第17話 けじめ

 吉木と共に昼食から帰って来ると、佐々木が待ちかねたように近づいて来た。

「専務から午後一番でお呼びがかかった。提案のことで至急専務の部屋に来いとのことだ」

 提案書再考の期日までは後二日ある。

 執行役員会で梅川がねらい通り動いてくれたのかもしれない。

 わずかだが胸に希望の陽が差した。

「顔、怖いぞ」

 緊張で吉木の目が吊り上がっている。

 声をかけても顔は変わらない。

 本気で仕事をした結果が出るのだから無理はない。

 何も言わず前を行く佐々木の後をついて行く。

 四十階の役員フロアに着くと、また小川絵利華が待っていた。

「お待ちしていました」

 絵利華がそう言って一歩近づく。ふっとシャネルの香りがした。先日会った長池遥香と同じく知的な美人だが、職種のせいか女の色気では絵利華の方が上をいく。

 そんなことを考えながら専務の部屋に入ると、予想に反して満面の笑みで迎えられた。

「結論を先に言おう。この稟議を承認する」

 隣で吉木がよく分からなかったような顔をしている。

「ありがとうございます」

 佐々木がすかさず頭を下げる。このあたりの反射神経はさすがだ。

 まだボーっとしている吉木の腕を肘で押して、私が吉木と一緒に頭を下げる。

「もう承認印は押してある。いいか絶対に取れ!」

 佐々木がすっと前に出て稟議書を受け取る。

 ハンコをもらってしまえば、気が変わらないうちに素早く退出する。

 相変わらず佐々木は抜け目がない。

 考えが変わった理由が聞きたいなどと、余計なことは絶対に言わない。

「ありがとうございました」

 佐々木は再度礼を言って先頭をきってさっさと退出した。

 部屋を出たところで絵利華が待っていた。

 社外のお客様ならともかく、社内の人間に対し秘書が待つことは珍しい。

 エレベーターホールに向かう私に絵利華が囁く。

「梅川室長が十四時に秘書室長室に一人で来てほしいそうです」

 私は黙って頷いた。

 私たちはオフィスに着くと思わず「万歳」と歓声を上げた。

 一通り喜びを分かち合うと、吉木が不思議そうに聞いて来た。

「なぜ、有永専務はお考えを変えられたのでしょうか?」

「よく分からんが、今日の執行役員会で何かあったんだろう」

 佐々木はそう驚きもせず、私に次に進めと目で促した。確かに稟議は通ったがコンペに勝ったわけではない。さすがに佐々木は泰然としている。

「いずれにしても、我々は万全の態勢でこの案件に臨めます。もう頑張るしかない」

 私がそう言うと、吉木が気合の入った顔で、

「任せてください」と言った。

 吉木は稟議が通った報告と、委託契約の詳細を詰めるためにレッドマースに向かった。

 私は十四時から梅川に会うため、オフィスに残った。

 吉木が作ったレッドマースとの契約の骨子を見ていると長澤がやって来た。

「お前たちの提案書、ゴーが出たみたいだな。おめでとう」

――こういう奴だったなぁ。

 新人の頃の長澤を思い出す。

 厚めの唇が表す通り長澤は情が深いところがある。よく言えば親切なのだが、独善的な性格が災いして苦しい時に励まされても妙に癇に障ったりする。

 だが根は明るいので人の足を引っ張ったりはしない奴だ。

 ふと長池遥香のことを思い出した。

「お前のところに長池遥香という担当がいるだろう。彼女はどんな感じ?」

 私と遥香が結びつかないので、長澤は一瞬考えたがすぐに訊いてきた。

「なんで長池のこと知ってんだ?」

「コミュニティの会合に出ていた。クールな頭をしているので、気になって聞いてみたんだが」

 コミュニティと聞いて長澤は得心がいったようだ。

「まあ、頭は切れるな。ちょうどお前のところの吉木並みだな。ただ吉木と違うのは、こう熱いところを感じないんだな。そこを引き出そうと思って販社に出したんだが、帰って来ても変わってなかった」

「それでもいい仕事はするんじゃないか?」

 私が庇うと長澤は大きく頷いた。

「そうなんだよ。成果は申し分ない。チームメンバーと衝突も無い。ただ熱さが無い。熱くなきゃ駄目なんだよ。販社と違って難しい客も多い。闘志が表に出ないと周囲の士気にも影響する」

