第18話 新職場にて

 打ち上げで営業を離れる決意を示してから三日後、佐々木から呼ばれた。

「少し外で話をしようか」

 佐々木は無表情のまま私を外に連れ出し、水道橋駅近くの喫茶店に入った。

「君の条件に合う部署が見つかったよ」

 私はこんなに早く異動が決まるとは思ってもいなかったので、少し驚いてしまった。

「もう見つかったんですか?」

 佐々木は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 私は佐々木の機嫌の悪さが理解できず、黙って顔色を窺う。

「社史編纂室だ」

 ポツリと部署名だけを告げ、佐々木はまた押し黙った。

 図らずも二人の間に気まずい雰囲気が漂う。

「あの、よく知らない部署なんですが、どんな仕事があるんでしょうか」

「私もよく知らん。有永さんの話だと高倉の歴史を調べて、新人研修や幹部研修のときに講師をしたり、高倉家の関係者が来訪したときにお相手をするらしい」

「有永専務が絡んでいるんですか?」

 今度は本当に驚いた。一課長職の人事に専務が間に入るなど聞いたことがない。

「梅川秘書室長から有永さんに、君を名指しでプロジェクトの切がついたら、社史編纂室長に迎えたいと、打診があったらしい」

「梅川さんが、なぜ……」

 ますます混乱した。しかも今室長と言った気がしたのだが……

「今の室長の吉川さんが七月に定年延長の契約期間を満了する。社史編纂室は秘書室付けなので、梅川さんから後任探しの依頼が本部長に来たんだ。なぜ君を名指しなのかはよく分からん」

「そうなんですか……」

 何とも浮世離れしたポジションだ。

 普通は定年前後の社員が最後のご奉公で五~六年働く場所だ。

 今三五才の自分がこれから約二五年働くとすると、想像を絶する変化のない時間を持て余すかもしれない。

「いずれにしても子育てをする上ではいい職場だと私も思う」

 これからの人生を、理央と沙穂に捧げようと決心したばかりの私にとって、安定した雇用と家のことに専念できる時間が持てるのは、ある意味理想的な職場だ。

「お受けします。ありがとうございました」

 自分の立場を斟酌してくれた佐々木に感謝した。

「吉川さんは、毎日少しずつでいいから引継ぎをしたいそうだ。梅川さんから、できれば三日後から引継ぎで来て欲しいとお願いされた」

 異動を願い出た日から引継資料はばっちり纏めてある。

「了解しました。三日後の金曜日から社史編纂室に出社します」

 佐々木はここに来て初めて少し寂しそうな顔をした。

「頑張れよ」

 小さな声で激励してくれた。


 三日後、引継ぎのために社史編纂室に向かう日が来た。

 社史編纂室は秘書室の直下組織で、役員フロアにある。私は異動後の上司となる梅川の部屋の前に立った。これから社史編纂室の引継ぎに入るので挨拶をするためだ。

「星野さん、引継ぎですね」

 社長秘書の鈴川早紀が私の姿を見つけて、声をかけて近寄ってきた。専務秘書の絵梨香がどちらかと言えばコケティッシュな魅力に溢れているのに比べ、早紀はショートヘアで少年のように引き締まった肢体を持ち、顔は美しいがややきつめだ。

