第8話 遥香の野望
帰り際に見送りに出た大川社長が私に声をかけた。
「今度TECGに伺うので舞の残した足跡を私にも見せてくれないか」
「もちろんです。お約束します」
私は資料の開示を約束して、三人で大川電気を出た。
「私は社に帰って社長に報告するが、君達はどうする?」
梅川が尋ねてきた。もう五時を回っているので、通常ならこのままお迎えだが、今日は遥香と約束がある。
「私達は祝杯をあげて帰ります」
「君達二人が? 珍しいね」
「はい、今回はたいへん助けてもらったので」
梅川は意気揚々とタクシーに乗り込み会社に向かう。これでTECGに高階の目指す新しい未来の礎を築くことができる。補佐役としては十分な手ごたえを感じたのだろう。
「さあ、星野さんはあまり時間がないのだから、私たちも早く行きましょう」
遥香に急かされて星野も動き出す。今日は遥香の手配したベビーシッターが、子供たちを見てくれている。久しぶりにアフターファイブを満喫しようと星野の心も踊る。
私たちは帰りの足も考えて、とりあえず蒲田から渋谷まで出ることにした。私は井の頭線一本で帰れるし、遥香も自由が丘なので東横線で十五分以内に着く。蒲田から渋谷まで品川経由で三○分弱だ。
私は遥香の案内で宇田川交番近くの創作居酒屋に入り、とりあえずビールを頼む。席は三人定員で二人だとL時に並ぶ造りだった。隣の席とは背の低いパーテーションで仕切ってある。最近の居酒屋の流行りの傾向らしい。
乾杯の後のオーダーは遥香に任せて、今日のやり取りを思い出した。他社の社長に対してずいぶん思い切ったことを言ったと、今頃になって冷や汗が出てきた。ここまで言い切れたのは、遥香の存在があったからこそだ。精神的に強力に自分をサポートしてくれた。まるで上司と部下の役割が逆だなと、自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「何を笑ってるんですか?」
すかさず遥香が聞いてくる。
「いや、今日はずいぶん思い切ったなと、今頃になって冷や汗が出てきた」
「そうですか。私にも響きましたよ。あの場にいた全員が、星野さんは大川社長のことを救おうとしていると、感じたんじゃないですか」
それは事実だった。あの時は大川電機の技術者に、最も良い環境を提供する機会を失わせる判断を、大川社長にさせてはいけないの一心だった。しかし、一回り近く違う年下の女性にストレートに褒められるのも気恥ずかしかった。
「まあ、それは上手く行ったからいいとして、長池さんはこんなに優秀なのに、なぜうちの部署を希望したのか、ホントのところをおしえてくれないか?」
ある意味、話題を変えるための質問だった。遥香は私をいたずらっぽく睨んで言った。
「あれ、今日は私が質問する予定だったんですが、先制攻撃ですか? フフ、会社の歴史を研究したいと、面接のとき答えたと思いますが、疑っていますか?」
「うーん、全然ピンと来ないんだ……なぜうちなのか、営業やマーケッティングで事業に関わっている方が向いている気がするんだが。事実営業部時代の成果は高い」
「そう思ってるんですね。これでも自分の野望に従って行動してるんですよ! じゃあ今日は将来像も含めて、全てお話しします。でもこれを聞いたら私の質問にも正直に答えてくださいね」
そう言って、遥香は私の答えを待つようにじっと見つめて来る。遥香はその能力の高さに気後れしなければ、社内でも指折りの美人なだけに見つめられると息苦しい。沈黙を避けるように、「分かった」と思わず答えた。私の返事を聞いて、ニコッと微笑んで遥香が話し始めた。今日の遥香はよく笑う。
「私は当面の目標として広報担当の執行役員になりたいんです」
ずいぶん高い目標に思わず、「広報担当執行役員?」と聞き返した。
「そうです。マーケティングも任されればよりベターかな。まずは経営陣の一員に加わって、その後はやっぱり運があると思ってます」
目標の次元が違う。自分は営業の現役の頃だって、営業部長以上の役職を思い浮かべることはなかった。
「そのためには社史に関する知識は必要なんです。社内外のコミュニケーションいずれにしても、広報戦略上は必須の知識です」
