第13話 星に成ろう!
三濃商事へのプレゼン準備を始めて四日目の朝だった。
連日帰りは遅くなり、家に帰ると食事と風呂を済ませ爆睡のパターンが続いている。
今朝もまだ完全に目が覚めてない状態でフラフラと寝室を出ると、リビングに理央の姿がなかった。ダイニングにも洗面所にもトイレにもいない。
――学校に早く行く用事でもあったのかな?
念のためにと、理央の部屋に行くと、美穂子が理央が寝ているベッドに寄り添っていた。
「どうしました?」
「ああ、慎一さん……昨日の夜から理央ちゃんが熱を出して、今測ったらまだ三九度七分もあるのよ」
美穂子は曇った顔で、体温計を見せる。
ここのところ子供たちの状態を確かめずに、シャワーを浴びたらすぐ眠っている。美穂子がいなかったら、理央はどんなに心細かったかと思うと、胸が痛かった。
「すいません。今日は仕事を休みます」
プレゼン準備は順調に進んでいる。今日は家で私のパートをまとめて吉木に送れば、奈保とは電話で打ち合わせすればいい。
「いいのよ。そのために私がいるんだから任せて」
できることなら出社したい私の思いを、美穂子がくみ取って申し出てくれた。
私はありがたく甘えて、出社することにした。
出社すると、すぐに吉木たちと打ち合わせが始まった。決めなければならないことは山ほどある。
延々と続く打ち合わせの席上で、私はなかなか仕事に集中できなかった。どうしても今朝の理央のことが気になる。
今日はいい、お義母さんがいる以上問題ない。でも将来はどうなるのだろう。理央だけじゃなく沙穂も病気にかかるかもしれない。
美穂子はいずれ国立に返さなければならない。自分一人で仕事と両立できるのだろうか。
結局悩み続けて、あまり進捗のないまま仕事を終えて帰宅すると、理央の熱は三七度台に下がっていて、三人で食卓に着くことができた。
理央はまだ食欲はないようで、美穂子が作ったお粥を食べている。
「昨日は帰りが遅くなってすまなかった。これからは早く帰るように気をつけるよ」
「大丈夫だよ。理央も迷惑かけないように気を付けるね」
理央は笑って答えてくれた。その健気さが胸に痛かった。
夕食が終わると理央はまたベッドに戻った。
食事の後片付けを終えた美穂子がリビングに戻ってくる。
「今日はありがとうございました。おかげさまで仕事も進みました」
私は感謝の言葉を述べた。
「そのことなんだけど、これは提案なんだけど、聞くだけ聞いてくれる」
美穂子はいつになく真剣な表情だった。
私は緊張して「はい」と返事する。
「私はずっとここにいても構わないんだけど、浩二さんの腰の調子が良くなくて、このまま一人暮らしさせておくわけにはいかないようなの。正直ここに居られるのは、後一年だと思っているわ」
「それは私もそう思います。今がすごく甘えた状態だということも」
「でもね、昨日みたいに理央が突然発熱したり、沙穂だってこれから病気になることは多いと思うのよね。その度に国立から来てもいいけど、やはり現実的じゃないでしょう」
元気だと言っても美穂子は今年六五才だ。国立と吉祥寺の往復は負担が大きいはずだ。
「それでね。浩二さんと相談して、もし慎一さんさえ良かったら国立に来てもらえばいいんじゃないかということになったの。うちから徒歩十分ぐらいのところに、マンションの空(あき)があって、浩二さんはうちでお金を援助してもいいと言ってるの」
それは願ってもない話だった。今より少し通勤は遠くなるが、美穂子の家に近ければ心配なく仕事に打ち込める。
だが、理沙がいないのにそこまで甘えていいものか、という思いが引っかかり、返事ができなかった。
