第22話 理央の厄災

 沙穂を連れて自宅に帰ると、理央が不機嫌そうな顔をして、テレビを見て待っていた。

「どうしたんだ。何か学校であったのか?」

 理央は最初話したくなさそうな顔をしたが、私がしつこく促すとポツポツと話し始めた。

「今日ね、また美鈴が休んだの。いつものことだから気にも留めなかったんだけど、突然男子が私の顔を見ながら、『誰かさんがいじめたから来ないんだ』って言いだして」

「何だって!」

 それは深刻な話だった。美鈴の母の誤解と考えていた話が、事実として動き出していることを意味していた。そして、事実にしようとしている人間は、美鈴の母か彼女に近い人間しかいない。

 二人の食事を作ると、私はすぐに美鈴の母に電話をかけた。四回コールした後にまた留守電に切り替わった。

 私は今日はかまわず、理央の父であることを名乗り、折り返し電話してくれなければ、こちらも非常手段を取ると宣言した。

 十分もしないうちに電話がかかって来て、先日と同じやや甲高いトーンの声で、「原島です」と言う声が聞こえた。

「私は先日電話をもらった星野理央の父です」

 私が名乗ると、「ああ」という声の後で、機関銃のようにしゃべりだした。

「理央さんに言っていただけたでしょうか? 美鈴は今日も理央さんがいじめるから学校に行きたくないと休んだんです。もう可哀想で耐えきれません。一体うちの美鈴が何をしたって言うんですか。仲良くしてくれとは言いません。そっとしておいてくれたらいいんです」

「あの、ちょっとこちらの話を聞いてください」

 私が冷静な声でそう言うと、美鈴の母の言葉が止まった。

「前回の電話の後で、理央に聞きました。でも美鈴さんの言っていることは誤解なんです。まず中学校の説明会での件、あれは幼稚園のとき仲の良かった子がいたので、久しぶりだから話してただけだそうです。その子が後ろにいたので振り向いてしゃべっていたけど、別に美鈴さんを見ていたわけじゃないんです」

 そこで美鈴の母の返答を待ったが、何も反応はなかった。

「ばいきんと言った話も誤解です。美鈴ちゃんがいることも知らなかったし、移るよとは言いましたがばい菌という言葉は使っていません。単に班でやらなければならないことがあるから呼びに行っただけです。『あっちに行け』も写真は班ごとに撮ることになっていたので、別の班だから『あっちだよ』と言っただけです」

