第10話 業火に焼かれて
何もかもうまくいって、幸せを実感する毎日が続いた。沙穂は大きな病気をするわけでもなく順調に成長している。四か月後には早くも首がすわり、桜の花も咲く季節に成ると気軽に外出もできるようになった。
私は理央をしばらく遠出に連れて行ってないのを心配して、「土曜日に花見を兼ねて、上野動物園に行かないか?」と、理沙に切り出した。
「えっ、動物園で花見なら井之頭公園でいいんじゃない」
「それじゃ駄目だよ。理央をしばらくどこにも連れて行ってないだろう」
「でも沙穂のお世話が大変よ」
理沙は、あまり気が進まない様だった。これまでの私だったら、ここで引き下がるところだが今日は違った。
「沙穂が生まれて、家の中に幸せが吹き込んだ感じだろう。なんか少しだけ遠出したい気分なんだよ。出かけた時の沙穂の世話は俺が全部やるから」
沙穂が生まれる迄は、休みの日の家族サービスに積極的でなかった夫が、いつの間にか家族を大事にしてくれる姿に、ちょっぴり感動したのか、理沙がしぶしぶ承諾した。
「分かった。いいよ。その代わり途中で沙穂の世話がたいへんだと音を上げないでね」
土曜の朝、私はなんと四時に起きて弁当作りを始めた。鶏の唐揚げと卵焼きにチーチク、レタスは小ぶりに切ってミニトマトを添え、ウィンナーは不格好だが一応蛸さんを形どっていて、なんとかママのお弁当に対抗しようとしていた。
おにぎりを握り始めたのは六時を回っていた。理沙が起きてきて、私の弁当作りを見て、あきれたように言った。
「いったいどうしたの? 張り切りすぎじゃない」
理沙がやれば一時間で済むものを、三倍の時間をかけて作ったのだからあきれるのも無理はない。
「いや、今日はどうしてもママには面倒掛けずに、俺の手でみんなを楽しませたくて」
「後でばてないでね!」
そう言いながらも、私の気持ちが嬉しかったのか、理沙は楽しそうだった。
子供たちの支度も済んで、いよいよ上野に出かける。少し時間はかかるが、中央線快速電車を使わずに、座って行ける総武線各駅停車で秋葉原に向かう。山手線は少し混んでいたが、二駅なので立っていても気にならなかった。混雑した中での機動力を重視して、沙穂は私が抱っこして運んだ。抱っこ紐が高性能であることと、愛らしい沙穂と密着する喜びで、まったく疲れを感じない。
久しぶりの動物園に、理央はウキウキしながら人込みをするすると駆け抜け、迷子になるのではと私を慌てさせた。一際込み合うパンダはあっさりとスルーし、像、クマ、ライオン、虎、ゴリラ、北極熊、ニホンザルと瞬く間に東園を一周し、あっという間にお昼の時間になった。
サル山を一望する休憩所で、私の弁当が披露される。
理央はいつもと違う不細工な弁当に、「えっ」と声をあげる。すかさず理沙が「今日はパパが早起きして作ったんだよ」とフォローを入れると、「ふーん」とやや不満の声。
それでも腹が空いてるから手が伸びる。
「おいしい!」
ちょっぴり塩気の強い味付けは、走り回った理央にはぴったりの味付けだったようだ。どんどん手が伸びて、あっという間に弁当は空になった。空腹という味方があったとは言え、初めての成果に私も嬉しくなった。
「さあ、お腹がいっぱいになったから、今度はモノレールに乗って西園に行こう」
西園ではペンギン、カンガルー、シマウマ、カバ、サイ、キリンとこれまた子供の大好きな動物たちが続く。
お弁当を食べて元気が出た理央は、午前中よりさらにスピードを増して回っていく。
時間が経つのは早いもので、疲れて不忍池のベンチに座った時には、二時を回っていた。そのまま不忍池で休憩して、ソフトクリームを食べる。食べ終わると理沙と理央は二人で子供動物園に行く。
