第7話 誰がために

「理央、昨日の話だけどどうなった?」

 沙穂を風呂に入れて寝かしつけた後でリビングに戻ると、理央は珍しく部屋に戻らずテレビを観ていた。今日はなんだか機嫌が良さそうなので訊いてみると、理央は笑みを浮かべながら答えてくれた。

「うん、青ちゃんのお手伝いで来ている男子チームのお父さんが、青ちゃんに代わってメグママにぴしっと言ってくれた」

「へー、それでよく納得したな。メグちゃんのお母さんて強いんだろう」

「うん、でもそのお父さんってアメリカ人なんだよ。それでなんとなくメグママも退いちゃって、何も言わなくなっちゃった」

 なるほど、アメリカ人か……それは確かに説得力がある。バスケットというスポーツはアメリカ発祥だし、何よりも成果主義は向こうが本場だ。二重の意味でメグちゃんのお母さんも言葉が封じられたんだろう。

「ところで、昨日の話だけど、もしみんなが辞めた後で、青田先生がしっかりするから戻って来てくれと言ってきたら、どうしたら許す?」

 私は今日の佐山から聞いた話の影響で、どうしてもその答えが知りたくなった。

「うーん、そうだなぁ」

 理央は少し小首を傾げて考えていた。その姿は母親の理沙にそっくりだった。

 私にそっくりな沙穂と違って、理央は母親によく似ている。昔を思い出して、私は思わず胸が熱くなった。

「やっぱり戻れないかな。ユカの心の傷は消えないし、戻ったら今度は私が自分の要求を通すために辞めたみたいになるじゃない」

「そうだよな。でもお前たちが抜けたら、チームは困るだろう。今まで頑張って来たんだし、お前とゆかりちゃんのためにも、戻るのは一つの選択肢だと思うけどな」

 私の言葉に理央は再び考え込んだ。

「そうだなぁ。それならもうこんなことが起こらないようにするためにどうするか、それを青ちゃんが具体的に話して欲しいな。私思ったんだよ。メグママがあんな主張をできることがおかしいんだって。ユカだけじゃなくて、メグだって可哀そうだったし」

「ふーん、そうか。具体的にって、例えばどんなこと?」

「今回バスケを知らないメグママが数字に拘って話をしたから頭にきたんじゃない。フィギュアスケートや体操みたいに、評価項目を決めて、点数で青ちゃんが一人一人を自信を持って評価して、メグママにちゃんと言えば良かったんじゃないかと思うの。ほらバスケってやたら点が入るから、得点に目を奪われがちだけど、サッカーみたいに点の入らないスポーツなら、得点取った人って少ないから他の点を評価されるでしょう。それで新聞とかに六点とか七点とか評価が乗るじゃない。ああいう風に私たちを評価するって言ってくれたら考えるかな」

「なるほど、理央たちはメグママ以上に青田先生に対して腹を立ててたんだ」

「そりゃそうだよ。私たちにずっと教えてくれて尊敬している人が、あんな素人に言いたい放題言われて、そりゃあ腹も立つよ。ユカだってなんで青ちゃんはびしっと言ってくれないんだろうって、イラっとしてたもん」

 何となく日本人は客観的という言葉に弱い。特に私のようなサラリーマンは、それを言われると引いてしまう。でも結局リーダーシップは主観なんだよなと気づかされる気がした。


 翌日私は出社するとすぐに梅川の部屋に行った。梅川は私の顔つきを見て、これは何かを掴んだと察したのか、「どうした」と訊くことなく、自然に話を聞く態勢を取った。

「大川社長の件、当社の開発姿勢がどうのという問題ではありません。むしろ人だからこそ陥る深い闇の中に、聡明な大川社長が落ちてしまっているのが真相です」

 それから私は梅川に昨日佐山と交えた会話を全て伝えた。

「どうすればいいと思う」

 さすがに梅川も通常の手段では、この事態を乗り切れないことに気付いたようだ。

「大川社長の当社(うち)では技術は育たないという言葉は、間違ってはいないと思います。大川電機の社員を受け入れた時、高階社長が提示した特別扱いについて、有永専務は間違いなく反対の立場を取ると思います。その時、高階社長が国内営業と対立してでも、意志を貫く決意が必要です」