「でもそれは理央さんが言っていることでしょう。そのまま信じるわけにはいきません。現に美鈴は理央さんがいじめるから行きたくないと言っているし」

「あなたの言葉を借りれば、それも美鈴さんが言ってるだけですよね。そもそも学校に行かないのは理央がいじめるからと、本当に美鈴さんが言ってるんですか?」

「はっきり言わなくても母親には分かります。それに私が『理央ちゃんが原因?』と聞くと頷きますから」

「それはお母さんからの誘導じゃないですか。だいたい一年に一回ずつしか具体的な話がないことが変じゃないですか。全部ファジーな話だし」

「そんなことないです。美鈴がこんなになるのは理央ちゃんが原因なんです」

 私は驚いた。単なる決めつけだ。これでは理央が可哀想だ。

「ところで、この話他の誰かに言いました?」

「言いましたよ。私も調べなきゃいけないと思って、クラスの何人かのお母さんに電話しました。みんな知らないって言うから、教えてあげましたけど」

「それで、今日理央がクラスの男子からいじめたんだろうと言われたみたいですが」

「やっぱりそうなんですね。事実だからそう言われたんじゃないですか」

 勝ち誇ったように言う美鈴の母に、私は呆れて言った。

「そうじゃないでしょう。あなたが話したからみんなが言い始めたんでしょう」

「自分の娘は良くて、うちの子が悪いことにしたいんですね」

「話にならないですね。とにかく、この事態がこれ以上広がらないように、明日先生に事情を話します」

「子供の話に大人が入るんですか?」

「あなたの方が先に入ってるじゃないですか。それに学校に言うと、昨日言ったのはあなたですよ」

 私の指摘に一瞬ひるんだように思えたのも束の間だった。

「母親が娘を心配したら悪いんですか」

――無茶苦茶だ。

「あなたは自分の言ってることの矛盾を分かっていますか? 二人で話しても埒がないですね」

「私もこれ以上不愉快な思いをしたくありません」

 そう言って電話は切れた。私は今の電話で美鈴の家の状況を、何となく察することができた。

 美鈴は潜在的な不登校児なのだ。会社の新入社員にも、学生の生活から抜け切れずに、会社に毎日来ることが苦痛になる者がたまにいる。

 美鈴の場合まだ幼いのだから、そこから脱するための役割を負うのは母親だった。

 ところが母親は許容してしまった。

 しかし高学年に成るにつれ、不安に思い出した母親の苛立ちを感じるようになった美鈴は、たまたまそのとき思いついた理央の話を出したのだ。

 以後理央を悪者にすることがこの親子の免罪符となり、ついに母親はそれを真実だと思い始めた。

「お父さんどうだった?」

 理央が心配そうに聞いて来た。私に負担をかけたと感じているんだろう。

「大丈夫だ。お父さんがうまくやるから」

 無理して笑顔を作って、理央を納得させた。


 次の日の朝、学校に電話して担任の榊を呼び出してもらった。

「はい、榊です」

 電話から若者らしい快活な声が流れてきた。

「星野理央の父ですが、理央のことで先生と至急話させていただきたいことがあるんです。今日伺いますのでどこかでお時間よろしいでしょうか?」

「理央ちゃんのお父さん、実は私も話したいと思っていました。今日は二時間目が音楽で、空いているので、九時四五分からでどうでしょうか」

 驚いたことに榊にも話があるという。もしかしたら美鈴の件かと思いながら、それなら好都合だと考えた。

「分かりました。それでは九時四五分に学校に伺います」

 電話を切ると、すぐに会社に午前中休むというために電話した。

 電話には絵利華が出た。

「梅川さん早くから来てお待ちになってますよ」

 相変わらず耳を擽るようないい声だ。

「午後から行きますと伝えてくれ。家のことで急用ができたんだ」

「たいへんですね。ご苦労をお察しします」

 絵利華は好意的な応対をしてくれた。それが社交辞令でも何でも、今の私にはありがたかった。

 九時四十分に私は理央の通う学校の門の前に来た。

 この小学校は武蔵野市でも一、二の伝統がある小学校だった。

 広い校庭と少し古さを感じる校舎が、公立校らしさを感じさせる。

 校庭の周りには桜や銀杏など様々な種類の木が植えてあった。それぞれの花の季節になると、子供たちに季節の変化を感じさせてくれるのだろう。

 受付で名乗って用件を言うと、空き教室に通された。応接もあるようだが、きっと学校にとって重要なお客さん用で、父兄は空き教室で先生と面談するのだろう。

 榊は一八〇センチを超える長身で、学生時代はバスケをやっていたという。昼休みは時々理央達とバスケをやったりするらしい。

「今日は来ていただいてありがとうございました。私もちょうど星野さんとお話ししたかったところです」

 爽やかな笑顔でまずは歓迎の意を示してくれた。理央の話では榊は新卒で先生になって、まだ三年目らしい。年の頃はストレートに大学を出ていれば二五、六というところか。

「お忙しいところを申し訳ありません。私の話は、理央が原島美鈴さんをいじめてると、美鈴さんのお母さんから訴えられまして、それで実際にはどうなのかお聞きしようと思った次第です」

 それから美鈴の母との、電話でのやり取りの一部始終を話した。

 私が話し終わると、榊は白地に青のストライプのYシャツの上に来ている、青いカーディガンの胸のボタンを握り、「うーん」と唸りながら一回下を向いて顔を上げた。

「その話は事実ではありません」

 榊はきっぱりと言い切った。あまりにあっさりと躊躇なく言い切ったので、逆に私の方が慌てた。

「なぜ、そう思われるんですか?」

「実は今学期になって美鈴さんが登校できない日があまりにも続くので、私からお母さんに電話したら、星野さんと同じ話を聞きました。具体的な話も星野さんが今話してくれた三件です」

「それはいつ聞かれました?」

「星野さんが電話で話す二週間ぐらい前です」

 そうか、美鈴の母は担任にこの話を既にしていて、何らかの理由で否定されたので、自分に電話してきたのか。

 そこで安易に謝ってしまっていたら、大変だったな。榊にも迷惑を掛けるところだった。

「私はすぐに理央さんを呼んで、世間話風に今の三件について聞いてみました。その答えは今、星野さんが聞いた話と一緒です。念のために三年生の担任の先生、それから理央ちゃんが中学校説明会で話したという友達にも確かめています」

 何という行動力だろう。私はこの若い榊という教師が、企業に入っていたら、一流のビジネスマンになっていただろう、と想像した。

「その後で、美鈴さんが登校してきた日に、お母さんから聞いた話と理央さんの話を両方伝えました」

「話して美鈴さんはどんな反応でした?」

「誤解だったんですね、と笑ったので、この話はそれで終わりました」

「ということは」

「そうです。美鈴さんからお母さんに、理央ちゃんとのことは誤解だったとは言えなかったんでしょう」

「もしくは言ったとしても、先生が悪者になって逆に説得されたと・・・・・・」

 私の頭の中には、美鈴を説得する母親の姿がありありと浮かんだ。

「その可能性は有ります。いずれにしてもたいへん難しい状態にあることは確かです」

 榊はそう言って顔を曇らせた。

「先生、実は昨日理央がクラスの男子にそのことで責められたらしいんです。美鈴さんのお母さんは、複数の父兄にこの話をしたんじゃないでしょうか?」

 榊は驚いた表情で、胸のボタンを一層強く握りしめた。

「申し訳ありません。その生徒に対しては私が指導しておきます。星野さん、私は教師です。理央さんの心が壊れることは避けたいですが、同様に美鈴さんも何とか登校できるようにしたいんです。お腹立ちだと思いますが今は動かず、私に任せてもらえないでしょうか?」

 素晴らしい男だと思った。仕事に責任を持つ者を否定する気はさらさらない。

「もちろん先生にお任せします。何かあったら私にも相談ください」

 そう言って榊に礼を言って、教室を後にした。出社する道すがら、榊の責任感に安堵を覚えた。ただ、学校という特殊な団体が、そういう榊の行動を許さない気がして、少しだけ心配が過った。

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