私は早起きのせいと、理央のスピードについていった疲れで、沙穂と一緒に少しうとうとし始める。すると、「ワーワー」と沙穂が目を覚まして手を振りながら池を見ている。
少し強い風で桜の花びらが舞いながら水面に落ちていく。柔らかい陽射しが水面に反射して、花びらの上と下から光が当たって、キラキラと幻想的だ。
私はしばらく沙穂と二人で、この太陽と風の贈り物を眺めていた。風が止んだときこのショーが中断し、代わりに暖かい陽射しを全身に感じる。私と沙穂は再び瞼が重くなり、うとうとし始める。
「眠ってるの?」
遠慮のない元気な声を発した理央が、ベンチに座った私の顔を覗き込む。
「三時を過ぎたから、そろそろ帰らないと。電車に乗る前に沙穂におっぱいあげようか」
私が抱っこ紐から沙穂を下ろすと、理沙が受け取って授乳室に向かう。今日三回目の解放感に私は大きく伸びをした。
それからお土産を買ったりしていると、またあっという間に時間が過ぎ、上野駅に着いたのは五時になった。軽い疲れを覚えたので、理沙に「外食をしよう」と提案した。
その提案に対して、理沙は少し考えて、
「いいけど、吉祥寺に帰ってからにしよう」と返した。
その時私は学生の時から行きつけの神田の洋食屋に行きたくなった。理沙ともデートで何回か行ったことがある。
その店のマスター自慢の甘いオムライスを理央に食べさせてやりたかったのだ。
「いいけど、沙穂が一緒で迷惑じゃないかしら」
私の提案に理沙が危ぶむ。確かに赤ちゃん連れで入れる外食店はファミレスを除くと限られてくる。理沙は神田まで行って断られるのを心配したようだ。
「大丈夫だって、あそこのマスターは俺が学生の頃から世話になっているし、きっと大目に見てくれるよ」
私は強引に理沙を説得して、神田に向かった。
理央は家族四人でレストランに入ることが妙に嬉しいみたいで、注文したオムライスの味がほとんど分からないくらい興奮して忙しく食べていた。
私はビールを飲んで饒舌になり、マスターから聞いたこのオムライスの味の秘伝を、自慢げに理央に話し始めた。
理沙はそんな私と理央を見ながら、「良かったね。聞いてくれる人がいて」と私を冷やかす。理沙はもう何度この話を聞いたことだろう。
私の言葉通り、マスターは気を使って、一番隅の他のお客さんをあまり気にしないでいい席を作ってくれた。
沙穂を下ろして眠れるように、大きな籠に毛布を引いて、二つの椅子の上に置き、簡易ベッドも作ってくれた。
ここでも沙穂は周囲の喧騒を他所に、スヤスヤ眠っている。マイペースで本当にいい子だ。たまに目が覚めても、おしっこをしたり、お腹が空いたりしない限り、にこにこと上機嫌で泣いたりしない。
思いっきり楽しい時間を堪能して外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。神田駅から中央線に乗ると、電車の中は土曜なので遊び帰りに少し酒の入った若者や、買い物帰りの老婦人、土曜出勤したサラリーマンなど雑多な人たちで混んでいた。
お茶の水を過ぎたあたりで、私たちが乗り込んだ車両内でサラリーマン風のスーツを着た若い男と、遊びの帰りらしい若い女の口論が始まった。込み合った車両と、いっぱいに広がる酒の匂いで、双方気が立っており、掴みかからんばかりの勢いだった。
少し怯えている理央に、「新宿過ぎたら空くから頑張れ」と声をかける。理沙は理央が押されないように背中でかばうようにして踏ん張っている。やっぱり早く帰ればよかったかなと、沙穂を守るのに精いっぱいの中で私は少し後悔した。
四谷駅に着くと更に人が乗り込んできて、懸命に降りる人の流れに巻き込まれて、私と理沙・理央の距離が開いた。