「理沙がいないのにとか考えなくていいのよ。実は私も浩二さんも理央と沙穂のことが心配でしょうがないの。そうしてくれれば、私たちも安心して暮らせるから」
「分かりました。少しだけ考えさせてもらえますか。理央とも話してみないといけないし」
「もちろん、急ぐ話じゃないし、ゆっくり考えてね」
その夜、私は理沙のいないベッドに一人で寝ながら考えた。
どう考えても美穂子の話に乗った方が良い、ありがたい話だ。
美穂子がいなくなれば、理央の時と同じように、沙穂をこの寝室に入れて一緒に寝ることになる。二歳ぐらいから夜泣きも大変だ。普通に考えると仕事を変えない限り絶対に子育ては無理だった。
明日、提案書の骨子は完成するだろう。そうすれば、明後日からの週末は休める。休み中に一度理央にこの話をしてみよう。理央は友達と離れるのが寂しいだろうが、美穂子に懐いているから国立への引っ越しをOKしてくれるんじゃないか。
そう考えながらも、一方で何かが心の中で引っかかるような気がした。
迎えた土曜の朝、熱が下がってすっかり良くなった理央を連れて、井之頭公園を散歩した。
休日は人でごった返す場所だが、早朝だとまだそんなに人もいないので気持ちがいい。
理央は病み上がりなので、井の頭池の周りをゆっくりと歩く。
社に塗られた赤い色が鮮やかな井の頭弁財天の前を過ぎると、池の中央に七井橋がかかっている。
橋を渡りながら池の白鳥を見ると、理央が小学生に上がる前に理沙と三人で時間貸しのペダルを回して進むタイプのボートに乗ったのを思い出した。私と理沙がペダルを漕ぎ、理央がハンドルを回す。楽しかった思い出だ。
橋を渡り終えると、フリーマーケットが開かれる場所を抜けて、神田川の起点に着く。
ここから都内に続く川が始まると思うと、自然の大きさに改めて気付く。これでほぼ池の端から端まで歩いたので、いったん休憩する。
時間は八時を回ったところだ。晴天の空から春の陽ざしが降り注ぐ。歩いて喉が渇いたのでトイレ前の自販機で缶コーヒーを買う。
理央はというと、水筒に麦茶を入れて持ってきている。
うっすらと汗を掻いて気持ちよさそうに麦茶を飲む理央に、私は美穂子の提案を切り出した。
「今年中に国立のお婆ちゃんの家の近くに引っ越そうと思うんだが、理央はどう思う?」
「えっ」
理央は予想以上に驚いた顔をした。話が唐突過ぎたかもしれない。私は慌てて引越をする理由の説明を始めた。
「お父さんは生活のことを考えると仕事を辞めるわけにはいかないだろう。でも理央や特に沙穂は、これからどんどん手がかかりだす。現実的に考えるとお婆ちゃんの近くに住んだ方がいいと思うんだ」
理央の返事はない。
「嫌か?」
私の問いに理央は横に首を振った。しかし承諾の言葉は出なかった。
「まあ、まだ決めたわけじゃあないから、理央の考えがまとまったら話しの続きをしよう」
そう言って、この話は止めた。今度はひょうたん橋を渡って、玉光神社の横を抜けて、また七井橋を渡った。
野口雨情の歌碑を横目に通り過ぎお茶の水まで着いた。ちょうど井の頭池を八の字に周回したことになる。
「どうする? もう一周するか?」
「もういい」
私としては、もう少し二人でいたかったが、理央が疲れているように見えたので、帰ることにした。
帰り道は気のせいか理央の元気が無さそうに見えて、公園から家まで自転車に乗ってる間、ずっと気になった。
吉祥寺通りを北上し、井之頭通りを横切る。もうすぐこの辺りは人でいっぱいになるが、休日の朝なので人もまばらだ。
更に北上して五日市街道まで出て、今度は左折して西に向かうと吉祥寺本町郵便局があり、私のマンションはその側だ。