 そう言って私は梅川の表情を窺った。梅川は深く考え込んだ。目を閉じたまま、それはひどく長い時間のように感じられた。閉じられた目が開いた時、梅川はさっぱりとした表情で言った。

「俺が責任を取るよ。この会社のトップとして、高階さんは迷ってしまうだろう。何しろ相手は現在の利益の源泉だ。迷いなくこの首をかけて大川さんに約束する。それが俺の役目なんだと思う」

 その言葉を聞いて私は梅川と仕事ができることを誇りに思えた。ならば自分も迷うことはない。

「それならば序盤の説得は、私に話させてもらえませんか?」

「大川社長とか?」

「そうです。大川社長の悲しみは、私が過去に感じたものと同じだと思います。私はそれを二人の娘のために生きることで克服した。大川社長にも同様の存在があります。それを気付かすことができるのは、私だけだと思います」

 その言葉で梅川は何かに気付き、全てを私に託そうと思ったようだ。

「いいだろう。それでは大川社長との会見をセッティングをしよう」

 梅川の承諾に対して、私はさらに注文を出した。

「これを実行する上で、もう一つお願いがあります。うちの長池君を同行させてもらえないでしょうか?」

 これに対しても梅川は理由を聞こうともしなかった。まずは私に任せる。そう決めた以上、細かい方法論に口を挟む気はないようだった。その場で大川電機に電話をかけ、大川社長の秘書にアポを取り、明日の午後訪問することが決まった。


 私は急いでオフィスに戻り、遥香に事の次第と事前資料の準備、及び明日の同行を依頼した。

 すると珍しく遥香が理由を聞いて来た。

「なぜ明日私の同行を求めたのですか?」

 さすがの遥香も、明日自分が同行して、どういう役割を与えられるのか、予測できないようだった。

「私の行動をその目で観察してくれるだけでいい。今話したように、この件は私にとっても不必要に大川社長の気持ちにシンクロしやすい。だからこそ流されるわけにはいかないんだ。君の冷静な視線は、自分を見失わないために私にとって必要なものなんだよ」

 悩むことなく行動する遥香が躊躇していた。何かを言いたそうな表情は始めて見る。しばらく考えて口を開いた。

「分かりました。仕事ですから上司の指示には従います。ただ、うまくいった時は私からのお願いも聞いてもらえませんか?」

「お願い? いいよ、いつもいい仕事をしてくれているし、何をすればいい?」

「うまくいったら、その日二人で話をする時間をください。職場ではなくオフタイムとして。別にお酒の場でなくてもいいです。私の話を聞いてもらえるならどこでもいいです」

 どんな話かは予想できなかったが、私も遥香がなぜこんな部署にいるのか一度聞いてみたかったので迷いなくOKした。

「ありがとうございます。それでは、ベビーシッターが必要だと思いますので、私の信頼できる知り合いを手配します」

 相変わらず冷静で的確だ。「ありがとう」と礼を言って、大川との会見に頭を切り替えた。久しぶりにやる気が体を覆っている。

 二時間後、遥香がキーマンになる彼女の調査資料を作ってくれた。

 名前は坂本舞、入社以来凄まじい成果を上げている。TECGのヒット商品の開発プロジェクトに悉く参加しており、入社が遅いにも関わらず、園田や佐山よりも早い時期に管理職に昇進している。

 遥香が人事から入手してきた入社時の履歴書の写真には、美人ではないが意志が強そうな知的な女性の写真が貼られていた。私の入社以前に退職していたので知らなかったが、当時は社内でも注目の女性だったようだ。

 私の脳内には互いに相手をリスペクトして、精神的に深く結びつく男女の姿が映し出される。その関係はきっと何事にも代えがたい崇高なものだと想像できた。


 その日、帰宅してから二人の娘が眠った後、その寝顔を見ながらこの子たちのために残りの人生を捧げようと誓った日を思い出していた。人が感じる最大の寂しさと不安、そんな時に生きる活力を生み出してくれた娘の存在、全てが今でも鮮明に蘇る。

