第5話 大切なもの
翌朝沙穂を送って出社すると、いつものように遥香が先に来て、もう仕事にとりかかっていた。沙穂を保育園に送ると、どうしても九時ギリギリになる。悪いと思っても遥香より早く出社してスタンバイするのは無理だ。
「今日は昨日の続きをしますか? 特に指示が無ければ資料整理を続けますが」
遥香から指示を催促された。昨日のできごとを思い出し、大川社長と同窓の社員の調査をお願いした。いつものように理由は詮索せず、淡々と調査が始まる。
今度は検索対象が絞られているので、ほぼ三十分で資料がまとまった。その資料によると、大川社長と同じ東京工業大学から昭和四五年に入社した者は二人いた。
一人はプラズマテレビの開発部署の部長を経て、十二年前に定年退職した園田順平という男で、経歴を見る限り順調なキャリアで不遇とは考えにくい。
もう一人は佐山敏夫という名で、無線開発部の課長を経て、十六年前に子会社の高倉無線に転籍している。遥香が電話で確認したところ、七年前に退職しているらしい。恵まれてはないが不遇とも言えない。
二人の記録を見て特に気になる点はなかったが、人の気持ちは何が潜んでいるのか分からないので会ってみることにした。
最初に園田に電話すると本人が出た。今日は特に予定がないと言うことなので、二時に訪問の約束を取って電話を切った。
次に佐山に電話すると留守電だった。名前と身分と連絡先を告げて携帯に電話をいただきたいとお願いした。電話がなければ夜にもう一度こちらからかけてみよう。
園田の住所を調べるとさいたま市浦和区だった。最寄り駅は北浦和になる。六時のお迎えに間に合うためには、五時前に電車に乗れば大丈夫だ。一方佐山の住所は千葉市花見川区、最寄り駅はJR総武線の新検見川だ。こちらは四時半には電車に乗る必要がある。北浦和から新検見川に向かうとすると、電車の時間だけでも一時間四十分はかかる。
今日中に両家に訪問するのは時間的に難しいので、佐山は連絡がついても明日訪問することにした。昼食は北浦和で取ることにして、遥香に「行ってきます」と告げて、オフィスを後にする。
エレベーターが一二階で止まり、長澤が乗り込んできた。私の顔を見て、細い顎をクイッと上げた。眼鏡の中の目はいつにも増して細く鋭かった。
「昨日、梅川さんと何を話してたんだ」
挨拶もなく不審者を尋問するように、低く鋭い声が分厚い唇から発せられ、エレベーターの中に響いた。
「特に変わった話ではないよ。来月のイントラサイトに載せる社史コーナーの企画についての報告だ」
長澤はその言葉の真偽を見極めるかのように、黙って私の目を見ていたがもう一度質問してきた。
「どうしてあんな場所で話さなければならない」
「本当は今日話す予定だったが、たまたまエントランスで会ったから済ませてしまった。ほら梅川さんはなかなか捉まらないから」
長い付き合いゆえに、躊躇なくすらすら答えても私を信用したとは思えないが、問答は無駄だと思ったのか、長澤の顔から少しだけ目の鋭さが消え、普通に同期入社の顔に戻った。その顔を見て不意に質問したい強い思いが沸き上がった。
「長澤、お前今のうちの製品開発に関してどう思う?」
私の唐突な問いに、長澤はオヤッという顔で眉根に皺を寄せ、逆に聞いて来た。
「どういう意味だ。社史編纂室長のお前に聞かれる話題ではないと思うが」
「元営業としてだよ。何となく最近のうちの製品は簡単に予想できるような物が多い気がして、売りにくくないかと思ったんだ」
笑いながら答える私に、長澤はひどく顔を曇らせた。
「それでいいんだと、有永専務なら言うだろう」
「では、お前はそう思ってないのか?」
私の再度の問いかけに長澤は答えず黙った。私は構わず質問を続けた。
「このままじゃあ市場を独占するような商品は、もう出てこないんじゃないか?」
「だからそれでいいんだ。音楽業界で例えれば、十万枚のヒット曲を年間四回コンスタントに出す方が、百万枚を三年に一曲だけというやり方より経営は安定する。短いサイクルでも確実に稼ぐことが大事だ」
