。理央はバスケットの練習に出かけているので、携帯電話に留守電を入れておいた。


 絵利華が案内してくれたのは、新宿の紀伊国屋書店の分館にある和食のダイニングバーだった。そこにはなんと社長秘書の鈴川早紀も先乗りして待っていた。

 美女二人に囲まれて心なしか緊張して、鎌倉風に形作った個室に三人で座った。

 これから何が起こるのか予想もつかない中で、私が照れ隠しのように言った。

「わが社の美女ベスト2からお招き預かりありがとうございます」

 その言葉を皮切りに、ファーストオーダーで頼んだビールで乾杯した。

 食事はコースで頼んだらしく、オーダーを聞くことなく、まず先付が運ばれてきた。

 一見雰囲気重視の店に思えるが、存外に料理は素晴らしく煮物が出てくるまで、美女二人との会話と食べることを堪能した。

 女性と食事をするなど、理沙が死んでからずっと無かったので、私は楽しさに心が浮き足立った。おまけに同伴する女性が社内でも指折りの美女である。

 そんな中で、ふとなぜここで食事をしているのか思い出して、慌てて本来の仕事を全うしようとした。

「料理がおいしいので夢中になってしまいましたが、相談って何でしょうか?」

 私の質問に美女二人は箸を止めて顔を見合わせた。それまで和やかな表情だった顔が引き締まり、早紀が話し始めた。

「実は有永専務が私達に見合いを進めるんです」

「見合い!」

 確かに二人とも美しい上、年齢も早紀が二九才、絵利華が二七才と適齢期だ。

 結婚を勧めてもおかしくはないが、男性上司が男性社員に紹介するのと違って、女性の場合は下手するとハラスメントと捉えられる可能性がある。

 私も慎重に対さないと、後でまずいことになるかもしれない。おまけに勧めているのはあの有永専務だ。

「二人とも結婚したくないの?」

 自分で聞きながら間抜けな質問だと思う。結婚したいかどうかではなく、見合いが嫌だから相談してきているのだ。しかしそれ以外の言葉は思いつかなかった。

 予想したとおりの反応が早紀から返ってきた。

「結婚はしたいですよ。でも相手への条件はたくさんあります。私達別にオフィスの華になりたくて秘書をやってるわけじゃありません。山口さんのように役員の意向に沿った仕事ができる企画者になりたいと思っています」

 ダイバーシティコミュニティのメンバーでもある山口睦美は、高倉将志の会長秘書から経営企画室に異動し、今では企画者として大きな戦力になっている。

 経営者を長く見ていただけに、経営視点を外さない思考が特徴だ。

 確か既婚者で子供もいる。

「見合いして結婚しても、山口さんのように働くことはできるだろう」

 また間抜けな意見をしてしまった。できないと思うから相談してきているのに。今度も早紀が厳しく反応した。

「できるわけないじゃないですか! 有永専務が勧めてくる時点で、相手は銀行か上場企業の経営者の縁だし、きっと専業主婦を前提にしています。見合いしてしまうと断るのも苦労するし、絶対無理です」