 大川社長も呪縛から解き放したい。そのために明日は全力を尽くす――そんな使命感が心を高揚させた。

 翌朝、私は緊張した面持ちで出社した。会社に対する責任感ではない。人として大川社長を誤らせたくない、その思いが心を熱くさせる。

 遥香は何も語らず約束の三時に向けて、黙々と今できる仕事をこなしていた。その姿が私に勇気を与えてくれる。

 二時になった。遥香と共に地下駐車場に向かう。すぐに梅川が来て、三人で社用車に乗り込む。今日の会見が最後の交渉になるかもしれないだけに梅川の表情も厳しい。

 車が蒲田にある大川電機の本社に着く。遥香が受付を済ませ、三人は社長室に案内される。そこでは技術に一生を捧げ、TECGへ恨みを持つ大川社長が待っていた。大川社長は日本の経営者らしくない細身の長身で、日本人には珍しい彫りの深い顔と尖った顎が神経質そうな雰囲気を出している。

 元々望まぬ相手とあって、我々を見る目つきに厳しさが滲んでいる。

 最初に、今日の訪問を受け入れてくれた大川社長に、梅川が謝辞を述べ会談は始まったが、すぐに先制攻撃が来た。

「今日はどういったご用向きでしょうか? 営業譲渡の話ならこれ以上進展はないと申し上げたと思いますが」

 取り付く島もない大川社長の拒絶の言葉だった。

 梅川は思わず言葉を返そうとしたが、思いとどまって私を目で促した。

「初めまして、私はTECGで社史編纂室の室長をしている星野敬一郎と申します。実は我々も性急すぎたと反省しております。いきなりビジネスの話をする前に、我々の会社のことを知ってもらいたく、社史を研究を担当している私から、当社の歴史に名を残す一人の優秀な技術者の話をさせていただきます」

 技術者の話と聞いて先程までの突き放すような雰囲気が少し変わった。大川社長は、硬い表情を少しだけ緩め、話を聞く姿勢を示した。

「その技術者は今のTECGでは失われた技術者マインドと、高い技術力を持っていました。それにも増して、高い技術を駆使して新しい製品を作ることに情熱を持っていました」

「そう、最後は情熱が大事だ。それがあれば大抵の障害は乗り越えられる」

 大川社長から初めて満足そうな肯定の言葉が出た。

「実績も素晴らしく、七〇年代後半から九〇年代にかけての当社のヒット商品、全ての開発に何らかの形で関与しています」

「ほう年代的には私と同世代か・・・・・・」

 そう言って、何かを思い出すように遠い目をした。

「先代の高倉将司社長の信頼も厚く、九〇年代に入ってその技術者の提案に基づき、社内の精鋭スタッフを集めたプロジェクトが編成されました。それは単なる製品開発ではなく、将来の高倉電気の事業を創造するようなプロジェクトになるはずでした」

 大川社長は何かに気付いたかのように、私を見る目に再び険しい光を宿し始めた。

「ところが運が悪いことに、プロジェクトが軌道に乗ったところで、世の中全体が経済恐慌に陥った。俗に言うバブルの崩壊です」

 大川社長は何の話か分かったようだ。フゥーと大きくため息をついて、私を手で制し自ら続きを話し始めた。

「財務悪化を心配した高倉電気の経営陣は、製品開発の縮小を打ち出した。そして、そのプロジェクトは打ち切りになった。舞が人生の全てをかけたプロジェクトが・・・・・・」

 大川社長は深い悲しみに沈み、言葉が続かなくなったので、再び私が引き継ぐ。

「そして坂本さんは、高倉にいる意味を見出せなくなり退社しました。ただあきらめたわけではなく、この製品企画を自力で実現しようと有力企業を駆け回ったが、相手にしてくれる会社がなく、最後は絶望して自殺してしまいました」

