出会いと別れ
第9話 出会いのとき
――逸る気持ちと反比例して全体の歩みのなんと遅いことか。
帰宅時間の駅の人混みはこんなものだと、頭で分かってはいても、ともすれば両手で目の前をばさばさ掻き分けたい衝動に駆られ、うっかり前の人の踵を爪先で踏んでしまう。
ハッとして謝ろうと思うが踏まれた人は特に気にする様子もなく、マイペースで静々と進んで行く。それが余計に苛立つ気持ちを増幅させ、まったくの赤の他人に対し憎しみすら芽生えそうだ。
いつもならあっという間に終わる短い階段を登ると、やっと駅の外に出ることができた。既に日が落ちてパチンコ屋のネオンが鮮やかに輝いている。
西荻窪の駅前はジャスト帰宅時間にも関わらず、怪しげな雰囲気の人が目立つ。今度はギターを背にしたロッカーのグループが前を塞ぐ。彼らの進み方は不規則で抜きにくい。
――後ろ向きに歩くな、横にフラフラするな。
思わずそう毒づきたくなる。
一瞬、駅の反対に回ってタクシーに乗ることが頭を過ぎったが、ワンメーター足らずの距離を堂々と乗るには、私の庶民過ぎる常識がストップをかける。
昼休みに電話したときは、今日は大丈夫だと言われたので安心して会議に臨み、いつものように心行くまで熱弁を振るったのだが、会議後の携帯に届いていたメッセージを見て、高揚した気分がサーっと引いた。
『生まれそう、病院に行く』
その短いメッセージは自分の甘い考えを厳しく糾弾しているように思えた。
理沙は私より四才年上の三八才で、今回の出産は高齢出産にあたる。
生まれてくる子がダウン症になったり、妊娠しても流産する確率や、そもそも理沙自身の身体の負担を考えると、私は不安でしかたなかった。
それにも増して、私にはもう一つ大きな心配がある。
それは長女の理央のメンタルだった。
理央は私との間に直接的な血のつながりはない。
今回の出産で彼女の心に疎外感のような感情が生まれることだけは、何としても阻止しなければならない。
八才の理央は、自分の母親が子供を産むには高齢で危険なことを、感覚的に理解していたから、母親と自分の妹が無事であることだけを考えて、幸い今のところその兆候はない。
だが無事出産が終わり、周囲が喜びで湧き返ったとき、突然自分の居場所が無くなるように感じはしないか、それはなくとも私との間に距離を感じるのではないか、そんな風に考えているうちに、不安の種はどんどん育って心の隅々まで根を伸ばし始める。
駅から病院までの十数分の暗い住宅街を進んでいく中で、そんな心のもやもやと戦いながらも、病院の入り口に着くと我が子の誕生に心が震えた。病院の受付ロビーに入ると、駅に着いた時に電話をくれた義母の美穂子と理央の姿があった。二人は無事に生まれたと嬉しそうに告げてくる。
私はばつが悪そうな顔で、「間に合いませんでした」と神妙な顔で告げる。
「何言ってるのよ、おじいちゃんなんて理沙が生まれてから五時間経ってやって来て、偉そうな顔で、ご苦労なんて言ってたわよ。生まれた後の方が大変なんだから気にすることないわ」
出産に立ち会えずに落ち込む私を、美穂子は些細なことだと明るく笑い飛ばして慰めてくれた。
私はそんな美穂子を見て、理沙のお母さんがこの人で良かったとつくづく思った。地方出身の男が東京に実家がある女と結婚すると、妻の実家との交流が想像以上に深くある。
子育てする上では便利なのだが、妻の母と相性が悪いと大きな苦痛になることは間違いない。何しろ妻という生き物は不満と要求の塊なので、母親が煽ると手がつけられなくなるものだ。その点、美穂子はいつも笑ってとりなしてくれて、今のように私の居場所を作ってくれる。
「早く赤ちゃんに会ってよ」
美穂子の傍らで、理央が私と赤ちゃんの対面を催促する。私はハッとして注意深く理央の様子を観察した。今のところ心配はなさそうだ。
私はホッとして病室に入ると、理沙はベッドで横になっていた。その隣のベビーベッドでは赤ちゃんがスヤスヤと眠っている。この病院は正常分娩で生まれた赤ちゃんは、生まれたその日からお母さんと一緒に過ごす。
「パパが来たよ」
理沙はまだ産後の疲れがあるのか、少しだるそうに横を向きながら、生まれたばかりの我が子に声をかける。その言葉にそれまでのネガティブな感情が消え去り、夢中でベビーベッドの我が子の寝顔を覗き込む。
「ねぇ、お父さんにそっくりだよね」
理央がませた口調で後ろから問いかけて来る。