「ホントにそうなのか? それでは新しい市場のパイオニアとしての利を失するんじゃないか?」
有永の右腕とは言え、長澤の営業センスは一流だ。渋面に成りながら、それでも答えてくれた。
「難しい問題だな。だが技術が確率の悪いやり方をして一年間何も出なかったら、営業としては何の手も打てなくなる。大量の営業員が職を失うぞ。それにキャッシュフローの問題もある。膨大な研究費をつぎ込んでも、商品が出ずにキャッシュアウトしたらいかにTECGでも簡単に潰れるぞ」
「しかしグローバルに見れば、そんな製品では勝ち抜けないだろう?」
「米国や欧州ではそうかもしれない。それでも気にすることはない。これから成長する市場はアジアだ。それに国内ブランドは健在だ。そっちで勝負すればいい」
「……」
「それとも、もう一度営業に戻ってきて、お前が新規事業を仕切ってくれるのか?」
エレベーターが一階に着いたので会話を打ち切ったが、何となく納得できない思いが心に燻った。長澤の主張は詭弁だ。インターネットの普及を考えると、むしろアジアの方が条件が厳しいことは明白だ。
問題は長澤ほどの男がこんな言い訳のような答えをしなければならない立場にあることだ。有永はまだ社長になる野望を捨てきれずにいる。その思いが実績の低下するリスクを許さず、部下に窮屈な思いをさせているのかもしれない。
長澤は真剣に悩んでいるのだろう。だからこそ思わず私に営業復帰を持ち掛けた気がする。彼なりに今のままではグローバル化に行き詰まると憂いているのかもしれない。
営業トップである有永は、いざとなれば儲からない海外市場は縮小または撤退し、利益率のいい国内だけで稼げばいいと思っているのではないか。そういう疑問が湧いて来る。
それはグローバル企業として、日本で唯一な存在になろうとしている高階の方針と相対する考え方だ。 高階と社長の座を争って敗れた有永にとって、確実に社長になるにはそれが一番近道で分かりやすい。
ただしそれではバブル崩壊後、日本の多くの電機メーカーが向かっている国内偏重路線と大差ない。円の高騰と東アジアのライバルがしかける価格競争を、内に籠ることで避ける姿勢は二〇二〇年と節目の年の方針としては何とも頼りなく感じる。
自分とは無縁な経営の話ではあるが、大企業であっても最後は個人の業がその行方を左右していることに背筋が寒い思いがした。
秋葉原で京浜東北線に乗り換えると、約四○分で北浦和に着いた。まだ約束の時間まで余裕があるので、昼食を取るために駅前のごはん屋に入る。たくさんあるメニューから炭火焼鳥の親子丼を選んだ。食べながら頭を切り替え、園田順平の在籍した頃の会社の状況を考える。
彼らの入社した時代は、佐藤栄作が首相を務め、大阪では八一ヵ国が参加した万国博覧会が開かれた。それはその前年米国のアポロ一一号が有人月面着陸に成功し、科学技術に人類の夢が最高に盛り上がった中での開催だった。このような時代を背景に電機業界は、次々に新製品を開発し人々の暮らしを豊かにした。
大川社長や園田順平はこんな時代に、社会に飛び立って行ったのだ。TECG、当時の高倉電機も順調に業績を伸ばした。売上高は一兆円を突破し、七○年代後半のビデオ戦争に勝利した後は、世界の優良企業を目指して邁進した。
翳りが見えるのは九〇年代からだ。失われた十年の例に漏れず、TECGでも大胆なリストラが断行され、新規採用が抑制された。ちょうど大川や園田が管理職として自分たちの時代を創ろうとした時期だ。
全ての企業が構造改革を行い、しぶとく復活に向かって歩んでいく。それは時代の要請であり、TECGだけが取り立てて酷いことをしたわけではない。むしろ雇用を守るために最善の手を尽くした方だろう。リストラが大川社長の嫌悪を引き出したとは思えない。
