マスク一枚分の距離を、君と

門前 了

マスク一枚分の距離を、君と

 窓の外の桜の木からひときわ大きな赤い葉っぱが落ちた。さわさわと風の通る音。運動部の昼練の元気な掛け声。おしゃべりをする女子たちの笑い声。平凡で平和な昼休みの教室。


いつもどおりって、しあわせだなあ。


 頬杖をついてまどろんでいた陽介の正面に、突然小さなガラス瓶が現れた。

 ぎょっとした陽介が見上げると、瓶の上空には、白いマスクをつけた海江田理帆の不機嫌そうな顔があった。長い睫毛は、不自然に盛られたマスカラで固まっている。

 普段ほとんど化粧をしないし、笑っていることが多い理帆の見せるいつもと違う表情に、陽介はすっかり面食らってしまった。


「なに?」

「返す。やっぱりいらないから」


 理帆は、なおも小瓶を押しつけてくる。なすすべもなく、陽介は小瓶を受け取った。


「お前、これ使ったの?」

「教えない」

「なんか、怒ってない?」


 くしゃっと思い切り顔をしかめると、理帆は長いポニーテールを揺らして、窓際のかしましい女子の輪に消えた。


「使ったのかよ……」


 陽介はため息をつきながら、親指と人差し指ではさんだ小さな香水瓶を眺めた。日に透かすと、薄いオレンジ色に輝く液体がとぷんと揺れた。

 まるで、太陽を液体に閉じ込めたみたいだ。それとも、月だろうか。

 いずれにせよ、陽介と理帆はほんの数メートル離れた場所にいて、太陽がいつでも朝に昇るように、月がきまぐれに夜を照らすように、いつもどおりの他人同士だった。


 * * *


 その前日の水曜日、クラス担任の教師が突然休みになった。理由は生徒たちには知らされなかったが、そのせいで逆に、教師の休んだ理由はあからさまになってしまった。十中八九、昨今流行している新型ウィルスに関係があるのだろう。


「これから二週間は、たぶんあいつ休みだぞ」


 彼の担当教科が数学だったこともあり、生徒たちは小躍りした。

 その日はまだ教員間で危機管理体制が整備されていなかったらしく、彼の担当授業は全て自習となった。陽介たちは席の近い数人でトランプの大貧民に打ち興じた。


「うそ、また奈良が大貧民?」


 理帆が両手でお腹を抱えて笑う。


「前世が貧民なんじゃね?」


 聡一郎は半分呆れ顔で、陽介のマスクを引っ張った。制する陽介。


「なんだよ前世って。このゲーム難しすぎんだよ、順番ひっくり返るやつとかズルだし」

「貧民というかアホなんだな」

「アホの子、カワイー」


 のぞみがカラフルな爪のついた手を伸ばし、わざと陽介の頭を撫でようとした。身をよじって逃げる陽介を反対側から理帆が羽交い締めにする。

いつもだったらみんなで大笑いするところだ。でも、今日は違った。


「海江田、接触はやめた方がいい」


 道春が静かに言うと、理帆は無言で陽介から離れた。沈黙が流れる。

 そのとき、終業のチャイムが鳴った。一同は次の授業に移動するため、やおら立ち上がった。

 陽介が筆箱を用意していると、理帆がにやにや笑いながら、


「で、大富豪に何かくれないの、大貧民?」


 と、片手を差し出した。普段、こういった冗談を言うのは陽介のほうだったので、彼は一瞬きょとんとしてしまった。


「えっと、放課後に調理部で作るパウンドケーキ、やるよ」

「えー、それだけ?」


 背が高く、凛とした理帆にはどこか人を従わせるオーラがあった。陽介はいつだって彼女には敵わない気がしていたが、特にこの日は、日常に突然降って湧いたニュースの種に少なからず動揺していたし、落ち込んでもいた。実際、理帆のほうも先刻の空気のまま場を立ち去り難かったのだろう。珍しくふざけて笑い合えるなら、そのほうがいい。様々な条件が重なった結果、彼は鞄の中をごそごそとまさぐったのだった。