 大川社長は震えていた。

「なぜ私のところに来てくれなかったんだ。私なら・・・・・・」

 その悲しみと怒りが混ざり合った姿は、まさしく以前の私と同じ姿だった。

 隣で梅川がごくっと唾を飲む。

 私にも大川社長の感情が伝播して、あのときの悲しみと怒りが蘇り、思わず気持ちは分かります、と叫んでしまいそうになった。

 私は上を向いて、次に隣の遥香の顔を見た。

 遥香の目はいつもと違い優しさが宿っていた。

 彼女の目を見ていると、踏ん張れ、がんばれ、あなたならやれると、応援する声が聞こえるように感じた。

「大川電気では無理でした。坂本さんが目指した姿を実現するには、当時の通信技術の劇的な改善が必要だった。彼女は送受信の対象に映像も視野に入れていた。大川電気はデバイスメーカーで、こうした分野の技術リソースはない」

「それでも資金提供ならできた」

「大川社長、ご自身も分かっているはずだ。いくらオーナー会社と言えども、株式会社である以上、当時の景況感でそうした投資は株主が許さないことを」

 大川社長はじっと私の顔を見つめながら、「なぜ今この話を私にする?」と聞いた。

「理由は二つあります。一つはこちらの写真を見てください」

 その写真には実験室と思われる部屋の中で、坂本舞の両隣に園田と佐山が並んで写っていた。三人とも会心の笑みを浮かべている。佐山に至ってはガッツポーズを取っていた。

 大川社長はその写真を手に取って愛おしむ様な目で見つめ続けた。私には大川社長の頭の中に四人の学生時代の思い出が駆け巡っているように思えた。

「裏も見てもらえますか」

 私の言葉に促されて、大川社長が名残惜しそうに写真を裏返す。そこには『第三フェーズ完了1992年11月10日』と記されていた。

「私は大川社長がなぜ当社に不信を抱くのかを調べるうちに、園田さんと佐山さんに出会いました。最初に園田さんにお会いした時、園田さんは私の話からすぐに坂本さんの話だとピンと来たそうです。だが園田さんはその時はある意図から、坂本さんの話を一切しませんでした」

「ある意図とは?」

「園田さんは現在の多くの日本の製造業が抱える開発体制の問題について憂いていました。坂本さんの話をすると、その話だけがクローズアップされ、その根底にある問題は触れられなくなると危惧したわけです」

「開発体制の問題と言うと?」

「これは日刊製造業に大川社長が寄稿された記事です。これと同じ思いをお二人ともお持ちでした。坂本さんの話はこの深刻な問題の中の一つに過ぎないと言われていました」

 大川社長は懐かし気に記事のコピーを手に取ったが、すぐに悲しそうな表情に変わった。

「こんな記事を書いても、世の中には大した影響は与えない」

「その通りです。園田さんは私が来訪した後、佐山さんに電話で相談してこの問題の解決のために、私に坂本さんの話をしようと決められたそうです」

 ここで言葉を止めて大川社長の表情を確認した。坂本舞の話を利用すると言っても、不快そうな風ではなかった。横目で見た梅川の顔には厳しさが浮かんでいたが、遥香は特に感情を表さず背筋をピンと張って大川社長を見ていた。

「昨日私がもう一度話を聞こうと思い、園田さんに電話するとお二人が揃って来社されました。そしてこの写真と、このプロジェクトに携わった若手の何人かは、まだTECGに残っていることを教えてくれました。彼らの多くは皆管理職になって第一線からは退いていますが、坂本さんの遺志は次の世代そしてその次の世代に引き継がれているそうです」