昼食を終え、北浦和の商店街を抜け、閑静な住宅街を浦和高校に向かって歩く。園田の自宅は高校の近くの品の良い門構えの二階建てだった。敷地は三十坪といったところか。小さいが庭も有り悠々自適な老後を連想させた。
「TECGから人が訪ねて来るなんて驚いたよ。退職してからは、会社の人間との付き合いは年を追う毎に減ってゆき、最近は年賀状以外連絡を取ることもなかったからね」
私を客間に案内し、園田は自分で入れたお茶を出してこう切り出した。やはり懐かしいのか嫌なムードではない。
「私も昔は鬼軍曹などと呼ばれた猛烈サラリーマンだったが、今はこの通り女房と一緒にカルチャースクールに通うようなじいさんになってしまった」
自分を卑下して笑う園田は確かに少し太り気味で、真ん丸になってしまった顔には、鬼軍曹の面影は微塵もない。
「お騒がせして申し訳ありません。私は名刺の肩書にある通り、社史の研究をしてまして、こうやって昔のTECGの話をOBの方から直接聞いたりしてます」
「いや知ってるよ。私も一昨年旧本社ビルで君の公演を聞いときに、若いのになかなかやるもんだと、感心したから」
自分が意外と有名人であることに驚いたが、今回はその知名度も利用させてもらおう。
「お恥ずかしい限りです。社歴の浅さから話せるネタも限りがありまして、こうやってOBの方を訪問するのも、それを補うためなんです。私は営業出身なので、特に技術開発の現場についてはよく知らないことが多く、こういう機会をありがたく感じています。先日もある会合で、大川電機の社員の方と話す機会があり、なんと社長の大川さんは当社のことを、技術が育たない会社だと嫌っていると聞きました。なんかそういうエピソードが過去にあったのかと興味を持ったので、大川社長の大学の同級生だった園田さんをお尋ねした次第です」
「はは、そういうことか」
園田は何かに納得したように特にそれ以上聞くこともなく、自分で入れたお茶を一口飲んで思案顔を見せた。
「大川君とは卒業して以来、同窓会で一度会ったきりだから、特に思い当たるようなことはないな。彼は学生時代から熱い男で、研究も遊びも常にみんなを引っ張っていた記憶がある。一年生の時の学祭も彼がリーダーだった」
園田は懐かしそうな顔で学生時代の友を思い出している。やはり大川社長は依里ちゃんパパの言う通り人格的には優れた人のようだ。
「では質問を変えて、園田さんが会社生活を振り返って嫌だと思ったことはないですか?」
誰しも会社人生の中で嫌な思い出はあるものだが、それを聞くのは勇気がいる。中には思い出したくなくて怒りだす者もいるからだ。
「そうだねぇ。やはりバブルが崩壊してリストラが始まったときかな」
私の遠慮がちな気持ちに反して、園田は積極的に話し出した。
「何しろそれまでは会社がどんどん成長していたから、とにかく会社のために一生懸命頑張れば、最後に会社が報いてくれるとみんなが信じていた。もう一生高倉の社員として尽くしていこうと誰もが思っていたよ」
「なるほど。それが一転するわけですね」
「そう、その通りだ。私は当時本部長直下の部署で企画課長をしていたので、本部長が私より年配の課長に対して、退職を勧告する場面に何度も同席させられた。みんな怒ると言うより戸惑ってたね。年を取っても会社が大切にしてくれると信じて、若い時はサービス残業も厭わず会社のために頑張っていただけにね」
「私は時代が違うので想像するしかないですが、信じていた会社に去ってくれと言われて、寂しいとか悔しいとか思ったんじゃないかと思います」
「泣いてる人もいたな。なんだか惚れて尽くした女にサヨナラと言われたようだった」
「しかし、その当時は全ての日本企業がそれを経験しました」
「そうなんだよ。それ以来日本企業は変わったな。社員も会社で偉くなることよりも、業界で認められる技術やキャリアを積むことに熱心になった」
「転職や中途入社も増えましたね」