「そうなのか。でもこの問題は第三者の私には解決できないよ。そうだ、梅川さんに相談してみればいいんじゃない。君達の上司だし、部下のキャリアを大切にしそうだし」

 下手に首を突っ込んだらたいへんなことになる。ここは保身を決め込み、梅川を売った。梅川でもこの問題は扱いかねるだろうが上司であることは間違いない。

 しかし、早紀が即座に反論した。

「室長はダメです。欧米が長い割には、家族感はまるっきり日本人です。女は仕事よりも家庭の考えが透けて見えます」

 なかなか手厳しい。確かに先日女性を新しい時代のリーダーにと話したとき、珍しく反応が鈍かった。だがこれ以上問題を抱えることは不可能だ。

――そうだ、高倉源治が問題にしている話をしてみよう

 ここは何としても梅川に押し付けなければならない。

 そんな私の願いを、絵梨香が打ち砕く。

「私は今の状況をいい方向に導いてくださるのは、星野さんしかいないと思うんです。それで鈴川さんと相談して、星野さんを誘ったんです」

 男はこういう女の頼られ方に滅法弱い、

「どうしてそう思うの?」

 聞いてはならない理由を訊いてしまった。訊いた時点でこの勝負の負けは確定した。

「あのプロジェクトを有永専務に承諾させたときから思っていたんです。星野さんは人の考えを変える力があると」

「いや、あのときは梅川さんと社長がうまくやってくれただけで・・・・・・」

 さらに絵梨香が追い討ちをかける。

「そんなことはありません。おそらく星野さん以外が説明しても、梅川さんは動かなかったと思います。それに星野さんが社史編纂室長になってから、イントラの『高倉の歴史』のファンが急増しています。単なるエピソード紹介ではなく、経営者の意思が浮き出るようだと評判です」

 逃げ場を徐々に塞がれて、返事のできない私に対して、早紀が仕留めにかかる。

「お願いします。私達のために見合いを勧めちゃまずいようなエピソードを、社内に紹介してください。お願いします」

 最後のお願いしますは二人が声を合わせて頼んできた。

 こうして私は、高倉源治、美鈴の母に続いてさらにもう一つ難題を引き受けることになってしまったのだった。


 家に着くと十時を回っていた。早紀の後輩は沙穂を寝付かせた後も、私の帰りを待ってくれていた。

 少しぽっちゃりしていたが、笑顔が和ませる感じのいい女性だった。今は結婚して専業主婦をしているが、前は保母さんをやっていたので、その経験を活かして時々ベビーシッターのアルバイトをしているということだった。

 駅まで送ろうとしたが、子供達だけになりますからと、一人で帰っていった。また頼むことがあるかもしれないので、連絡先として名刺を貰った。

 理央はまだ起きて勉強をしていた。六年生になって意識が変わったのか、それまで部屋の装飾品だった勉強机に着くことが多くなった。

 勉強の中断をしては悪いと思ったが、榊の対応が気になったので聞いてみた。

「帰るときに、男の子達が謝ってきたよ。先生が言ってくれたみたい」

 理央はなんでもないように答えたが、声は昨日に比べて明るい声だった。

 あれからすぐに対応してくれた榊の迅速な処置に感謝した。後は美鈴の母への対応が残るのみだ。こちらも約束どおり、まずは榊を信じて連絡を待つだけだ。


 風呂の湯が冷えた体に滲みこんでくる。私は湯船につかりながら、同時に降りかかってきた三件の難題について考えてみた。

 まず高倉源治の件、この場合ターゲットは高階社長だ。源治は高階がトップであることに不満よりも不安を感じている。

 そして高倉一族からトップが立たないと今の難局は乗り切れないと本気で信じている。

 それに対して倉援会のメンバーは強い支持を打ち出すだろう。

 私は源治に対し、TECGの今後の発展に水を差すような動きではあるが、単なる経営が見えない男による暴挙とも、言い難いと感じていた。

 高倉の歴代の経営者を研究するうちに、普通の経営者としての能力とは別の力が働いていると、感じることがしばしばあるからだ。

 例えば、高倉史上最長期間社長を務めた二代目高倉将治は、人格も含めて素晴らしい経営者だったが、業績としては華々しいものをあげたとは言い難い。

 戦後の復興経済を背景に、粘り強く生き抜く経営を強いられたからだ。復員者受け入れの人件費負担も経営を圧迫した。

 これらは後の時代に評価されたもので、在任期間中は存続が危ぶまれるほど、危険な判断であったことは間違いない。そしてこれを乗り切れたのは、高倉将治の経営能力は別にして、運が良かったという要因は否めない。

 先代高倉将志も、バブル崩壊後の経営を受け持ったため、グローバル化などの政策はあまり実を結んでないが、インターネットバブルなど、景気の上昇期にうまく乗った感は否めない。

 これらは全て、『運』という能力とは関係ない不確定要素が絡んでいる。

 運を持っている経営者は確かに存在する。

 高倉源治を筆頭に倉援会の人たちが創業家復活を願うのも、おそらく運を引き寄せる存在として創業家に盲目的な信頼を置いているからだろう。


 理央の件にしても、美鈴の母は理央を貶める行為に走っているが、それによって得られるものは何もない。

 首尾よく理央を悪者に仕立てることに成功しても、美鈴は登校できないだろう。

 美鈴の母の自尊心はそれで保たれたとしても、実質的には何も解決せず、美鈴の不幸は続くだけなのだ。


 絵利華の見合い話にしても、有永は自己の利益のためにこの話を進めようとしているが、生活力のある男と結婚して子供を作ることが女の幸せという思い込みが、有永自身の心から負い目を払っている。