――いや、お父さんよりもお前にそっくりだよ
その言葉をかろうじて飲み込んで、天使の寝顔をじっくりと鑑賞する。
沸々と沸き上がる愛おしさと同時に、ああこの子は寝る子なんだと、ホッとした感情が芽生えて来る。
理央は眠らない子だったらしい。生まれたその日から、昼夜関係なく理央の泣き声を聞かされたと、美穂子から聞いている。
まったく寝かせてくれない理央に、決して子供嫌いではないが仕事の疲れもあって、理沙はしょっちゅう苛立っていたと、本人からも聞いている。
「寝る子で安心したでしょう」
そう言って理沙が笑いかける。まるで心を読まれたかのような理沙の言葉に驚きながらも、穏やかな我が子の寝顔に癒され、心が平和な気持ちで満たされていく。
みんな笑顔だ。この瞬間は星野家の一家全員が間違いなく幸せな気持ちで満たされた。
「ねぇお父さん、ママと赤ちゃんはいつ帰って来るの?」
西荻窪の病院から吉祥寺の自宅に向かって、すっかり暗くなった五日市街道を走るタクシーの中で、理央が心配そうに聞いて来た。
生まれる迄の間ずっと我が家で家事をしてくれた美穂子は、久しぶりに国立の家に帰った。無事出産が終わって、義父に任せきりだった自宅が心配になったらしい。
私は明日から一週間の特別有給休暇を取るので、二、三日は理央と二人の生活となる。
「今日から三日間病院で様子を見るから、何も無ければ四日目の朝には帰って来るよ」
理央はその言葉を聞いて、ハアーと寂しそうな溜息をついた。
「帰ってきたら、ママは理央だけのママじゃなくなるんだよね」
さすがに八才だと、そういうことにも気が回るみたいだ。
「理央、愛情の大きさって決まってるもんじゃないんだよ」
「えっ?」
「愛情ってね、注ぐ対象が増えるとどんどん大きくなっていくんだ。ママの理央への愛情はそのまま、赤ちゃんに対する愛情は新しく生まれて、結果としてうちの家はもっと大きな愛情でいっぱいになるんだよ」
「でも、お父さんは理央よりも赤ちゃんの方が可愛いでしょう」
ついに来た。心臓がバクバクと早鐘を打ち始めた。
理央は真っ直ぐに私を見つめている。
ここで簡単に済ませてはダメだ。
タクシーは家まで七、八百メートルの距離まで来ていた。
「運転手さん、停めてください。ここで降ります」
車はすぐに停まった。支払いをしている私を、理央が怪訝な顔をして見つめている。
「今日は晴れていて、星が見えるから歩いて帰ろう」
私の意図が分かったのか、理央がこくんと頷く。
タクシーを降りて、私と理央は五日市街道を歩き始めた。
「初めて会った日を覚えている?」
理央は再びこくんと頷く。
「立川のおばあちゃんの家で、理央はお父さんに笑ってくれたよね。あのとき、お父さんは天使に会ったような気がしたよ」
ちょうど一年前、仕事で知り合った私にプロポーズされた理沙は、四才年上であることと、理央の存在を理由になかなか承諾してくれなかった。
アメリカの大学を卒業し、そのまま向こうの会社に就職した理沙は、五年前に理央を産むために会社を辞めて帰国した。
理央の父親はアメリカに駐在していた日本人のビジネスマンで、日本に妻子がいるにも関わらず理沙と恋に落ちたが、理沙のお腹に理央が授かったときに二人は別れた。
その男は強硬に中絶を望んだが、どうしても産みたかった理沙は、一人で異国の地で子供を育てることは難しいと考え、男に別れを告げ、積み上げたキャリアも捨てて、実家で出産することを選択したわけだ。
私との結婚に踏み切れない理沙は、お互いに必要としている間だけ関係を続けることを提案したが、どうしてもこの聡明な女性と一緒に人生を歩きたかった私は賭けに出た。
理央と会わせてもらって、その日のうちに理央がいいと言ってくれたら、結婚しようと持ち掛けたのだ。
迷っていた理沙は、その賭けに乗った。もちろん私はそれがだめでも諦める気持ちはなかったが、とてつもなく可能性が無くなることは自覚していた。
初めて会ったとき、自分の家(うち)に大人の男が来ることなどなかったせいか、理央は緊張してほとんどしゃべらなかった。
私は理央と会って、理沙の生き写しのようなこの子が愛しくなって、来るまでに考えていた対子供用のご機嫌取りを全て放棄した。
小細工は抜きにして、誠実に接してみようと思ったからだ。
「おじさんは理央ちゃんと家族に成りたい。一緒に暮らしてすぐにじゃなくてもいいけど、おじさんのことをお父さんと呼んでくれないか」