「それはそんなに悪いことではなかった。私は幸か不幸か高倉だけでサラリーマン人生を終えたが、転職先で大きく飛躍した者もいたし、新たに入社して来た者の高い技術力と、全く異なる技術感に影響されたこともあった」
「その意味では全てが悪かったわけではないのですね」
「まあ、高倉は退職金を積み増したり、必ず転職先を世話していたから世間で言うほど途方に暮れる者は少なかったと思う」
なるほど。それならばリストラに関して、大川社長が嫌う理由はないだろう。大川電機だって同じことはしたはずだ。
「ただやり難くなったのは、開発に対する考え方が変わったことかな」
「と、言いますと」
「製品開発の見切りが非常に早くなったんだよ」
製品開発の見切り? 聞いたことのない言葉だった。園田はそれまでのにこやかな表情から一転して、少し悲しそうな表情を見せた。
「当時の開発部門内で流行った言葉だけどね。私が入社した頃の高倉電機は、技術者に優しい会社だった。開発テーマは割と自由に決めれたし、実績のある技術者にはあまりグダグダ言わずに、ポンと開発費を出してくれたもんだ」
今は、開発テーマは市場調査やコスト目標など、いくつもの資料を作り、経営者による製品開発会議の承認を得ないと開発することができない。
「まあ、開発テーマの選定が厳しくなったこと自体は、技術者も経営者目線を持つためには必要だったかもしれないが、決まったテーマに対し、結果を求める時間が極端に短くなったことには、正直に言って戸惑ったよ。これは決していいことではなかった」
成程、それが見切りという言葉になったのか。
「具体的にはどんな弊害があったのですか?」
「会社の看板になるような製品が出なくなったんだよ。独創性の高い商品は、スタート時はゼロから始まるから、開発にある程度の時間が必要になる。絶対製品化できるとも言い難い。だからリスクを避けて選ばれなくなる。そうなると大ヒットは生まれないから、数を出すために開発に許される期間がどんどん短くなる。負の連鎖ですな」
確かに日本企業全般において、過っての時代を代表するような製品が、出なくなってきているのは事実だ。その役目は再びアメリカに譲った感が強い。
「特に成果主義と題して、半期の成果で評価が行われるようになって、ガタガタになったかな」
「成果主義自体は公平で平等な制度だと思いますが……」
「うーん営業なんかはそれでいいけどね。技術者は違う」
「では技術者はどうやって評価するんですか?」
「それは凄い人がこいつは凄いと評価するしかない」
――驚いた。そういう客観性の欠如を嫌って今の制度にしたはずだが……。
「別にえこひいきとかじゃないよ。まあたまにはあるが」
そう言って、園田は楽しそうに笑った。
「技術者の間では、凄い奴は分かるんだよ。誰もがそれは何となく感じている。そしてもの凄い技術者は、より正確に凄い奴を評価できる。そういう奴に開発を任せるんだよ。結果は問わず」
「それでも企業である以上、結果が出るまで評価されませんよ」
「いいんだよ、技術者はそれで。雇用だけ確保して結果が出るまではみんな平均的な賃金。結果が出たらドカンと支給。それでいいんだよ」
「それだと食っていければいいやと、会社に寄生して頑張らない社員が出て来ませんか?」
「営業的な発想だな。技術者は名誉と興味で動く生き物だ。言い換えればそういう技術者に育てないといけない。組織の作り方が他とは違うんだよ」
――うーん、面白い。
これはこれで興味深い話だった。確かに成果主義は一律的な面がある。当時の人事のスローガンは公平・公正・納得だった。
だが直観は、これは大川社長がTECGを嫌う理由とは違うと告げている。
「大川電機はそうしてるようだよ。大川さん自身がもの凄い技術者だから。まあ、と言ってもこれがTECGを嫌う理由ではないだろうけど」
「園田さん自身はそれで開発を中断されたとかありましたか?」