「これから同じ部署になるので楽しみです。お世話になります」

――いや、同じ部署と言っても全然違うし、お世話する機会はおそらくないぞ

「こちらこそよろしくお願いします」

 営業で培われた反射神経が思ってもない挨拶を返し、無難にやり過ごす。

 再度襟を正して、梅川の部屋のドアをノックした。

 部屋に入ると梅川が満面の笑みで出迎えてくれた。

「ようこそ社史編纂室へ、君を迎えることができて本当に嬉しいよ」

 社史編纂室長が梅川にとってさして重要なポジションとは思えないので、社交辞令にしても大げさすぎると思った。

「よろしくお願いします。」

 まだ引継ぎ前で仕事内容が分からないので、それしか言うことはなかった。

「こちらこそ、時々私や社長が悩みを相談するから、よろしく頼むよ」

 そう言われると思わず反応してしまった。

「一生懸命やらせていただきますが、私は経営のことは分かりませんよ」

 梅川はククッと笑って、言った。

「いや、さすがに君に経営判断は頼まないよ。その内分かるから頑張ってくれ」

 そう言って、梅川は立ち上がり私の肩をポンと叩いた。

 梅川の部屋を出て、その足で社史編纂室に向かった。


 TECGは長い間オーナー企業だったことから、社史に関する資料は大半が高倉一族の私物である。

 そのためこれらは役員フロアに倉庫を作って厳重に保管されており、社史編纂室が、と言っても私一人の組織だが、これらの管理を行うことは分かった。

 部屋では前任の吉川が待っていた。吉川は元電池関係の技術者で、今年六五才になる。

 中肉中背で四角い顎が精力の強さを感じさせる。見事なぐらい真っ白な頭はどことなく上品な雰囲気を醸し出している。

 吉川から説明された社史編纂室の仕事は聞いてる側から暇そうだ。

 仕事らしい仕事は新人研修の時期に、社史と創業者高倉将造のエピソードを新人の前で披露することと、秋の幹部社員研修時に高倉将造の精神を伝えることの二つしかなく、後はひたすら文献の整理をする毎日だ。

 それでも吉川からの引継ぎで、眠気を飛ばすような面白いこともあった。

 吉川は膨大な文献を時系列的にまとめた「高倉翁秘話」というタイトルの資料を作り続けていて、それは現時点でA4用紙で二百枚を超える力作であった。

 吉川はこれを綴る時間を、『私と高倉翁の二人だけの会話の時間』と称した。

「自分は初代だけで終わってしまったが、ぜひ二代目、三代目と続け、現社長高階迄、同様の資料を作成して欲しい」

 私に対する吉川の個人的な依頼だった。

 そうすることで、『企業の生命の素』が追求できるはずだと自慢気に言いきった。

 私はその日から暇があれば高倉翁秘話を読み続けた。

 そこには確かに高倉将造という一代の傑物が、高倉電機と言う会社に命を吹き込み、育てていく様子が鮮明に描かれていた。

 営業時代に培われた高倉電機営業マンとしての行動原理は、全て高倉将造が作り上げて来たものを引き継いだのだと実感する。

 毎日がとてつもなく無気力になるのでは、という心配は、当面は回避できそうだ。

 将来的には分からないが、今は興味を持って日々の仕事に取り組めると、少しだけやる気になった。

 それでも気になるのは、過去とばかり向き合っているうちに、未来につながる現実から離れてしまうことだった。


 私の仕事が変わったという事実は、家庭内にも浸透してきた。何よりも帰宅時間が早くなったことは、子供たちにとって大きなインパクトになったようだ。

「お父さん、最近帰りが早いよね。仕事は忙しくないの?」

 ある日、理央が怪訝そうに尋ねてきた。

 ここで心の負担をかけたくないと思った私は、慌てて繕おうとしたがうまい言い訳を思いつかなかった。

「お父さんが早く帰って来ると嫌か?」

 我ながら気の利かない質問だ。

「ううん、そんなことないよ。毎日お父さんの顔が見れて嬉しいよ。ただ、前にお母さんが、お父さんが遅くまで仕事をして帰るのは元気な証拠だからって言ってたから、もしかしたら調子が悪いのかと思って」

 不覚にも涙が零れそうになった。いったん天井を睨んで堪えてから、理央の顔を真っ直ぐに見た。

「お父さんはとっても元気だから、前より早く仕事を終わらせてるだけだよ」

 それ以上言うと涙が堪えきれなくなる。

「それならいいんだ」

 そう言って理央は宿題をするために自分の部屋に行った。

 理沙の死は大きな悲しみをもたらし、自分の企業人としてのキャリアを奪ったが、それでも娘たちから普通の父親では味わえない喜びを得るかもしれない。

「理沙、この先もこの家で俺たち三人を見守っていってくれよな」

 そう言って、理沙の仏壇に手を合わせた。


 引継ぎは順調に進み、やがて吉川の退職する日がやって来た。

 送別会は梅川主催で秘書室のメンバーも参加して華やかに行われた。

 自分自身の営業部での送別会は、子供たちのことを考え、社を去るわけではないからと固辞したが、吉川には礼を尽くす意味もあり、美穂子に子供たちの世話をお願いして出席した。