 こういう考え方は何年たっても交わることがないなと思って、この話は打ち切った。そろそろ十四時に成る。梅川のところに行かなくては。

 秘書室は役員フロアと同じ四一階にある。エレベーターに乗ってからふと、梅川に会いに行く途中で有永に会ったら嫌だなと思った。

 四一階に着くと、エレベーターホールで絵利華が迎えに来てくれていた。

「専務は午後から外出されました」

 さすがに秘書は一般人がこのフロアに来る時の心理に長じている。前を行く絵利華のきれいな足を見ながら、容姿だけで選ばれているわけではないと感じた。

 二○年近いキャリアの中で秘書室に入るは初めてだった。秘書室と言いながらも男性社員もいることに気付いた。

 絵利華はさらに奥にある秘書室長の部屋をノックしてドアを開ける。中では梅川がデスクを離れて応接用のソファで資料に目を通していた。

「失礼します」

 私が挨拶すると梅川が顔を上げて向かいの席を勧めた。絵利華が来客用のコーヒーを出してから退出した。

「今日の会議は久々に刺激的だったよ」

 梅川は絵利華が出してくれたコーヒーを啜りながら、いたずらを仕掛けた子供のような笑顔を見せた。

「そのおかげだと思いますが、私たちも今日仕事が一歩前進しました」

「有永さんの方針が変わったんだな。そうだろうな」

 梅川は利用されたというようなニュアンスは無しで、自分の行動が私の意図と一致したことを確認したかったようだ。

「もし差し支えなかったら、会議の様子を教えていただけませんか」

 会議内容は重要機密なので、ダメ元で頼んでみた。

「これを高階さんから配られた」

 それは『経営者の資質とは』と題された社長メッセージの原稿であった。

 拝見しますと断って読み進めていると、そこにはTECG社長としてではなく、人間高階宗司の精神の大きさと豊かさが滲み出ていた。特に最後の一節を読んで有永の変心に合点がいった。

――私は経営者として現経営メンバーに深く感謝しているだけではなく、一個人としてTECGの将来を託すべき器が揃っていると信じている。必ずや明日のTECGに向けた事業革新や体制作りに励むチャレンジャーなのだと。そして現事業と革新のバランスを取りながら常に前を向く。そんな彼らに感謝するとともに、来るべき日にバトンを託せることを願っている――

 これは高階個人としての本音なのだろう。そしてこのメッセージを読んだ有永は、自分に厳しかった父親が、実は自分に期待していることを、感じ取ったのではないかと思った。

「これは」

「最後の一節は君のレポートを紹介した後に、社長が書き加えたものだ」

 唖然とする私に向かって、梅川はウィンクした。

 改めて目の前にいる梅川に対する高階の信頼の大きさに敬服した。そうでなければ高階がここまで譲歩して自らの心の内をさらけ出すとは思えなかった。

「梅川さんは高階さんが後継者として、本当に現経営メンバーにバトンを託すと思いますか?」

 私は思わず答えのない質問をしてしまった。それでも梅川は答えてくれた。

「それはうちを取り巻く環境がどう変わるかだろう。今や世界の市場は猛スピードで変化している。実のところ誰が適しているかは高階さんだって予測できないよ」


 その日の夜、私は奈保も伴い四人で痛飲した。

 祝杯であるから、本来は美味い酒であるが、別の思惑も重なって半分は辛い酒となった。

 吉木は奈保と喜びを分かち合うのに夢中で、私の飲み方に気が付かなかったみたいだが、佐々木はさすがに付き合いが長いせいか、私の心の異変を察して、何度も大丈夫かと声をかけてきた。

 何度目か忘れたが、飲み始めてだいぶ時間も過ぎて、言うならここだと思った。

「吉木、このプロジェクトだが、これからは悪いがお前ひとりで進めてくれ」

 吉木はたちまち酔いからさめた顔になり、次いで戸惑いの表情を浮かべた。

 少しだけ沈黙の時間を置いて、吉木が再び口を開いた。

「ご家庭の問題ですか?」

 さすがだなと思った。聡明な吉木は、何でですかなどとぬるい反応は見せない。今はそれ以外で、私がこのプロジェクトから離れる理由など思い当たらないだろう。

「そうだ。俺は家族を選ぶ」

 佐々木が天を仰ぐ。

「それで、どんな形を希望されるんですか?」

「営業部を離れようと思う。ただし東京は離れられないので、時間の融通が利く事務職を考えている。駄目なら転職だ」

 佐々木が深いため息をつく。

「異動は反対だ。あんな不幸があったんだ、家庭の事情は斟酌する。しかし実務はともかくとして、営業部に残って戦略系の仕事をしてもいいじゃないか」

 佐々木は情熱的な男だ。私の異動に強く異を唱えた。

「正直、それも考えました。私にとってもそれは望ましい。ただ二つ問題があります。一つは現場の感覚を抜きにして、戦略は成り立ちません。コンサル見ると分かるじゃないですか」