今思えばずいぶん無茶な要求を七才の子供にしたものだ。きっと顔も引きつって怖かったに違いない。
そのときの理央の言葉は、もう一生忘れない。
「おとうさん」
と、消え入るような小さな声で呼んでくれたのだ。
「ねぇ理央、理央とお母さんは同じ四月生まれだよね」
理央が黙ってコクンと頷く。
「星占いで言うと、理央とお母さんは牡羊座になるんだ」
「牡羊座?」
「そう、今は秋だからちょうど空の真上のあたりに、見えるはずなんだ」
私と理央は真上を見上げたが、さすがに東京の夜空なので、星は見えるが星座の形は分からない。私は慌ててスマホを取り出して、星座表を検索して理央に見せた。
「これによると、あの辺りかな」
そうやって見ると、そのあたりに四つの星があるようにも見える。
「そうかもしれない」
理央も同意して笑ってくれたので、私は落ち着きを取り戻した。
「お母さんは結婚するときにお父さんに、アリエスのような家族に成りたいと言ったんだ」
「アリエス?」
「牡羊座のことだよ。お母さんはずっと夜空に輝く星のように、ずっと家族で仲良くありたいと思ったらしいんだ」
「ふーん」
「アリエスはα、β、γ、Θって名の四つの星から成っていて、αがお父さん、βがお母さん、γが理央、そして今日生まれた赤ちゃんがΘで、やっと四つの星が揃って、家族が星座に成ったんだよ。だから誰が誰を可愛いとかじゃなくて、四人がずっと仲良くしないと、星座じゃなくなるんだ」
「理央ってお星さまなの」
「そうだよ」
「四人がそれぞれ輝きながら、星座のようにずっと変わらず結び付いてるんだ」
「分かった」
理央は嬉しそうに笑ってスキップを始めた。
「いいか、理央、みんな同じように輝くお星さまだってことを忘れるんじゃないぞ」
理央はうんうんと頷く。
「じゃあ、パパと一緒にママ達が帰って来た時に、どんな楽しいことをするか考えよう」
理央は目をキラキラ輝かせながら、頭を縦に大きく振った。それからしばらく赤ちゃんを寝かせる場所や、お風呂の入れ方など楽しい話が続いた。
マンションに着くと、理央がエレベーターの前まで走ってボタンを押してくれた。ドアも理央が開けた。
「真っ暗……」
家の中に入った理央の第一声はそれだった。考えてみると理央は生まれてから、暗い部屋に帰った記憶はないはずだ。理央にしてみれば生まれて初めて、暗い部屋に帰って来る経験をしたに違いない。
「寒い……」
続けて理央はこれも未経験だと思われる感想を口にした。私はなぜか慌ててて空調をONにした。
ダイニングには美穂子が用意してくれた食事があった。もうすぐ生まれるということで急いだのだろう。おにぎりと卵焼きに作り置きのきんぴらごぼうだけだったが、空腹の二人にはご馳走だった。
食事を済ませシャワーを浴びると、リビングの時計の針は一二時を指していた。さっきまで妹の誕生に複雑な感情を見せていた理央の両の目は、今にも閉じそうだ。ベッドを促すと素直に従って自分の部屋に消えた。
一人になって明日が休みである気楽さから、ウィスキーをソーダ割にして飲むことにした。一口飲むごとに今日のいろいろなできごとが思い浮かんだ。
頭に残る生まれたての我が子の姿を思い出しながら、その感情を噛みしめた。
ほろ酔い気分になった頃、自分の人生も満更でもないという思いが心の中で芽生え始め、体の隅々に拡がっていった。
これでまた休み明けから迷いなく働ける――そう心の中で呟いていつしか私も眠りの世界に落ちていった。
理沙と二日間に及ぶ話し合いを経て、赤ちゃんの名前は「沙穂」に決まった。姉妹が一字ずつ母の名前をもらったことになる。
沙穂は初日に感じた通り、よく寝る子だった。寝る子は育つと言うが、沙穂は寝すぎてあまりミルクを飲まなかったので、生まれた頃よりだいぶ細くなってしまったほどだ。
理沙は理央が生まれたときと比べて、かなり生活が穏やかだと言った。
理央はすっかり小さいお母さんと化している。沙穂の世話をするのが楽しくてたまらないみたいで、ずいぶんと大人びてきた。やはり兄弟を持つということは効果があるなと思った。掃除や食事の後の食器洗いを進んでするので、理沙の機嫌も良くなり、私が仕事で遅い日が続いても文句を言われなくなった。
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