「でもこんな部署だと、出世した者はまずいないよ」
私は本気で心配して尋ねた。
「そう、そこが悩みでした。今までの社史編纂室だと、どうしてもキャリアプランとして選択できなかった」
「じゃあどうして……」
「それは星野さんの存在です。常識を破る若さと、営業部時代の業績が今までと違う何かを期待させます。事実、一昨年は高階社長の窮地を救う活躍をしている」
「あれは梅川さんのお手柄だよ」
思ってもない高評価に、戸惑って否定した。
「いえ、社長は昨年の経営方針会議の全社員へのレビューの場で、はっきりと社史編纂室の価値を述べられ、室長であるあなたを高く評価されていました。私の目指す広報の姿の一部を見た感じです」
「分かった。その話はもう止めよう。長池さんがどうしてここに来たかは理解したから」
私は照れ臭くなって自分から聞いた話を中断した。そんなに期待されるほどの価値がないことは、自分なりによく知っている。
「じゃあ、私から質問してもいいですか?」
遥香は何だか宣戦布告のような雰囲気で質問の許可を求めた。
「もちろん。答えられることなら」
「じゃあ聞きます。星野さんはこの先再婚する気はあるんですか?」
まったく考えてもない質問で、一瞬思考が止まった。
すぐに我に返って現実を振り返る。
今年誕生日がくれば、理央が一四才、沙穂が六歳、沙穂が成人する年には自分は五五才に成る。
「まったく考えてないよ。子供たちがいるし無理だよ」
「あら、そうなんですか! だって星野さん、まだ四十才じゃないですか」
「いや、まだ子供が小さいし、思春期に刺激したくないし……」
遥香はびっくりしたような顔をして言った。
「えっ、星野さんってそんなにお子さんとべったりな関係ですか? 例えば上のお嬢さんとか」
そう言われれば理央とは最近距離が離れている。
「長女に限って言うとそうでもないかな」
私の答えに我が意を得たりという顔をして、遥香は言った。
「当り前ですよ。思春期に親が再婚してぐれるなんて、テレビや小説の世界の話ですよ。しっかり育った子供は、そんなことに動じません。特に女の子は大人になるのが早いから、父親にそういう甘え方はしないものです」
「でも沙穂がいる。まだ六才だよ。今の理央と同じ年になるのに後八年もかかる」
「八年経っても、まだ四八才じゃないですか。正直に告白します。私、星野さんと結婚したいと思ってます」
否定も肯定も、まず言葉が出なかった。
男をからかったりする正確ではないと知っているだけに、余計に混乱した。
思考が定まらぬまま、不意に亮介に妖怪三段腹オジジと呼ばれて、腹をどつかれたのを思い出した。思わず腹を撫でると、確かにかなり肉が溜まっている。
そんな私に対して、遥香は笑顔を絶やさずに言った。
「でもすぐにとか、考えてないですよ。後五、六年ぐらい先の話だと思っています」
「どういうこと?」
「難しい話じゃないんですけど」
十分難しい話だ。遥香から好意を感じたことは一度もない。だから今日だって気軽に二人の飲みを承諾した。
「いや、全然わからないよ。第一、五、六年後の結婚って普通は話さないと思うよ」
「そんなことないですよ。私は目標に向かって妥協したくないし、ただ上に進めば進むほど困難もあるでしょうから、その時に頼りになるパートナーが欲しいと思っても不思議じゃないですよね」
「それは分かるけど、その相手は普通共に進むだけの時間を持っている者じゃないか」
「私は別に年上好きとかそういうわけじゃないんです。大学時代や会社に入りたての頃は、普通に同じ年頃の男性とお付き合いしたこともありました。でも私が将来の希望やキャリアビジョンを話すと始めは受け入れてくれるんですが、話が具体的に成れば成るほどみんな辛そうになって最後には怒り出すんです」
それは男として何となく分かる。付き合おうとする相手が桁違いに凄いと思わず気後れしてしまうものだ。その上遥香と付き合いたいと思うぐらいの男だから自分に自信を持っていることは間違いない。そういう男こそ女性に負けたと思うのは嫌なはずだ。
「まあ、これからはそうでもない相手も現れるんじゃないかな」
「だから星野さんがピッタリなんです。最初は社史を学ぶために異動を希望しましたが、ここに来て働くうちに、星野さんこそ私の求める理想の男性だと気づいたんです」