園田は笑いながら、「私はなかったなぁ。そんなに凄くなかったんで。普通のテーマをコツコツ結果に結びつけた感じかな。正直、私なんかが部長になっちゃいけなかったんだろうけどね」と言った。
「ああ、そうだ。中には自分の開発テーマに固執して会社を辞めた人もいたな。名前は忘れたけど」
「信念の強い人もいるんですね」
私は営業時代に新規事業の立ち上げを巡って経営サイドと攻防したことを思い出した。
その時はいい方向に結論が出たが、もしうまくいかなくて断念することになっても退職までは考えなかった。技術者の開発にかける思いの深さにただただ驚くばかりだ。
「今日はありがとうございました。いろいろ興味深い話を聞かせてもらって、参考になりました」
直接的な成果は得られなかったが、思いの外話が弾んで得ることは多かった。お礼を言って帰ろうとしたとき、園田がびっくりするようなことを囁いた。
「TECGは大川電機を買うのか?」
私は狼狽して、「いや、そんな話は知りませんが」と即座に否定した。
「いやいや、そんな話は言えないわな。すまないね、つまらない話をしちゃった」
ここに来て漸くこの園田という人が好さそうな老人が、とんでもない曲者だと気づく。そして今回に限らず、もっと親交を深めればいろいろなことを教えてくれそうな予感がした。
「またお邪魔しますね。これを機にいろいろ教えてください」
「いらぬお世話だけど、一昨年に見たときより、だいぶお腹周りに貫禄がついてきてるね。本社に引っ込んでないで、たまには私のような爺いの相手をしてくださいよ」
痛いところ一突きして、園田はまた好々爺の顔に戻った。私は思わずお腹に手を当てて、苦笑いしてしまった。
外に出て北浦和駅に向かう途中で時計を見ると、既に四時を回っていた。今から帰社しても五時になる。遥香に「直帰します」と電話して、まっすぐに自宅に向かう。急ぎの仕事が存在しない閑職はこういう時に便利だ。
吉祥寺に着くと、佐山から電話があった。やはり再就職していて、今職場から戻って来たようだ。週三日程度の勤務らしく、明日は休みだと言うので、今日と同じように二時にアポを取って電話を切った。
いつもより早く保育園に着くと沙穂はなかなか帰ろうとしなかった。依里ちゃんとのレゴを使った家づくりに夢中になっている。その愛らしさに、しばし声をかけるのを戸惑ってしまう。普段より早い時間に来たので、いつもより余裕もあった。
「昨日はありがとうございました。星野さんと初めて飲み会でご一緒させてもらって嬉しかったです」
亜紀が傍に来て昨日の礼を言った。気のせいか今日はいつもより綺麗な気がする。
「いや、私も保育園関係の飲み会は初めて参加したんですが、いいものですね。下田先生も来られたので、楽しさも倍増でした」
少し照れながらも、抜け抜けと好意を示した。
「またご一緒させてください」
亜紀は気のせいかもしれないが嬉しそうに見えた。
私も一挙に嬉しさがこみあげてきて、「喜んで」と答えていた。
突然お腹に衝撃が来た。男の子が突っ込んで来たのだ。
「妖怪三段腹オジジに攻撃!」
隆介だった。周囲がどっと笑った。沙穂も笑ってる。亜紀も笑いを堪えながら、隆介に注意している。隆介だけは目が真剣(まじ)だった。
その目を見て、急に浮かれている自分が恥ずかしくなった。私はおじさんなのだ。
顔を赤くして苦笑いしていると、沙穂がようやく帰りそうな気配を見せたので、急いで近づいた。「帰ろうか」と声をかけると、快く承諾してくれたので、いそいそと荷物を纏めて帰り支度をする。保育園を出るのが妙に速足に成る。自転車のペダルもいつもより速く回している。
家に着くとまだ理央は帰っていなかった。急いで食事の支度をして理央を待つ。ふとテレビを見ている沙穂を横目に、今日の園田の言葉を思い出した。
――成果主義と技術者の仕事の相性の悪さ。
考えてもなかった問題は聞いた時よりも後からじわじわと頭の中に広がっていく。
