第16話 仕上げ

 TECG本社の三七階は他のフロアと趣が違う。

 エレベーターホールを降りると、目の前に『世界中の人々に豊かな暮らしを‼』という文字と、TECGのロゴが飛び込んで来る。

 この階のエレベーターホールだけは、窓を黒いカーテンで遮り、ディスプレイ用の壁を立て、そこには一面にコーポレートビジョンやCSR、ダイバーシティのポスターが貼られている。

 オフィスフロアのドアの前には『WELCOME TO CC』と、他のフロアよりもセンス良く記載された部署案内が掲げてあり、ご丁寧にドアにはその文字を浮き上がらせるための照明まで付いている。

 そう、ここはTECGの社内外の広報戦略を取り扱う、コーポレートコミュニケーション部、通称CC部のメンバーが働く場所だ。

 CC部はグローバル化を推進する高階が社長に就任して以来、その役割を最も大きく変え、同時に社内での発言力が増した部署だ。

 従来は一般カスタマーに向けた製品のCM作成など、社外に向けた広報業務を主としていたが、現在はコーポレートビジョンの浸透やグローバル化に向けた諸施策の浸透など、社内コミュニケーションに関する業務が半分を占めている。

 業務的に専門性が異様に高いため、プロパー社員の比率は二五パーセント程度で、大半は広告代理店や外資系企業からの転職組で占められる。


 私はCC部が主幹部門を務めるダイバーシティ推進コミュニティに、営業代表として二年間所属していた。

 必要な経費はCC部が予算化してくれるが、そこに所属する人間の作業時間はボランティア扱いとなる。

 その頃私は係長としてマネジメントの面白さと難しさが分かって来た頃で、このコミュニティの狙いとうまくマッチしたせいか、精力的にに活動した。

 コミュニティのリーダーは川崎慎、私の五年先輩でCC部発足時にSE本部から異動してきた変わり種だ。

 当時はインターネットを基盤とした技術がSEの世界で主流となり、製品開発に社内外の様々な人材が関わったが、TECGはお世辞にもうまくマネジメントできたとは言えない。川崎は会社がホントに良い製品を生みだすには、ダイバーシティへの革新的な対策が必須だと強く認識していたようだ。

 そしてサブリーダーは川野真由、私より六才年下の二九才で、その年にキャリア採用で入社してきたばかりだった。前職は世界一八〇カ国で事業展開する、外資系日用品メーカーの日本法人で生理用品の広告宣伝を担当していた。

 なぜ、TECGに転職したかは不明。ハーフを思わせる濃い顔つきで、いつも髪を上げている。そこから丸くて大きな額が印象的だ。

 川崎はユーモラスな容姿で、典型的なミニタンク型だが顔は小さい。その小さな顔にこれも小さな目が付いていて、普段は目を大きく見せるために度なしの丸眼鏡をかけている。

 一方真由は中学生から続けている水泳で鍛えた伸びやかな肢体で、胸のふくらみも大きいからスタイルはいいのだが、残念なことに顔が大きい。特に目は強い意志を表わす所謂ぎょろ目だ。

 私はこの対照的な容姿の二人を、心の中でカワカワコンビと呼んで面白がっていたが、二人は存外仲がいい。川崎のズボンのシャツが、立ったり座ったりを繰り返す時に突き出た腹の圧力ではみ出してしまうのを、川野が見かねてサスペンダーを贈ると、川崎が気に入って着用し、今は社内でのトレードマークになっている。

 オフィスに入ると今日もサスペンダースタイルの川崎を見つけた。

「おはよう」

 目が合うとすかさず陽気な声で挨拶された。私も営業らしく「おはようございます」と挨拶して、川崎に向かって足を速めた。八階と違ってフロアには女性が多い。フロアを横断していると花畑を歩くような華やかさがある。