新宿までだと自分に言い聞かせて、理沙と理央を目で追う。さっきの喧嘩している二人は、さらに激しく言い争っている。
新宿駅に着くと、降りようとする人込みに巻き込まれて、降りる予定のない人も、いったんホームに押し出される。
理沙も人の流れに逆らえず、理央をかばうようにして電車を降りた。二人の方に近寄りたいが、人の流れが殺気だっていてなかなか前に進めない。
理沙の後ろで喧嘩していた若い男も降りようとしたが、女は逃がさまいと男の背中のシャツを掴んだ。
男はかまわず降りようとして、女はバランスを失って倒れこんだが、それでもシャツは離さず、男に引きずられるように車外に出た。
引きずられまいと女が空いているもう片方の手を伸ばし、間違って理央の腕を掴んだ。
倒れこみそうになる理央を助けるために、理沙は男を止めようと前に出た。
男は構わず理沙を乱暴に横に薙ぎ払った。
理沙はバランスを崩して仰向けに倒れ、後頭部を駅のコンコースにぶつけた。
ホームに誰のものとも分からない悲鳴が上がる。
私はやっと電車を降りたところだった。
私の目には、男に押された理沙が仰向けに倒れ込む様子が、まるでスローモーションのように見えた。
沙穂を右手で庇いながら、左手で人を押しのけ、急いで理沙の傍に駆け寄るが、意識を失っている。
後頭部から血が流れ出し、コンコースが赤く染まる。
「理沙、理沙、しっかりしろ! 沙穂がびっくりするぞ! 理沙!」
駅員が駆けつけ、救急車を呼ぶ。喧嘩をしていた二人はどさくさに紛れて、いつの間にか姿を消していた。
理央は転んだらしく、膝から血を流しながら立ち上がって来る。
頭から血を流して倒れこんでいる母の姿を見て、事態の深刻さに驚いたのか呆然と立ち尽くしている。
駅員はすぐに駆け寄ってきたが、何もできずにおろおろしている。
しばらくすると、救急隊員が来て理沙を担架に乗せて救急車に運びこむ。
病院に搬送される途中も、理沙の意識は戻らなかった。
理央の二の腕には、女の手の跡がしっかり痣になって残っていて、爪が食い込んだ場所は皮膚が破れて血が出ていた。
病院に着くと、理沙はすぐに手術室に運ばれた。
理央はまだ泣かずに手術室を見ている。代わりにお腹が空いた沙穂が泣き始めるが、ミルクをくれるママはいない。
看護婦さんが気を利かして、産科に行ってミルクを作って来てくれた。
沙穂にとっては慣れない哺乳瓶だが、看護婦さんが上手なのか、空腹だからか分からないが、上手に飲んでやがて満足したのか再び眠りにつく。
どのくらいか分からない不安な時間を経て、手術室の電気が消えた。
中年の男の医師が出て来るのを見て、慌ただしく理央と一緒に立ち上がる。
「理沙は、理沙はどうなりました?」
医師は私の顔を見て、「手をつくしましたが……」と言って、首を振る。
私は思考が止まった。
理央は何も認めないという表情で医師をじっと見ている。
看護師に促されて手術室に入ると、理沙が静かに眠っていた。
意外なことに、今日の楽しい一日を思い出すかのような安らかな顔だった。
理央は目をつぶったままの母親をじっと見つめながら、「眠ってるだけだよね」と確認してくる。
私は何も答えることができず、沙穂を抱っこしているので、不安に押しつぶされそうな理央を抱きしめることもできず、ただ握っている右手に力を込めるだけだった。
あまりにも急な展開に、私と理央は現実を受け入れられず、ただボーっと理沙の顔を眺めているだけだった。
しばらくそのままでいると、また看護師に促されて別の部屋に通された。
先ほどの中年の医師が待っていて、理沙の死因と手術の様子を説明し始めたが、私は思考がまとまらない。
私がまったく話を聞けてない様子に医師が気付き、また明日説明しましょうと言って出て行った。