TECGの技術者が吊り天井が落ちてくる部屋で仕事をしている姿が頭に浮かんだ。誰もが余裕なく焦りや恐怖と闘いながら仕事をしている。なんとなくだが園田の言葉が理解できるような気がした。
りんごが落ちるのを見て万有引力を導いたニュートン、ある朝目覚めると実験に使った珪藻土にニトログリセリンが染み込んでいるのを見てダイナマイトを発明したノーベル、ブドウ球菌の培養中にカビの胞子がブドウ球菌を溶解するのを見てペニシリンを発見したフレミング、時代を代表する科学的成果はいつも偶然と好奇心の相互作用を示すエピソードに満ちている。
これらが生まれた背景には何か『余裕』という言葉の存在が感じられる。それはノルマと時間に管理された現代の日本の製造業とは対称的な概念だ。技術管理の奥深さと面白さを体感した気分だった。
それと凄い奴は凄い奴にしか評価できない。ここではむしろ評価というより発掘に近いかもしれないが、現代の人事管理の常識を覆した気がして小気味よかった。
ふと管理職に成りたての頃に聞いた人事担当の話を思い出す。
「私が技術部門の評定会議に参加した時に、成績上位者の序列の根拠がよく分からなかったんですよね。それでB君はなぜA君より序列が上なんですかと聞いたら、BはAより凄いと言うんです」
その時の人事担当はここまで言って言葉を切って、落ちの前の間を作った。
「じゃあC君はB君よりなぜ序列が上なんですかと聞いたら、CはBよりもっと凄いと言われました」
そこまで聞いた時、会場にいた新人幹部社員はどっと笑った。私も笑ってた気がする。話はここから成果主義の賛美に入った。私も当時はその考え方に納得した。
だが、よく考えてみるとこの話は技術に疎い人事担当が話すから笑えるのであって、実績のある誰もが認める真の技術者が言えば、周囲はそれなりに納得し感心するだろう。
そしてどう凄いのか知りたくなって言われた者の仕事に注目し、技術情報にも詳しくなりそれなりに技術者を見る目ができてくるのだろう。
それでも新しい時代を担う技術者は、理解できないだろうが。
増してやその場の人事担当に、なぜ凄いと思ったのか技術の深い話をしても分かるわけないのだ。
それでも人事担当は、もっと分かりやすく話さないと、あなたの管理能力を疑われますよと、評価者を脅しにかかる。いかにもありそうな話だ。
おかしなことに人事の叫ぶ公平性、公正性、納得性の評価の三原則は、こと技術者に限っては、説明責任を評価者に一方的に押し付けているだけのような気がする。
価値を生み出す方が苦労をして、その本質が分からない方が胸を張る。だが本当に会社の業績に貢献するのは前者であることは間違いないのだが……
「焦げてるよ」
いつの間にか帰宅した理央が、頭の中は人事への疑問でいっぱいになっている私に声をかける。手元には黒焦げになった野菜炒めが、フライパンの中で煙を上げていた。
「いったいどうしたの? ボーっとして」
「悪い、悪い」
理央が私からフライパンを取り上げて、上の焦げてない部分をより分けて皿に入れる。
「こっちはやるからお父さんは豆腐でも切って」
理央の指示に素直に従い、冷奴と冷凍ギョーザをチンしたものを、メニューに加える。
考え事をしながらの料理は調子が狂う。
食卓についてから、理央の機嫌が良くない。
「料理を焦がしちゃって、怒ってるのか」
自分のミスなので恐る恐るご機嫌を窺う。
「そんなの気にしてないよ」
理央が突き放すように答える。やっぱり機嫌が悪そうだ。
「ネネ、怖ーい」
沙穂が無邪気に理央の怒りを指摘し、情けないがそれに乗っかる。
「やっぱり、怒ってるぞ」
「料理のことじゃないから」
「じゃあ、何かあったのか。話してみなよ」
私が促すと、理央もモヤモヤしていたのか、口を開き始めた。
「バスケのことなんだけど、親の口出しがうざいんだよね」
「ウザイ!」
すかさず沙穂が口真似する。
「スタメン選びでさ、メグママがメグが不当に評価されてるって、うちの顧問の青ちゃんに言ったらしいんだ」