 陽介が手にとって差し出したのは、オレンジ色の香水が入った、小さなガラスのアトマイザーだった。


「昨日もらったんだけど。使い道ないから、やるよ」

「え、香水? どんな香り?」


 理帆は受け取って、ガラスの蓋を開けようとした。それを陽介は慌てて制した。


「ちがう、やめろ」

「は? 違うって何よ。きらいな匂いだったらいらないし」


 眉を顰める理帆。陽介は頭をかきむしり、少し考え込んだ後、小声で言った。


「……惚れ薬、なんだって」

「は? ホレグスリ?」

「……匂いをかぐと、そのとき近くにいる相手を好きになるんだと」


 理帆は首を傾げて呆れたように陽介を見つめた。言うに事欠いてくだらない冗談だ。どうせ呟きながら、こっちの反応を伺っているんだろう、いつもどおり。

ところが意外にも、陽介は香水の瓶に真剣な眼差しを向けていた。

 突拍子もない話も度を超えると、むしろ一周回って真実味を帯びてくる。

 理帆はアトマイザーを陽介の机の上に置き、一歩下がった。


「それって、危ないじゃん」


 陽介は笑って、大丈夫とでも言うように両手を肩の上でヒラヒラさせた。


「まあ、勝手に言ってるだけだと思うけどさ。俺の叔父さんって一応、大学で薬の研究してる医者なんだよ」

「その叔父さんが、この薬を作ったってこと?」

「そう言ってた。最近ワクチンの研究とかテレビで取り上げられて調子乗ってるから、正真正銘、ただの大嘘かもな」


 ドクン、と理帆の胸が高鳴った。


「もしかして、奈良の叔父さんって」

「知ってる? 奈良光秋っていうんだけど」


 そのとき、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り始めた。ほかの生徒に急き立てられて、二人は慌てて教室を後にした。

 廊下を駆けてゆく理帆の手には、例の香水瓶がしっかり握られていた。


 * * *


 奈良光秋。

 その名前は、理帆の耳の中で何度も何度もこだましていた。

 理帆がその名前を初めて耳にしたのは、ウィルスの流行が始まってしばらくしてからのことだった。楽しみにしていた高校にも通えず、外にも行けなくなって、毎日母親と一緒に煎餅をかじりながらテレビのつまらないニュースばかり見ていたあの頃。ふと顔を上げてテレビの画面を見たとき、びっくりしすぎてスマホが手からすべった。中学三年の一年間、朝の通学電車の中で見かけるたびに目で追いかけていた「木曜日のひと」が、動いてしゃべって、目の前に映っていたのだ。

 毎週木曜日の朝だけ同じ駅で姿を見る、年上の渋い男性。オジサンはオジサンだけど、圧倒的な年齢の差は魅力でしかなかった。丁寧に仕立てられたいい匂いのするスーツ姿、暑い夏のラフなシャツ姿、肌寒い時期の高価そうなトレンチコート姿。べっこう色の眼鏡も、サラッサラの前髪もツヤッツヤに磨かれた靴も分厚い英語の本も、ひとつひとつが理帆の元気の源だった。

 結婚指輪はしてないけど、長年連れ添った奥さんがいるかもしれない。そうじゃなくても大人だから、恋人の一人や二人や五十人くらいはいるかもしれない。それでもいいから、ただ近づいてみたい。もっと知りたい。高校生になったら、勇気を出してあのひとに声をかけてみよう。

 そう、思っていたのに。突如として現れた新型ウィルスのせいで、理帆の一ケ年計画は台無しになった。中学は卒業式をする間もなく休校となり、入学するはずだった高校にもなかなか通えなかった。ようやく少し状況が好転して学校は始まったが、「木曜日のひと」は全然電車に乗っていなくて、相変わらず会えない。

 だから、怪しい惚れ薬をもらったところで、どうせ使い道なんかないはずだった。


 * * *

 

 木曜の放課後。

 陽介は珍しく早い時間に学校を出たが、なかなか帰る気になれなかった。昨日も今日もなんとなく普段と違う理帆のことが、どうも気になって仕方がなかったのだ。コンビニや書店を当てもなくブラブラとはしごしているうちに、叔父の奈良光秋の目立つ長身が近づいてきた。