理沙と二人で良く歩いた通りを過ぎていくうちに、もし引っ越したらこの通りを歩くことも無くなることに気づいた。
ヨドバシカメラの前に来たところで自転車を停めた。
「クレープ食べていこうか?」
理央は最初どうしてという表情をしたが、はっと気づいたような顔をして、元気な声で「食べる」と言った。
自転車を歩道の脇に寄せ、キッチンカーに近づき、メニューの書いてある看板を見る。
たくさんあって少し迷ったが、定番の『いちご生クリーム』にした。理央はまったく迷うことなく『バナナチョコ生クリーム』を選んだ。
「八三十円でーす」
クレープ屋のお兄さんに千円札を渡し、お釣りを受け取る。理央は、空いてるベンチに腰掛けて、懐かしそうにキッチンカーを眺めていた。
五分程待って、クレープを受け取って理央のいるベンチに向かう。
「どうぞ」
「美味しそう―」
理央は嬉しそうにスプーンで器用にクリームをすくって、食べ始める。私は実はクレープを食べるのが苦手だ。イチゴが落ちそうで、うまくスプーンですくえない。かといってかぶりつくと顔中クリームだらけになる。
「何か懐かしいね」
理央が道路を走る車を見ながら、私に向かって言った。
「そうだなー、ここに初めて引っ越したころは日用品を買い出しに来ては、こうやってベンチに座って、三人でクレープ食べたよな」
「お父さん、いつも荷物が重い、疲れたと言ってたよね」
「お母さんは予定外のものを買いすぎなんだよ」
「でも必ずお父さんにこれ買ってもいいって断ってから買ったよね」
「反対しても最後は説得されるからなぁ」
「お母さんが家(うち)では一番強かったよね」
「まあ、どこもそうだろう」
それでも理央はけっこう私の味方をしてくれた。二対一で臨んで、やっと互角なぐらいの力関係だった。
久しぶりに二人で話した気がする。理沙が亡くなってから初めてかもしれない。もしかしたら、引っ越しの話をするのは早すぎたのかもしれない。もっとこういう時間を作って、理央の本当の気持ちを知ってからにしないと……
都合五分のサイクリングを終えて家に入ると、美穂子は沙穂のおむつを変えていた。沙穂は気持ちよさそうに目を開いて笑っているようだった。
「今日は、沙穂ちゃんとても機嫌がいいわよ。さっきもおすわりして笑ってた」
生まれてからずっと寝続けた沙穂だったが、最近では徐々に起きている時間が長くなり、座ることもできるようになった。最近はお腹を中心にグルグル回ったり、じたばたしながら前に進んだりする。引越問題で悩んでいる私には、ささやかだが安らぐ瞬間だ。
「お父さん……」
ずっと黙っていた理央が思い詰めたような表情で、私に呼びかけた。
「どうした」
その表情に何か重大なことを伝えようとする気配を感じ、私は真剣な顔で理央の言葉を待った。
「私やっぱり引っ越したくない」
「新しい学校が不安なのか、それとも仲の良い友達と別れたくないのか?」
「ううん、違う。引っ越すってこの家から離れることだよね。そしたらお母さんの思いでとも離れるってことだよね」
理央の言葉で、私も自分の心に引っかかっていたものに気付いた。この家は理沙と一緒に選んで、生活を作っていった家なんだ。家の収納も掃除の仕方も全ての家のルールは理沙が作ったものだ。新しいところに引っ越すと、これらを全て捨てることになる。
「私ね、沙穂が大きくなったら、お母さんの話をしてあげようと思っていたの。この家のいろんなところに、お母さんの思い出がいっぱい詰まっている。それを沙穂に教えてあげるのが私の義務だから」
――義務? 理央はまだ理沙の死の原因が自分だと悩んでいるのか?