「舞の遺志」

「そうです、坂本さんの遺志です。彼女の製品開発にかける情熱と未来を描く考え方は、確実にうちの技術者の中に引き継がれているのです」

「だが実際の事業路線は短期開発と営業力を活かした販売戦略が主流ではないか」

 さすがに一社を率いてるだけあって、大川のTECGに対する事業分析は鋭かった。

「それは営業サイドの評価が技術に影響しているからです。今のTECGでは営業担当の有永専務の意志が評価に大きく影響します」

「やはり有永か、あの男がいる限りTECGに本当の技術者は育たない」

 大川社長はそう言い切って、少しホッとした顔をした。私がにらんだ通り拒否する真の理由はここではない。だがまずはこの問題を解決しなければ。梅川を見て目で促した。

「私から会社としてのお約束をします。これは社長の高階にも確約をとれた話です。営業譲渡によって移籍した部隊の評価アドバイザーとして、大川社長に社外取締役として経営参加していただきます。そしてゆくゆくはTECG全体の技術者の評価まで加わっていただく。これは六月の株主総会の議題として提出する予定です。」

「私には大川電機の社長業務がある」

「もちろんその負荷を軽減するために、今後御社との取引も始めさせていただきます。その中で経営負担を軽減できるような優秀な人間を御社に提供します」

「それには有永が反発するのではないか?」

「その可能性は否定できません。それは当社のトップの意志として抑えていきます。技術者の評価について大川社長に誰も干渉できないように、高階と私は首をかけます。同席している星野君は社史編纂室長として、社内報に社史を紹介するコーナーを持っています。今後しばらくはこのコーナーで坂本舞さんの失われたプロジェクトの可能性を掲載してもらいます。その最後で失われた技術開発の再生を大川社長に託し、その成否に高階と私が進退をかけると書いてもらいます」

「昨日、園田さんと佐川さんに会ったときに、この特集に協力していただくことに了解を得ました。私はこの特集の執筆にあたって、大川社長にも協力いただきたいと考えています」

「そんなことをしたら、君たちは有永から敵対者として見られ、もしこの営業譲渡が失敗したら、舞のように会社を追われることになるぞ」

「私は覚悟の上です。私が前線に立って進めることにより、全責任を私が負い、他の者に塁が及ぶことは阻止します」

 大川社長の表情は複雑に揺れ動いていた。悩んでいる心がそのまま表情に出ている。しばらく考えた末、大川社長の口が開いた。

「素晴らしい決断だと思います。戦略もしっかりしている。御社が動けば日本の技術開発に与える影響も少なくないと思う。だが、お断りします。私は御社とだけは共に歩むことはできません」

 大川社長はさっぱりとした表情でそう告げた。そう言う気がしていた。横で梅川ががっくりと項垂れている。もはや打つ手がないという風だ。しかし、遥香の表情は一切の乱れはなかった。私の話の続きを待つように真っ直ぐに大川社長を見ている。やはり遥香に同行してもらって正解だった。彼女の私への信頼が、大川社長の強固な態度に挫けそうな心を奮い立たせた。

「では、」

 梅川が敗北宣言を告げようとして口を開きかけた時、私はその言葉を押しとどめるように口を挟んだ。

「私はこの年で社史編纂室長をやっていますが、元はバリバリの営業マンでした」

 私の突然始めた身の上話に、大川社長と梅川は虚を突かれたような顔をしたが、とりあえず聞こうという姿勢を見せてくれた。

「ある日私の妻は事件で命を奪われました。次女が生まれたばかりだった。これから家族四人で幸せな日々を送れる期待で、絶頂になっていたときに地獄に叩き落されました。私の心の中は、妻を失った悲しみから、犯人に対する復讐の思いしかなかった。復讐できれば自分の人生などどうでもいいとさえ思った」

 私の告白に大川社長は軽い驚きの表情を浮かべた。事情を知ってる梅川もどう反応していいか分からずにいる。

「だが私にはその決意を翻す存在があったのです。それは妻が残してくれた二人の娘でした。二人を育てることこそ最優先すべきことだと考え、犯人に対する憎しみは横に置きました。そしてどうしたら子育てをしながら会社に残れるかそれだけを考え、今までのキャリアさえ捨て去りました」

 深刻な話の内容に大川社長は言葉が出ない様子だった。

「大川社長は坂本さんを失った悲しみから、当社のことを激しく憎んだはずです。人間とはそうやって、大きな悲しみを乗り越えるものだと思っています。そしてその気持ちが当社に対する不信感として、心の中に残ってしまったと思います」