 それは佐々木も同感だったのだろう。もう一つ溜息をついてから、それでも私に対し残れと勧める。

「理由はもう一つあります、長女は懸命に心にできた傷を克服して、前を向いて生きようとしています。ただこれからどんな試練で傷が開くか分かりません。そのためにいつでも行動できる、身軽な状態に自分を置きたいのです。営業だと、どんな仕事についたとしても、客の存在がそれを許さない」

 この言葉で佐々木はあきらめた。きっと告別式で見た理央の姿を思い出したのだろう。

 佐々木は何か言いたいのをぐっとこらえ、吹っ切るように言った。

「分かった。私がお前の異動を責任もって実現しよう」


 帰宅すると美穂子はまだ起きていた。

「お帰りなさい。今日は楽しいお酒でした?」

 今日は美穂子が沙穂の迎えに行ってくれたおかげで、心おきなく参加することができた。

 今は理沙の不在を美穂子がカバーしてくれていることに、ただ感謝するのみだ。

「今日は楽しく飲むことができました。これもお義母さんのおかげです。本当に感謝します。これで思い残すことはありません」

 私のただならぬ雰囲気に、美穂子が緊張しているのが分かる。

「お義母さん、せっかく申し出頂きましたが、国立への引っ越しはしないと決めました」

 私の答えは薄々察していたのであろう。美穂子はほとんど驚かなかった。

「そう決めると思ってたわ。理央だけじゃなくて、慎一さん自身もこの家の中に残っている理沙の思い出を大切にしたいんでしょう」

「すいません」

「なんで謝るの。そんなに理沙のことを大事に思ってくれて、親として嬉しいわ」

 美穂子の目は光っていた。

「子供たちとアリエスを目指します」

「仕事はどうするの?」

「営業から離れます。もっと自分の時間を持つことができる職場に異動するつもりです」

「それがあなたの結論というわけね。あなたは今の仕事に未練はないのね」

「はい、いろんな思いがありますが、今は理央と沙穂を立派に育てることが、私の生きる目的です」

 私は理沙がこの世からいなくなって以来、初めて何の気後れもなく胸を張ることができている気がした。そんな私を見て、美穂子はフーっと大きなため息をついた。

「分かりました。正直に話すと、あなた達のためと言いながら、私が理沙のいない寂しさを埋めるのに、理央と沙穂に求めてたの。だから二人が成長しても、私が傍にいられるように、今のうちにお世話したかったという思いがあったの」

 私は美穂子の告白に少しばかり驚いた。そんな気持ちを感じたことは今まで一度もなかった。

「驚いたでしょう。理沙の兄弟は家を出てから、自分のことに一生懸命で今は遠い存在になったわ。でも理沙は違った。結婚してもマメに連絡を寄越すし、理央や沙穂に何かあるたびに写真や手紙をくれた。そんな理沙が死んで、私も寂しくて溜まらなかった。だから今も私のためにやってることで、あなた達から感謝されるようなことじゃない」

「そんなことないです。お義母さんがいなかったら、うちは崩壊していた。みんながこうやって立ち直れたのは、全てお義母さんのおかげです」

「ありがとう、結果的にはそうなって私も嬉しい」

 美穂子はついに堪えきれずに、涙を滲ませ始めた。

「全ては理央の意志です。あの子がこんなにも意志が強い子だとは思わなかった」

「そうね。ホントに理沙にそっくり」

 美穂子は子供の頃の理沙のことを思い出してるように見えた。

「不幸なことに理沙はいないけれど、理央が代わりに美穂子さんから離れないですよ。理沙の料理も教えてもらうって言ってたじゃないですか」

「フフ、そうよね。あの子にはついつい期待しちゃうわね」

 まったくその通りだった。私にとっても理央は理沙の代わりを立派に務めていた。仕事上の貴重なヒントを出してくれるところも、母親譲りだ。

「そう、慎一さんに伝えておかなければならないことがあるの」

 そう言って、美穂子は自分のスマートフォンを見せた。それを見て、今度は私の涙が止まらなくなってしまった。目が霞むのにスマホの画面から目を離すことができない。

 それはあの日、理沙から美穂子に宛てたラインのトークだった。


――もう四時に起きてお弁当作ってる。こんな慎一さんは初めて♡ 今日はとても幸せな一日が待ってる予感

――理央が動物園中を走り回っている。沙穂の出産でずいぶん我慢させたから、ちょっとだけ罪の意識…… でも慎一さんのおかげで私も楽しい

――慎一さんと沙穂が池を見ながら仲良くお昼寝! 今日は疲れたんだね。二人でどんな夢を見ているんだろう(^^♪

――今日の最後は二人でよく行った神田のレストランです! 本当に幸せな一日だった。今日の幸せで、これから我が家にどんな不幸が押し寄せたとしても、乗り切っていける感じ。ホント一生分の幸せ貰いました(^^)v

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