「インタビューの件、快く引き受けていただき、ありがとうございます」

 昨日の今日にも関わらず、私の願いを二つ返事で引き受けて、各所に調整してくれた川崎にまずはお礼をする。

「あいかわらず固いなー、同志としてがんばった慎ちゃんの頼みを断るわけないじゃないか。真由もすぐに段どってくれたよ」

 プロジェクト以来、川崎は私を『慎ちゃん』と呼ぶ。最初は抵抗があったが、ここはそういうところのようなので、慣れはしないが気にしないことにしている。

 川崎の案内で会議室に入ると、川野がコミュニティのメンバー十名に、今日のミーティングについてブリーフィングしていた。

 私の姿に気付くといったん説明を止めた。

「星野さん、お久しぶりです。皆さん、今日のミーティングの主催者の星野さんです。仕事は国内営業本部でSI事業を手掛けていますが、うちのコミュニティの創設メンバーでもあります。今のフレームワークはほとんどが星野さんがまとめてくださったものです。今日は星野さんから皆さんにお願いがあるということで集まってもらいました。それでは星野さんよろしくお願いします」

 真由は流れるようにテンポよく私にバトンを渡した。

 私から二人への依頼は、ダイバーシティ・マネジメントに対する経営の推進方法について、現メンバーの意見が聞きたいので招集して欲しい。参加者の条件として英語のできる女性を、とお願いしていた。

 英語を条件にいれたのは奈保のアプリが英語版だからだ。

 私は入社二年目からトレーニーで四年間アメリカにいたので、あまり専門的な話にならなければ、英語で会話することは苦としない。

 早速趣旨説明を英語で始めた。

「ハロー・エブリワン、アイ・アプリシエイト・ユー・テーク・パート・イン・ディス・ミーティング……」

 会場には日本人だけでなく外人の女性もいたが、ほとんどが営業ではなく本社部門の所属だった。

「私は国内営業本部の人間です。今、営業本部内ではグローバル化に対して冷ややかなムードが漂っています。自分たちの稼いだ利益が、将来への投資ということで海外で消費される構図が辛いからです。これは営業本部内でグローバル化のために必要だと社長が説く、ダイバーシティやイノベーションなどの推進にも影響を及ぼしています。今日ここに集まってもらった皆さんは、手弁当でこのコミュニティを運営してくださる意識の高い方です。そこでこのような事態に陥っている国内営業で、今何を為すべきか皆さんのご意見を伺いたいと思います。なお、今日のディスカッションを無駄にしないために、展開の効率を考えて今日のミーティングは録音させていただきます」

 この長い英文をやっとの思いで話しきった瞬間、脇に変な汗を掻いていることに気付いた。長い間使わないと、いざというとき緊張してしまうものだ、と反省した。

 ミーティングが始まったが、私の依頼が漠然としていたからか、もしくは体制批判になることを恐れてか、誰も口火を切ろうとしない。

 少し具体的な話をした方がいいかなと思った時、一人の見知らぬ女性が立ち上がった。

「星野さんと同じ国内営業に所属する長池遥香です。実は私も同じ雰囲気を本部の中に感じています。誤解を招いているのは、目的=グローバル化、手段=ダイバーシティとイノベーションという間違った認識です。更にこれが高じてグローバル化は必要ないからダイバーシティやイノベーションは必要ないとされています。ただ、年賀式の社長のスピーチを聞くと、この状態は社長が導いているような……あっこれは蛇足ですね」

 長池遙は一七〇センチぐらいありそうなスラっとした長身で、細面の顔に涼やかな目元が印象的だった。

 おまけにきれいな英語を話す。国内営業にこんな才媛がいたとは知らなかった。それにしても核心をついた発言を躊躇なくさらっと言ってのける。

 言葉はダイレクトだが、余計な感情が入ってないのでクールに感じる。いずれにしても他のメンバーにも火が点いたようだ。

「経営企画室の山口睦です。今の高階さんの発言の誤りについては私も同感です。本来グローバル化、ダイバーシティ、イノベーションは全て手段として同次元であって、目的は生産性や業績の向上であるはずです。ただ、国内営業の感情については、本部内メンバーの総意というよりも、有永専務の私意がトップダウンされたのではないかと思います」

 うわー、これは過激だ、とまたもや脇の下がヒヤッとした。山口睦は前会長の高倉将志の秘書をしていた女性だ。将志が会長職を退くときに経営企画室に異動したことは社内でも有名で、結婚して一児の母で有りながら第一線の仕事もこなし、このコミュニティのロールモデルの一人と言える。