 吉川は晴々とした表情で会を楽しんでいた。そこにはTECGでも数少なくなった入社して定年まで、一社で勤め上げた男の満足感のようなものが漂っていた。

 確かに社会のしくみは変わって来ていて、今の若者は仕事とは自身のスキルを磨いてそれを活用する場を求めるものだと思っている。だが吉川のように一つの会社でそれを実現し、年取って第一線を退いても会社に寄り掛かることなく、経験を活かして人に見えないところで貢献している人もいる。

 自分がそう成れる自信は今はないが、そう在りたいと強く思うようになっていた。

 今は社長秘書の鈴川早紀のお世話に成りますという言葉の意味が分かる気がする。彼女だけではなく、今日集まった小川絵利華や他の秘書室のスタッフも、吉川の崇高な志の高さに敬意を払っているのだ。そんな社員にいつかは成りたいと思った

 今日はこの場に出席して良かったと心から思った。明日からは吉川に代わって自分がそういう存在を目指さなければならない。それはプレッシャーよりもやりがいとして心の中に灯りを点した。

「みなさん、ありがとう」

 最後の挨拶も吉川は飄々としていたが、私の目には何か重たいものが体から離れて、宙に浮いて行ってしまうように見えた。

「星野さんも二次会参加しませんか?」

 主役の吉川は奥さんの下に返し、秘書室メンバーだけで二次会をするらしく、早紀が誘ってきた。絵利華が店の手配のために電話している。漏れ聞こえる言葉からすると、一次会の会場の水道橋から六本木に向かうようだ。梅川はどうするのか窺うと、すかさず二人の後ろに寄って来た。

「今日のところは新室長は私に付き合ってもらっていいかな」

 梅川が他の者には聞こえないような声で、早紀に二人で飲むことを告げた。

「分かりました。今日は星野さんは解放します。でも次の機会を作ってくださいね」

 早紀が絵利華たちのところに戻って行った後には、ディオールの刺激的な香りが残った。

 私と梅川はタクシーで新宿まで移動し、二軒目の会場として京王プラザホテルのメインバーに入った。ここなら私の住む吉祥寺も近い。梅川なりの気の使い方なのだろう。

「これからよろしくお願いします」

 グラスを軽く合わせた後で、私は明日からの上司である梅川に形式的にそう言った。実際には自分と梅川の間に、今後どんな関係が生じるのか想像もつかなかった。

「吉川さんとの引継ぎは有意義だった?」

 梅川は半分含みのある感じで言った。

「はい、社史編纂室の仕事ということで、少しばかり講義的な引継ぎになるのかと思ってましたが、まったく予想してない話が多くて面白かったです」

「あの人は高階さんが直々に引っ張ってきたんだ」

「高階社長が!」

 初耳だった。社史編纂室長はポジション的には課長クラスだ。課長クラスの人事を社長が自ら指示するなど、社運を賭けた重要ポジションでもない限り考えられない。吉川からの引継ぎでもそんな話は出なかった。

「吉川さんは高階社長と何か特別な間柄だったんでしょうか?」

 前社長の高倉将志はバブル崩壊以来、世界市場から取り残されていく電機業界の現状を憂い、二〇〇四年に国内ではネームバリューのある高倉電機の名を捨て、グローバル企業への変革を目指してTECGに社名変更した。

 同時に旧体制を象徴する高倉家からの社長登用はマイナスと考え、社名変更の翌年の二○○五年に、当時米国で実績を上げた国際派の高階を後継指名した。

 高階は六五才で第七代社長に就任して以来、豪胆な攻めの経営と斬新な組織改革を断行してきたが、言い換えるとそれは、常に古い体勢を維持しようとする既存勢力との闘いに明け暮れた五年間とも言えた。