 一挙に降りかかった三件の難題は、全て利害の問題ではなく、心の中にある固執した考えを取り払えるかどうかに、解決の糸口がある。

 そのためには相手の立場を尊重したアプローチが必要だろう。それが今自分が置かれている役割なのかもしれない。

 長湯しすぎて頭がボーっとしてきた。私は考えることを止めて風呂を出た。パジャマに着替えて、ベッドに身体を投げ出して思考を止めた。すぐに眠りに落ちた。


 その日私は夢を見た。薄暗い空間に両腕を真っ直ぐに垂らして正座している。立ち上がろうとするのだが、体が動かない。目の前に顔のよく分からない男が現れた。手には刃渡り三十センチはあろうかという大きな包丁を握っている。その男が無言で私の背後に回って来る。途端に全身総毛立つような恐怖が襲ってくる。

 私は声を出そうとするのだが、口をパクパクと動かすだけで声が出ない。男はやはり無言で、私の後頭部にゆっくりと包丁を押し当てて斜めに刃を入れる。後頭部の一部が柔らかい肉でも切るかのように、ペロンと切れて下に落ちる。続けて反対側に刃を入れてこちらも切り落とす。どんどん後頭部が削げて無くなっていく。

 不思議と痛みはない。あるのは恐怖だけだ。顔だけ残して頭を全部切り落とすと、男の姿は消えた。私は首の上に顔だけが残っている。まだ体は動かない。

 また一人現れた。今度は顔がはっきり分かった。理沙だった。理沙は慈しむような眼で私を見下ろしながら、前の男と同じように背後に回った。そして何かを頭に押し当て始めた。押し当てられたものが頭に貼り付いていく感触がする。冷たかった頭に血が回って温かさを感じる。

 理沙が再び前に回って私の顔をじっと見つめて微笑んだ。理沙もまただんだんと消えていく。

「理沙!」と叫ぼうとして目が覚めた。

 時計を見るとまだ夜中の三時だった。三時間弱しか寝ていない。もう一度夢を思い出そうとしたとき、私ははっと気がついた。急いでスマホを手に取って、「頭をそぎ落とされ再構築 女性の手」とメモした。

 それから、もう一度布団をかぶった。今度は夢を見ることなく目覚ましの音で目覚めた。


 翌朝出社するとすぐに梅川の部屋に向かった。そこで、旧本社ビルの内覧会の社員動員に、山口睦美を入れるように要請した。梅川は特に理由も聞かず承諾した。

 梅川自身私に任せきりにするのではなく、いろいろと考えて動いているようだが、成果は芳しくないようだった。

 もうやれることは何でもやる。そう言った覚悟が垣間見える。

 それから週末までは、社内外問わず来客全てをシャッタアウトして、オフィスに引き籠った。広報室からビデオカメラと三脚を借りてきて、自身のスピーチする姿を撮影した。それをパソコンで確認しながら、スピーチ内容と表情のマッチングを考えた。

 スピーチシナリオが固まったところで、私はネットを検索し、米国の大統領や経営者の名スピーチと言われる動画を見て研究した。それは、家に帰っても繰り返し行われた。

 家の中では会社のように誰にも見られずというわけにはいかず、理央と沙穂の目に触れてしまう。十二才の理央はともかくとして、まだ四才の沙穂までわけも分からず私のスピーチを聞いている。

 ここで、私は一つの気づきを得た。私が二人の視線に照れて集中力が乱れると、二人は笑い転げてしまうが、伝えようという意思を明確に表すと、二人にも気持ちが伝わるのか、真剣な表情で聞き入るのである。意味など何も分からないのに。

――スピーチは気持ちで伝える。

 変な話だが二人の子供を相手にして、私はスピーチの極意を悟ったように思えた。

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