「理央は感じなくてもいい責任を背負ってないか?」
私は前から感じていた理央の重荷をここで取り去りたいと思った。
「責任とかじゃない」
「じゃあ、何で義務なんて言うんだ?」
理央は黙って下を向いた。
美穂子が心配そうにこちらを見ている。
「引越問題はとりあえず置いとこう。お父さんは理央が、心の中にしまっていることを知りたいんだ」
理央がおずおずと顔を上げる。泣いていた。
「だって、だってお母さんが死んじゃったから、お父さんと私は他人でしょう。それにお母さんが死んじゃったのは、ボーとしていた私の責任だし、このままじゃあお父さんや沙穂と一緒にいる資格はないと思う」
私は少なからずショックを覚えた。私との関係で理央が悩んでいるとは、考えてもなかった。思慮の浅さに自分が嫌になる。ちょっと考えてみれば、私と理央は一緒に暮らし始めて二年にも満たない。八才の思考を侮っていた。
「キャッ、キャッ、キャ――」
突然沙穂が叫んでいるように笑い始めた。
その場にいる全員が思考を止めて沙穂を見る。
「アー」
全員の視線が自分に集まったのを感じて、沙穂が勝ち誇ったような顔をする。
その顔に思わず全員が噴き出した。
「あらあら、この子は自己主張が強いわねぇ」
美穂子が嬉しそうに沙穂をあやす。
沙穂を見ていて、私はあることを思い出した。
「理央、確かにお父さんと理央は血のつながりはない。でもそれで全てのつながりがなくなるわけじゃない」
理央は真剣な目で私の顔を見ている。理央が一番欲しいのはつながりだと確信した。
「沙穂が生まれたとき、お母さんが家族でアリエスに成りたいと言ったのを覚えてるか?」
理央は大きく頷く。
「お母さんは死んじゃってもういないけど、星に成る夢がかなわなかったら可哀そうだと思わないか?」
再び理央は頷く。
「だから、お父さんと理央の心の中でアリエスを作ろう。この際お父さんはαをお母さんに譲る。一番大きくて明るい星をお母さんとして、お父さんと理央の心の中に作るんだ。そしてβはお父さんだ。γが理央で、Θが沙穂。いいか?」
理央の顔が少し明るくなった。
「お父さんは心の中でお母さんの手を絶対に話さない。そしてもう片方の手で理央の手をしっかり握る。だから沙穂の手はお前が握るんだ。沙穂の心の中にお母さんの星ができるように、お母さんの話をしっかりしてやってくれ」
理央は何度も頷く。目がキラキラして来た。
「でもこれは義務じゃない。理央の心の中のアリエスが壊れないためにするんだから、自分のためだぞ」
「お父さん、分かったよ。心の中のアリエスを大事にする」
「キャー」
理央が嬉しそうに誓ったとき、沙穂が再び自分に注目を集めるために、今度は大声で叫び声をあげた。
「ホントに沙穂はみんなが気になるんだね。いいよ、ねねがいつでも沙穂を見てるからね」
八才の理央が八カ月の沙穂の頭を撫でると、沙穂は嬉しそうに可愛い両の手を叩く。
――やれやれ、にぎやかな家になりそうだ
その夜、私はいろいろなことが頭を駆け巡って、なかなか寝付けなかった。理央との会話が頭から離れない。あの後、理央は引越について何も言わなかった。
頭の良い子だから理央なりにいろいろ考えたのだろう。美穂子も何も言わなかった。自分が決めなければならないと感じた。
何と言っても最優先するべきは家族だ。今この世でそれより優先するべきものは、どこを探してもない。
しかし、仕事は私自身の生きがいであり、二人の子供を育てるためにも疎かにはできない。
ようやく自分の思い描く姿で進められるようになってきた。今はもう少し力の限りやってみたい。
いくら考えても結論の出る話ではなかった。こういうときは無理にでも決めて行動を移すしかないが、まだ少しだけ自分には時間が残っている。今のプロジェクトはもう少しで結果が出る。それまでは全力で仕事をして、終わった時に結論を出そうと決めた。
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