「どうして……」
そう思うのかと聞きたかったがそう聞くのもまじめに受け止めているみたいで聞けなかった。
「星野さんの能力って能動的なサポート力だと思うんです。相手がうまく形にできてない要求を鮮やかに描いて目的達成に近づけさせる。だから今日も梅川さんが、最後は自分の思いをうまく大川社長に伝えられたんだと思います。結婚したらこの凄い能力が、私のためにほぼ独占状態で発揮してもらえるじゃないですか。これって凄いことです」
「おいおい結婚って仕事のチームを組むのとは違うんだぞ」
遥香の話があまりにも理性的で思わず生臭い話を匂わせてしまった。
「もちろんです。私はそういう男性を愛したいし、愛されたいと思います。もちろん心だけじゃなく躰もです」
生々しい話に成り、急に恥ずかしくなった。遥香の顔が直視できず視線を下にずらすと、アルコールで熱くなったのか、さっきまで留まっていた白いブラウスの第一ボタンが外れている。スレンダーだと思っていた遥香の胸は、予想以上の谷間を見せていた。
急に遥香を女として意識してしまい、この雰囲気から逃れたかった。
「娘の保育園でね、妖怪三段腹おじじと呼ばれて腹をどつかれたんだ。君みたいな綺麗な女性(こ)と結婚するには、まずこの腹をなんとかしないと、周囲が許さないと思うよ」
半分本音で、半分本気で言ったら、遥香はクスッと笑って私の気持ちを察したように、ずれた話に付き合ってくれた。
それからは、互いの家の話や仕事の話をして、九時を回った頃に切り上げた。もうきわどい話はなかったが、遥香の家族の話や学生時代の話を聞いて楽しく過ごした。井の頭線の電車の中で一人に成ると、遥香の言葉がリフレインする。
――私、星野さんと結婚したいと思っています。私はそういう男性を愛したいし、愛されたいと思います。心だけじゃなく躰もです。
帰宅すると既に沙穂は寝ていた。理央はまだ起きていて勉強していた。
「お帰りなさい。この前の保育園のときもそうだけど、飲んで帰ったときは何となく嬉しそうだね」
こういうところも亡くなった妻にそっくりだ。ばつの悪い思いでまじめな顔をすると、さらに追撃が来た。
「なんか気持ち悪い。明日も会社でしょう。しっかりしてよね」
これはたまらんと、アルコールも入っているので、風呂は朝入ることにして、着替えてすぐ寝ることにした。
風を切る感覚が爽快だった。そしてスピード感が脳を痺れさせる。
今、誰もいない白一面の斜面を滑っている。まだこぶもできてない急斜面を、スキーのエッジを上手に立てて自由自在に気持ちよく滑る。私はスキーには自信があった。学生時代には一シーズンに十二回もスキーに行ったことがあった。
それでも少しスピードが出過ぎてるかもしれない。膝のバネを利かしてブレーキを掛けようとするが、うまくいかない。そのままオーバースピードで飛んだ!
スキー板が外れて身体だけ飛んでいき、俯せに落ちた。顔が雪に埋まった。どうやら新雪エリアまで飛んだみたいだ。顔を上げてギョッとした。顔のすぐ横に木の切り株があった。ここに落ちていたら、間違いなく重傷だ。下手したら死んでいる。
幸運にホッとして、前方を見るとブーツが見える。足元の感じからして女性のようだった。照れくささから「飛んじゃいましたね」と言おうとして、顔を上げると、その長い髪の女は鋭い目で自分を見下ろしながら言った。
「死ねば良かったのに!」
恐怖で血が引いていく感覚に包まれながら目が覚めた。全身に冷たい汗が流れている。時計を見るとまだ午前三時だった。ダイニングに行って水を飲むと少しだけ気持ちが落ち着いた。
今の夢は何だったのか考え始めた矢先に耳元に声が聞こえた。(あなた子供たちを守ってね……)驚いて振り返ると新婚の頃に撮った写真があった。その横の壁にはカレンダーがぶら下がっている。今回の案件に夢中になり、暦の感覚が半分なくなっていた。今日は四月十一日か明後日は亡き妻の誕生日だった。ふいに背中をかける薄ら寒い恐怖に気づきもう一度振り返ったがそこには誰もいなかった。
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