メグちゃんは理央の同級生でそこそこ背が高いけど、少し気弱な感じの子だ。
「メグちゃんはそんなに下手じゃないだろう」
「そうでもなくてさ。確かにメグは点は取れるけど、運べないし強いパスは弾くし、何より守れないから、他の子の負担が半端じゃないんだよね」
「それなら理由ははっきりしてるじゃないか」
「でもね数値に表れない評価は主観だから公平性に欠けるって言うんだよ。評価は客観的じゃないといけないって」
何やら会社のような評価論が飛び出してきた。
「それでね。この前の練習試合でメグをスタメンで使ったんだよ。相手は今年二回やって二回とも勝ってるところだから、試す意味でね。でもぼろ負け。さすがにメグママも分かったと思ったんだよね」
「それは分かりやすいな」
だが理央は更に鼻息を荒くした。
「メグママは今日得点数を表にして、メグが三番目に点を取ってるから結果を出した、とか言うんだよね」
「青田先生は何て言ったんだ」
「バスケの評価は得点だけじゃないって」
そこは理央も納得いった感じだった。
「ならいいじゃないか」
私が安堵してそう言うと、またもや理央は興奮して言った。
「そんなの当たり前。でも問題はそこじゃなくて、ユカが辞めるって言いだしたんだよ」
ユカとは隣のマンションに住む石原ゆかりちゃんのことで、近所ということから私もよく知っている。ガッツがあってみんなのためにとにかくよく走る子だ。
「それはまずいな。でもどうしてゆかりちゃんが辞めるって言うんだ」
「ユカがメグママの標的に成ってるんだよ。三年生が抜けた新チームは、私とマミとチーの三人は去年のチームでも試合に出てるからスタメン確実だけど、残り二人がスタメン争いって感じなんだよ。それで一年生のハタは足が速いし、背も伸びたから入ると思うからユカと一年生のライが残り一つを争ってるの」
「それはみんな納得してるんだ」
「もちろん。両方ともスタミナとガッツがあるからよく走るし、私はユカに頑張って欲しいけどライが選ばれたのなら、それもしょうがないなって感じはあるんだよね。それはユカも納得すると思う。でもメグはないよ。だいたいメグママってバスケやったことない癖に、知識だけ勉強して客観的評価とか言うからユカが腐っちゃうんだよ」
「理央はどうすればいいと思う?」
「それは青ちゃんがびしっと言うしかないでしょう。もしここで怯んでユカが辞めるようなら私も辞める」
そう言い切った理央の目は意外なほど落ち着いていた。
「そんなんで辞めてもいいのか?」
驚いて反射的に訊いてしまった。
「そんなとか何言ってるの。これは大事なことだよ。辞めるのはきっと私だけじゃないよ。だって、チームのために大事なことが、個人的なわがままのためになし崩しにされるんだよ。そんなチームであんな辛い練習を誰が頑張るんだよ」
「うーん、じゃあもしみんなが辞めて、メグちゃんも居づらくなって辞めて、二年生がいなくなって試合が組めなくなったら、頑張ってる一年生は悲しいんじゃないかな」
「えっ」
思いっきり仮定の話に理央は面食らっていた。それでも少し考えてから答えた。
「私はやっぱり戻らないだろうな。そういう不信感って消えない気がするし、何より私にとってはユカが大事だから、ユカを傷つけることは許せないと思う」
あまりにもきっぱりと答える理央が、なぜか会ったこともない大川社長にダブって見えた。その少しもブレない態度が親としては嬉しく思った。
「どうしたらネネは許してあげるの?」
不意打ちのように沙穂がたどたどしい口調で聞いてきた。二人の話に参加する機会を狙っていたんだろう。
「そうだねぇ」
理央のいいところは、沙穂が相手でもちゃんと考えてあげるところだ。この二人の姿を見て、何となく嬉しくなって、気持ちが少しだけ軽くなった。
やっぱり我が家は最高だ!
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