「法務部の相馬初美です。法務は組織としてはグローバルに統合されていますが、各国で法律が異なるので、結局はリージョンごとにスペシャリストが集まります。グローバル化とダイバーシティを無理に意味づけなくても、それぞれが機能的に働くことは明白です」

「開発本部のジョアンナ・マリーです。開発本部は国内拠点の中では一番グローバル化した部門ですが、最も重要な課題はダイバーシティとなります。なぜなら外国人や女性だけではなく、例えばWEBデザイナーなどはLGBTに属する人も少なからずいます。こうした違いで差別が生まれると、仕事になりません」

 その後も発言は次々に続き、全員が思いの丈を存分に発言し、会議を開始して一時間半になった。もう終了の時間だ。

 私は当初狙った音声データは十分に取れたので、その点では満足したが、最初に発言してくれた長池遥香の存在がなければ、ここまでの成果にならなかったと、冷や汗の出る思いをした。

「今日はありがとう。大成功だった」

 参加者が去った後の会議室で、改めてカワカワコンビに礼を言った。

「最初どうなるかと思いましたが、長池さんに救われましたね」

 さすがに真由は優秀なファシリテーターだ。今日の会議のポイントをしっかり把握している。

「彼女のこと知らなかったなぁ」

 私の名残惜しそうな表情を見て、川崎が『殿、ご注進』風に教えてくれた。

「彼女、入社してから二年間、大阪にいて戻って来たばかりだよ」

「え、新人が販社に行くって普通ないでしょう?」

「配属面接の時、長澤君のご機嫌を損ねたみたいなんだ。でも大阪で毎年倍々ゲームで成果を上げて、また長澤君のところに戻されたみたい。今は次代のエースとして着実に実績を上げてるようだ」

 TECGプロパーにしては珍しい、根が自由人の川崎の中ではヒール長澤、悲劇のヒロイン長池の構図でドラマ化しているようだ。しかしどうして、どうして、そんなかよわい玉には思えない。

 ふと、理央の顔が思い浮かんだ。我が子ながら理央もこうした強い女性に成る素質は十分にある。強い女性たちのサポートによって、何とか業務をこなす自分の状況に思わず苦笑いが漏れた。

 さあ、この録音データーを一刻も早く奈保の下に届けないと。いずれにしてもやれることは後一つとなった。


 早朝の柔らかい陽射しが低層のビルの隙間から漏れて、まだ半分眠っている体に今日一日元気を出せよと囁きかけているように感じる。時折体育会系の学生が短パン姿で走っていくのが目に付く程度で、ここもまだ人通りは少ない。

 五時吉祥寺発の電車に乗るために早起きすると、美穂子が眠い目をこすりながら起きてきて、「朝ごはんまだですよ」と言った。「今日の朝食は外で取ります」と告げて、手早く身支度して家を出てきた。さすがに電車は空いている。

 私は早足で障害物の少ない通りを抜けながら、目標の路地に入る。一区画抜けたところで、右手に古い木造の定食屋が見え、更に足を速めて入口に向かう。

 定食屋に入る前に腕時計を見て時間を確めるとまだ六時前だ。始業まで三時間以上残されているが、その店は既に営業を開始していた。

 中に入ると安めのスチールテーブルに丸椅子の組み合わせが五組、それにカウンターが七席あった。

 典型的な学生ご用達定食屋だが、この店には似合わないスーツ姿のサラリーマンが四人、テーブルで朝食を取っていた。

「いらっしゃい」

 店主と思われる初老の男が、朝から元気の良い声で迎えてくれる。

 私は「朝定」と答えて素早く四人の客をチェックする。

 目指す男は四人の中で最もこの店に似つかわしくない、仕立ての香りがする気品が漂うスーツ姿で一番奥のテーブルに座り、ジャパンタイムスを読んでいた。

 まだ注文は来てないようだ。

――ついてる!

