第14話 障壁
慌ただしい一週間が終わり、月曜がやってきた。
今日は三濃商事のコンペ案の決済が下りる日だ。
最終決済者は大型案件だけに専務と成る。
午前中に佐々木部長と吉木の三人で最終打ち合わせをして、午後一時五分前に佐々木部長の後に続き、吉木と共に最上階の役員フロアに向かった。
現代的な明るい陽射しに包まれたエレベーターホールを抜け、役員フロアに入る。
ホールとフロアをしきる、自動ドアの横のインターフォンで来訪を告げると、返事はなく厳重なセキュリティのかかったドアが開いた。ドアの先は重厚な木目調の壁と、シックな赤目のやや厚いカーペットで囲まれた世界だった。
秘書室のドアが開いて華やかな顔立ちの細身の美人が現れる。大きな目は黒目が大きくていかにも気が強そうに見える。
出てきたのは専務秘書の小川絵利華だった。
私達三人を専務の部屋まで案内してくれる。
入室すると有永が書類から目を離し、顔を上げて三人を見た。元辣腕営業マンとは思えないほど線の細い顔で、細長い輪郭と線のように細い目が特徴だ。
「提出された資料を読む限りでは、ここまでダンピングして取りに行く案件とも思えないが、何か資料の補足はあるか」
開口一番で駄目出しが出たが、予期していたことなのですぐに吉木が応対した。
「我々は今、徐々に売るものを失いつつあります。確かに商品は豊富にありますが、かっての様なアドバンテージがない。そこで、今までにないコンセプトの下に営業実績を上げ、この分野で世の中の認知を勝ち取りたいと考えております」
「それは資料に書かれていることだ。読めば分かる。私は今までにない利益を上げる採算があるのかと聞いたのだ」
最大の売り物を有永からにべもなく却下されて、若い吉木はムキになった。
「しかし専務はこのまま変化無しでいいと思ってられるんですか」
ハッとするような挑発的な言葉だったが、さすがに有永は老練だった。
「そこだよ。君たちの仮説は新興国の脅威や、パーツ企業の高まる優位性ばかり重要視して、うちがこれまで築き上げた市場からの信頼とブランド力が、失墜することを前提にしている。だが本当にそうなのか?」
有永はこの手のやや改革めいた話を潰すときの常套句を口にした。
確かに全てが予測の話なので、客観的なデータに乏しい。TECGの、いや旧高倉電機の築いてきたものは、そんなに脆いものではない、と言い切られると反論の余地がない。
だが現場に立って市場を感じていると、明らかに考えられないような大きな変化が、押し寄せようとしているのを肌で感じる。
現場の営業マンの感覚を信じるか信じないかは、結局経営者の判断に頼らざるを得ないのだ。
「いえ、確かに現在までに当社の築いて来た財産は強固なものです。それは確かです。しかしお客様の変化は、凡庸な私でも感じるところです」
吉木は素直な性格で、他の者が嫌がるような細々しためんどくさい仕事も丁寧に仕上げる。だが自分の信念には拘りの強いところがあって、例え専務が相手でも一歩も引かない芯の強さがあった。
吉木は有永に自分を信じて欲しいと、何の細工もすることもなく、直球で訴えた。
「分かってない!」
少し怒気を含んだ声を有永があげた。おそらくこの声も芸の内だろう。
「逆に聞きたい。なぜ君たちは私たちが築いてきたものを信じない。なぜ闇雲に葬り去ろうとする。よりにもよって、いつ潰れるか分からないようなゲーム会社と組むなどと言い出す。それじゃあ結局ゼロからのスタートじゃないか。今一〇の高さにあるとすれば、その上に新たな価値を付けてこそ二〇にも一〇〇にも成るのではないか?」
今度は優しく教え諭すような口調だ。この親父まったく百選練磨だなと思った。こういう論議になると、若い吉木にはやや荷が重い。
私は図らずも口を開いた。
「専務のお考えは深く心に染みこみました。我々はこのアイディアをもう少し詰めて、今の営業部の延長線上にあるべき姿にすることを求められたわけですね。足りないことが見えた気がします。ありがとうございます。急いで資料の補足を作りますので、来週またお時間をください」
吉木の一途な態度にもう少し食い下がると思ったのか、私の譲歩に有永はオヤッと言う顔をして、応戦のための次の言葉を飲み込んだ。
「まあ、そう思うなら来週もう一度だけ話を聞こう。一五分でいいな」
有永が、私達の後ろのドアの前に立っている絵利華に目で促した。絵利華はスケジュールに予定を書き込むとドアを開けた。
「ありがとうございました」
終始議論に加わらなかった佐々木が、礼を言って二人を先導して部屋を出た。
「お疲れさまでした」
専務の部屋のドアを閉めると、絵利華がねぎらいの声をかけた。
輝くような笑顔だった。きっとこの子は俺たちがなす術もなく、専務に手もなくひねられたと思ったのだろうと、専務と話した時とは別の悔しさで何も言わず頭を下げた。
最上階から八階のオフィスに戻ると三人で会議室に入った。
「資料の補足を作るって、いったい何を作るんですか?」
開口一番、吉木は提案が軌道修正させられるのではと警戒して、少しばかり非難めいた口調で聞いてきた。
「何も作らないさ」
私はあっさりと資料に修正はしないことを告げた。
「なぜ、じゃあどうするんですか! このまま何もせず来週にはエンドを迎えるんですか?」
「まあ落ち着け、あのままじゃあ、今日エンドを迎えたぞ。少しは星野を信じて話を聞こうじゃないか」
少しばかり興奮気味の吉木に佐々木がなだめるように言った。
「俺は吉木の提案は修正しないよ。もう直す余地はない。どこかいじると必ずバランスが崩れるし、そうなったらプロジェクトスタッフから愛想を尽かされるかもしれない」