部屋から出ると美穂子が夫と一緒に駆け付けていた。看護婦に「他の家族の方は?」と聞かれて、咄嗟に美穂子の名と連絡先を教えたのを思い出した。
美穂子は既に理沙に会って来たらしく、涙を浮かべて私に向き合った。
「慎一さん……」
美穂子の顔を見て、温かいものが頬を伝うのに気付いた。隣から嗚咽が聞こえて来る。
ついに理央も泣き始めた。母を失ってから初めて流す涙だった。
美穂子の後ろで理沙の父の浩二が立っている。浩二も涙を流していた。四人は悲しみに包まれながらも、お互いに慰め合いながら泣き続けた。
しばらくすると年配の刑事と若い刑事が二人で現れ、私に話を聞きたいと申し出た。
駅員からある程度の話を聞いたのだが、私からも詳細を聞きたいようだ。
美穂子が理央と沙穂を家に連れて帰ると言ってくれた。浩二が運転する車で来たということだった。
年配の刑事の質問は要領よく行われたが、私はほとんど答えることができなかった。
二人の男女が何を言い争っていたのか、二人の着ていた服や顔の特徴とか訊かれたが、距離があった上理沙の死に立ち会ったショックでほとんど思い出せない。
理央が巻き込まれたシーンも人込みで良く見えなかった。ただ理沙が男に突き飛ばされて、コンコースに倒れるシーンだけがやけに鮮明に頭に残っていた。
年配の刑事は質問を終え、思い出したことがあったら、また教えて欲しいと告げた。去ろうとする刑事に私が質問した。
「理沙を殺したあの男女はどうしたのですか?」
「二人ともすぐに逃亡したので、まだ見つかっていません。ただ、目撃者も多いので、すぐ捕まると思います」
若い方の刑事がそう言うと、二人は礼をして去って行った。
「まだ捕まってないのか……」
独り言のように呟いた。
人が一人命を落としたにも関わらず、原因を引き起こした者が責任を取ることもなく、行方をくらました。
理沙を突き飛ばした男もそうだが、ヒステリックに喚き散らして、理央を巻き込んだ女にも怒りがこみ上げて来る。
最初は小さかった胸の中の黒い炎が、業火となって燃え上がる。
怒りの対象を特定しようと、二人の顔や姿形を思い出そうとするが、どんなに記憶を探し回っても、言い争っている雰囲気しか再現できない。
争いが嫌で目を背けていたことが原因かもしれない。
やがて黒い炎は焼き尽くす対象を求めて、私の心を焦がし始めた。
――こんなことになったのは、気が進まない理沙を、無理やり神田まで連れて行った自分なのだ。
理沙は動物園に行くことさえ、遠出に成ることを危惧して反対していた。
黒い炎はどんどん火勢を増していき、自分の罪を生きているのが嫌になるぐらい思い知らされる。
病院の待合室の椅子に座り、頭を抱え込んで動けないでいると、人影が現れて声を掛けられた。
「どうしました。そろそろ通用口も閉まりますよ」
顔を上げると巡回の看護師さんが立っていた。
私はのろのろと立ち上がり、通用口に向かってフラフラと歩き出した。
新宿からタクシーで家に帰ると、美穂子が起きてコーヒーを淹れてくれた。理央と沙穂は疲れて寝ていた。
理央が眠ってくれていてホッとした。今は自分のことだけで精いっぱいで、理央を慰める余裕はなかった。
「あなたもこれを飲んだら寝た方がいいわ。私はしばらくこの家にいます。明日の朝、浩二さんが着替えや日用品を持ってきてくれます」
美穂子も実の娘を失くしたのだから、相当悲しいはずだ。しかし、私と二人の孫を気遣って懸命に我慢している。
「ありがとうございます」
礼を言って私も寝室に向かった。
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