 行動開始一日目から、昨夜考えた通りのタイミングでの遭遇を果たし、私は心の中で幸運に震えた。

 男の名は梅川正人。入社以来海外畑で諸国の販社を転々とし、今年高階に呼び戻されて秘書室長に就任した。高階政権の官房長官として経営企画室長も兼務し、将来は取締役就任は間違いないだろうと噂されている。

 年は私より十才年上で佐々木の二年後輩にあたる。

「おはようございます」

 私は迷わず梅川の席の前に進み、朝らしく元気な声で挨拶した。梅川は新聞から目を離し、私の顔を見て、記憶にはあるが名前を思い出せないときの顔をした。

「新任幹部社員研修で講和をいただいた星野慎一です」

「ああ……」

 梅川は私の名乗りを受けて、記憶がつながったらしい。

「朝食をご一緒してもよろしいでしょうか?」

 ここ一番勝負を賭けた言葉に、「どうぞ」と梅川はあっさりと承諾してくれた。

 私はホッとして梅川の前に座った。

「ずいぶんと早いな、どうしてここに」

 梅川は私の出現は単なる偶然ではないと悟って、目的を聞いて来た。

「最近の国内営業の雰囲気に少しだけ迷いが出て、研修時にここの話を聞いたのを思い出し、旨い朝飯を食べて気分を変えようと思いました」

 研修では講和後に、ゲストで招いた会社幹部との交流会が有り、その時に梅川のテーブルは英語での交流がテーマとなった。英語が得意な私は国内営業メンバーとしてはただ一人そのグループに参加した。

 海外から私たちのために一時帰国していた梅川から、米国のエグゼクティブの朝早い始動の話があり、そのときの習慣で日本で早朝に会議があるとき、時間より早く会社に向かってしまい、調整を目的として学生時代に通ったこの店で朝食を取ると教えてくれた。

 今日もその習慣通りに行くかは賭けだったが、ベストタイミングで会えたので思わず心が躍った。

 有永との2回目のミーティング迄、何日でも粘るつもりだったが、今朝は役員会があるから最も会いたい日に会えたと言える。

 私が本題に入ろうとしたとき、「お待ちどうさま」と、店主が二人分の定食を運んできてくれた。私が梅川の席に座ったのを見て、気を利かして同時に出してくれたようだ。

「まずは冷めないうちに食ってしまおう」と、梅川は質問をいったん中断し食べ始めた。

 私は、「はい」と答えて、まずはみそ汁を啜った。出汁が良く効いて深い味だった。焼き魚はほど良く塩が効いてご飯が進む。そのご飯は梅川も語っていたが、炊き加減が絶品で、おかずがなくてもこれを噛むだけでいけるぐらい旨かった。

「ここは初めてかな?」

 梅川が質問を再開した。

「はい、お話を聞いた時から一度は来たいと思っていましたがなかなか機会がなくて、今日はお話が又聞ければと、半分期待して来てみました。それにしても旨いです」

 梅川相手に偶然を装ってもすぐ見抜かれるので、私は素直に目的を明かした。

「私は陸上部だったので、毎朝大学の周りを走っていた。一走り終えてからここで朝食を取って講義に出てたんだ。海外に行ってここでの朝食は取れなくなったが、帰国して最初に食事に来たのは、やっぱりここの朝食だった。いわば第二のおふくろの味かな」

「早朝の食事は旨いですね」

「そうだな、食事もこの時間に食べると決めて習慣づけると、その時間に食べることが極上のスパイスに成る」

 そう言って梅川は満足そうに卵焼きを頬張る。

 私も早起きして一時間程度経った時の食事がこれ程旨いとは思わぬ発見だった。

「さあ、飯の時間もそろそろ終わるぞ。本題を話さなくてもいいのか?」

 流石に梅川はただ悩んで私がここに来たのではないことを見抜いていた。

 やはり旨いものを一緒に食うことは親密度を増す。

 梅川は食べる前より好意的な態度で私に話すように促した。

「実は梅川さんにお見せしたい資料があります」

 私が鞄から取り出した資料は、先日の討論会で録音した音声データを、奈保のアプリを使って解析したものだった。あれから奈保が出力系を大急ぎでカスタマイズして、情報を整理して一覧できるようにしている。

 梅川はしばらく無言で資料を読み始めた。たっぷり一五分かけて最後まで目を通すと、苦笑いをしながら言った。

「扱いが難しい資料だな。執行役員会の前に私にこれを渡すと言うことは、ここに書いてあるままの意図で使っていいと解釈すればいいね」

 梅川の察しの良さに感謝して、それ以上何も言わず笑顔で頷いた。

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