「高階さんは社長になってからずっと二つの課題を自覚されていたんだ」

 グラスの酒を一口飲んで向き合った梅川の顔は、お前に分かるかと挑んでいるように見えた。

「二つの課題ですか?」

 私の頭に一つの言葉が浮かんだ。

「グローバル化ですか?」

 梅川が苦笑した。

「流行りの言葉だな」

 そう言って私の顔を見ながら、ついに耐えきれず厳しい表情が消えて笑い出した。私はなぜ笑われるか分からず戸惑い顔だ。

「君は本当にグッドガイだな。その言葉をこの場面でなかなか口に出せないものだ。だが素直にそう言ってくれると話が進む」

 梅川は楽しそうだった。

「今社内ではいろいろな場面でその言葉がキーワードに使われているが、じゃあグローバル化とは具体的にはどうなることだと思う?」

 問われた瞬間、私の頭の中ではグローバル化に関するキーワードが無数に飛び交った。あまりにもたくさん有りすぎて逆にまとまらない。どう答えようか悩んでいると、梅川が自ら語り始めた。

「たくさんの人がたくさんの言葉で語るので答えにくいだろう。だから高倉将志は、世界中で商売ができたらそれでいい、だが誰もが高倉の商売だと分かる何かを残してくれ、と社長交代時に高階さんに託したんだ」

「高倉の商売ですか」

「そうだ、難しいだろう。世界中で商売できるようになるだけでも大変なのに、ああこの仕事は高倉だって分かるようにする。高階さんも悩んだよ」

 それはそうだろう。自分にはかなり追い付けない世界の話になりつつある。

「ただ、世界中で商売ができるようにする方法は、これまで成し遂げてきた企業が世界中に存在しているから研究はできる。日本にだってトヨタやホンダなんかはそういう企業だろう」

 確かに見本となる企業は存在する。電機で言えばアップル、マイクロソフト、IBM、GEなどだろう。

「そして、誰もが高倉の商売だと認識する方法についても、高階さんは答えを出した」

 ドキドキして次の言葉を待った。

「ブランディング、それもロゴやコーポレートカラーみたいな単純な話ではなく、歴史に息づく高倉の精神を体現する人を、国籍に関わらず育てようと思ったんだ」

 あまりにも壮大な話だった。そしてそんなことが可能なのかとも正直に思った。

「そのシンクタンクが実は社史編纂室なんだ」

「あっ!」

 私は思わず言葉に成らない声をあげた。

「まずは吉川さんを室長に迎えて、高倉の技術開発を調べ上げた。そして技術者の評価制度の抜本的な改革、いや原点回帰を決めたんだ」

「しかし、人事部がそんな風に動いているようには見えませんが」

 私には一律的な評価項目しか提示しない人事部の姿しか記憶にない。

「最初は水野さんに相談された」

 水野は現在の人事部長だ。

「だが、水野さんは力量不足だった。だから、このミッションはジェームスに任せられた」

「ジェームス?」

「ジェームス・ローガン、TECGUSAの人事部長だ。ジェームスはこのミッションによって、高階さん直下のポジションとなり、TECGUSAの人事部は、本体の人事部の上位組織に位置付けられたわけだ。彼は今シリコンバレーにあるうちの開発部隊の評価制度を試行運用している」

「どういうことですか?」

「制度設計はアメリカで行い、日本はそれを逆輸入すると言う立場だ」

 何となく得心がいった。私の目には今の人事部は数年前に比べて、何か元気がないように見えていた。

「そんなことがこれからも続いていくんですか?」

「もちろんだ。人事だけじゃなくて経理も法務も知財も製造も品質保証も、全ての機能について海外にイニシアチブが渡る可能性がある。もし今回の評価制度改革で、米国発の制度が日本に逆輸入され始めたら、その流れは一気に強まるだろう」

「そうなると逆に高倉色が薄まるような気がするんですが……」

 私の疑問に梅川は笑って答えた。

「ハハ、そうなんだよ。だから高階さんは経営理念動だけは、何としても私がやれと命じたんだ」

 私はその笑顔に嫌な予感がした。

「もしかして、それを私にやれと言ってますか?」

 梅川は私の疑問に答えず、笑ったまま右の肩をポンポンと二度叩いた。

「さあ、明日もあるそろそろ帰ろう」

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