私の言葉に佐々木はニヤッとした。
吉木は相変わらずニコリともしない。
「吉木は今の路線でもう少し資料を読みやすくしてくれないか。提案書の部分は客向けに今のままでいいけど、戦略の解説部分は社内向けに少し言葉を優しくした方がいい。有永さんの反応を見て思ったが、表現が少し先鋭的なんで読む人によっては痛いかもしれない」
「本当に方針を変えなくていいんですか?」
吉木は自分の作った資料をそのまま活かすと言われ、落ち着いたようだ。落ち着くと今度はどうやってこの提案を通すのか心配になったみたいだ。
「俺は資料の補足を作ると言ったが、何も紙の形で資料に付け足すとは言ってないぞ。まあ補足の仕方はいろいろある。少し時間をくれ」
その言葉に佐々木は満足そうに「ガハハ」と笑った。
「まあ、補足は星野に任せよう。プレゼンも週明けだから専務の承認が降りても二日しか時間がない。吉木は承認されることを前提にプレゼンの準備に集中しろ」
こういう時の佐々木は頼もしい上司だ。最初に提案を説明した時は、今の事態を見越して大反対したのに、やると決めた後は心配が現実になっても慌てて騒いだりしない。どんと構えてやるべきことを淡々とやろうと信じて送り出す。
三人で会議室を出ると同期の長澤がデスクの前に来ていた。吉木は会釈だけしてすぐに机に着く。
「忙しい次長様がどうしてここに来たんだ?」
長澤は同期の出世頭だ。私も幹部社員昇進は同期のトップグループで就任したが、国内営業部の王道を突き進む長澤は、一足早く次長に就任して辣腕を振るっている。。
その長澤のデスクは私たちのフロアの上の九階にある。新規分野の営業が集まる八階に来る用事も暇もあるとも思えない。
「いや、専務に斬新な提案をしたが、仕切り直しになったと聞いて何か力に成ればと思って来てみたんだ。研修を一緒に受けた仲だしな」
いかにも心配している風の言葉が、長澤の厚めの唇から飛び出してくる。やれやれと思いながら少し皮肉も込めて私は返した。
「さすがに営業のエースだけあって早耳だな」
言葉ではそう言ったが別に驚くべきことではない。長澤は有永のお気に入りだ。事前に提案書を読んだ有永から、「またイノベーションなどと流行に乗って提案するけしからん奴がいる」ぐらいのことを聞いて、一応同期の誼で心配して様子を見に来たのだろう。
「まるっきり駄目だったよ。何とか来週まで延命してもらったが、あまり打開できるとは思えないんだよな」
提案の骨子を変えない方針などは下手に漏らさない方がいい。なにしろ長澤と有永はホットラインでつながってるから、変な警戒心を抱かせるのは良くない。
「まあ、俺から専務にとりなしてもいいが、提案内容は少し変えないと難しいぞ」
他部署の人間がこれから行われるコンペの提案内容まで知ってるなんて、この会社の機密はどうなってるんだと呆れながら長澤を見たが、俺は知ってて当然だろという顔で長澤は平然としていた。
「もう少し俺たちでやってみるよ。いよいよ駄目ならお願いするから」
一応顔を立てて、この不思議な勘違いをしている男を追い返す。
帰り際に長澤は気になる一言を残していった。
「専務は小原副社長や柴咲常務が、社長方針に迎合しながらうまくいかず失脚したことがひどく気に成っている。ライバルが消えたという安堵感ではなく、誰にも言わないが密かに恐怖に感じて、今まで以上に自分の色に拘っている。あまり先鋭的だと絶対通らないぞ」
これは大きなヒントになった。反対の動機が国内営業としてのプライドではなく、社長に対する迷いであれば、社長の意向を反映した企画のイメージはマイナスでしかない。
――それを逆手に取るか。
長澤の姿が消えると、ノートを開いて打開策のヒントを掴もうと、今の事態の整理を始めた。私は手を動かしながら考えるタイプで、書いた文字を目で確認しながら頭を働かすのが、入社した時からの癖だった。その時は鉛筆を使うと言うのも入社以来変わらない。
専務はこの提案が嫌い――既存の営業スタイルの否定と捉える――自己存続に向けた本能――社長候補者たちの退場劇――現状への危機感――社長の後継者像とのギャップ――頼みの綱は国内営業の地位保全――それでも迫りくる恐怖――社長への恐怖――見えない社長の本心――社外から来る後継者……
そこまで書いてふと今年の年賀式で、国内営業幹部たちが社長の言葉に反発する姿を思い出した。
社長はグローバル化とイノベーションを声高に叫んでいたが、それと真逆な存在である国内営業の高利益率が、その活動を支えているのは事実だ。
高階は最初こそ国内営業にいたが、四年目に米国に出向してから欧州、東南アジア、中東、そしてまた米国とその大半を海外で費やしている。
だからこそ、将来を考えて高倉将志は高階を後継者に指名した。それだけに国内営業の人間は、高階の人となりをほとんどの者が知らない。有永とて例外ではない。
先ほどの長澤の言葉を信じれば、知らない者に生殺与件を握られることは、予測できないだけに凄い恐怖だろう。
社長方針に追従した二人の社長候補者が切られたのも、恐怖をあおる大きな材料だ。だが今自分たちのやろうとしていることは、確実に高階の意向とずれてないと確信できる。
有永はそれが分からないぐらい追いつめられているのだ。きっと過去に社長候補の座から追われた人たちも同じ状態だったのかもしれない。
ならば、有永を冷静に考えられる状態に戻して、自分たちの提案が社長が求めていることと同じだと気づかせればいいのだ。では具体的にどうすればいい。そこで私の思考は行き詰ってしまった。
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