「そうかもしれない。あなたたちの提案を聞いても、私はどうしても高倉電気を信用することができない。舞への思いがそれを許さないのは確かだ」

 それは、そうだろう。自分だって全てを捨てて犯人を殺してやりたいと思った。

「大川社長、私はあなたの気持ちが理解できます。しかし、あなたは自分の気持ちに飲み込まれて、一番大切なことを忘れているように思います」

「一番大切なこと?」

「私は子供たちのことを考えることによって、憎む気持ちを抑えることができました。大川社長もそうなんじゃないですか?」

 独身の大川社長は怪訝な顔をして、「私には子供はいないが」と言った。

「いるじゃないですか。今回営業譲渡の対象になっている技術者たち、あなたが手塩に掛けて育てた子供たちが。考えてみてください。今、彼らに一番良い環境を提供できるのは間違いなく当社です。そもそも営業譲渡するのも、彼らが開発した技術を活かせるだけの資本力が無いと、判断したからでしょう。彼らの成果に大輪の花を咲かせたかったわけだ。それをあなたの個人的な感情で失わせてもいいんですか?」

 大川社長は私の言葉に反論してこなかった。目を伏せてじっと考え込んだ。私たちは今度こそ最終結論になると固唾を飲んで大川社長の言葉を待った。

「舞はいつも日本を世界でトップレベルの技術立国にしたいと言っていた。そして自分がその一員として貢献したいと。その理想は園田や佐山と一緒に私たち四人の間の絆に変わっていった。舞が亡くなった後も、私は私こそ彼女の理想を実現するのだと、必死になって技術者育成に励んだつもりだ。だが、それは直接経営にはつながらない。私は止む無く手塩にかけた技術者の一部を、他社に託す決断をした。舞から夢を取り上げて、違う方針で順調に業績を伸ばすTECGには彼らを渡したくない。いや渡したくなかった」

 心の底から絞り出すような告白だった。

 私はここだと信じた。

「園田さんと佐川さんも同じ思いだったようです。TECGだけじゃなく他の大手企業がどんどん技術者の仕事に制約をつける中で、会社とも折り合いをつけながら、坂本さんが理想とした技術開発の芽を育てていたそうです。そこで今度の話が来た。彼らは引退したにも関わらず重い腰を上げようとしてくれています。TECGが変われば他の企業も追随します。日本は失われた十年の中で本当に世界に取り残されてしまいました。あれから二十年経ちますが、イノベーションの光は再生した米国や新興の中国に降り注ぎ、日本には差し込む気配はない。だが基礎研究は充実しています。最近のノーベル賞ラッシュがそれを物語っている。バブル崩壊時に一企業のくだらない権力争いで、日本を代表する技術者に成れた坂本さんを失ってしまいましたが、経営者の決意一つで再生する可能性は十分あると信じています」

 大川社長は賛否は表さず、じっと机の一点を見つめていた。やはり国内屈指の強烈な営業軍団のドン、有永真治の存在が頭から離れないのだろう。

「私が押さえます。社内のどんな横槍も跳ね返すためにサラリーマン人生を賭けます。星野君の社内報の第一弾の最後に私の署名を入れて坂本さんと日本に謝罪をします」

 梅川はもの凄いエネルギーを絞り出していた。一流の経営者が本気になった時の凄味を、私は間近で見る思いがした。

 大川社長の目が泳いだ。じっと梅川を見つめていた。そして穏やかな表情に戻って笑顔を向けた。

「星野さん、あなたの言う通りうちの技術者は私と舞の子供だ。梅川さん、あなたに彼らの未来を託します」

 不思議な感動が心の中を駆け巡った。いつもクールな遥香の顔も、心なしか綻んでいる気がする。

「大川社長、ありがとうございます。それでは早速社に帰って、高階社長と担当部門に事の次第を報告し、手続きを始めるようにします。任せていただき、責任感で身が震える思いです」

 本当に梅川の身体は震えているように見えた。

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