 近くの大学に籍を置く光秋は、毎週木曜に講義を詰め込んでいると聞いている。大方、講義だかゼミだかの合間に抜け出してきたのだろう。人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いを浮かべて、うれしそうに陽介に近づいてきた。


「よう。今日は早いな」

「よっ。今日から部活なくなっちゃったんだよ」

「部活ないなら、帰って勉強しとけよ。俺と同じ最強の肩書、ドクタープロフェッサーを目指すんだったらな」


 光秋は陽介の双肩に手を置くと、わっはっはと高らかに笑い声を上げた。陽介は呆れた顔で手を退ける。


「俺は医者にも大学教授にもなる気はないよ。行きたい専門、もう決まってるから」

「おう、お前の将来には期待してるぞ。修業先はピエール・エルメあたりで手を打とう」


 首を振る陽介。このオッサン、世の中のことが全然わかってないな。


「そうそう、今朝、お前の作ったパウンドケーキ食べたって女子に会ったぞ。この間の薬も持ってたし。隅に置けんなあ」


 光秋は、にやにやと陽介の顔を眺め回した。

 ところが、赤くなって困るはずの甥っ子は突然目を見開いた。

 陽介は、自分の中で何かが爆発したような音を聞いた。腹の中が煮えたぎる鍋の内のようで、見えない泡がぐつぐつと生まれては消え、また生まれだす。


「海江田があの薬持ってたって、なんでオッサンにわかるんだよ」


 陽介の声は、自分でも驚くほど怒りに満ちていた。


「あいつ、オッサンの前で香水使ったのか」


 光秋は甥の様子がおかしいのに少なからず動揺したが、全くの無表情を装った。


「そうだな、プシュっとやってたような。気のせいだったかもわからん」


 それだけ聞くと、陽介は脇目も振らず、脱兎のごとく駆け出した。

歩道に積もったイチョウの葉が層となって足を滑らせる。狭い道路でベビーカーを押す女性にぶつかりそうになる。ビュンビュン流れる景色を見ながら、陽介は自分自身に問いかけた。


(俺、なんで走ってるんだろう。どこに向かってるんだろう。なんであのオッサンに怒鳴ったんだろう。何が、気に入らなかったんだろう)


 陽介は日頃からあれこれ考え事をするタイプではなかった。こうやって自問したって、どうせ答えは出ない。とりあえず足の向くままに走るだけだ。校門をもう一度くぐって校内に入り、乱暴に外靴を脱いで上履きをつっかけると、ドスドス足音を立ててとにかく走った。

 二階に上がる。左に曲がる。まっすぐ、突き当たりまで。


 * * *


 職場や学校へ向かう人たちでごった返す、朝のプラットホーム。

線路の向こうで赤く色づく桜の葉に見惚れていた理帆は、歩いてくる女性に気づかずぶつかってしまった。


「すみません」

 と振り向いた瞬間、理帆も桜紅葉に負けじと真っ赤になった。なんと実に半年ぶりに、「木曜日のひと」がこちらに向かって歩いてくるのが見えたのだ。

 今しかない。

 迷いはなかった。すれ違う直前に、理帆は最大限の勇気を振り絞り、自分の手首にあの香水を吹きかけた。

 すれ違った光秋は、スン、と鼻を動かした。光秋は何かを探しているように視線を動かして、理帆の姿を見つけると、まっすぐ向かってきた。唾を飲み込む理帆。心臓がばっくんばっくん鳴り響いて周りの音が何も耳に入ってこない。


「失敬。突然話しかけて申し訳ないが、君、なんだかいい香りがするような」

「そ、そんなこと」


 光秋はまっすぐに理帆の目を見つめる。眼鏡の奥から、自分だけに語りかける瞳。夢にまで見たシチュエーション。理帆は感情の高まりに耐えきれず、赤面し、ほとんど涙がこぼれそうになるのを堪えながら目を伏せた。

 光秋は、それでもなお理帆に近づき、鼻を動かす。もう白状してしまおうか、と理帆が口を開きかけたその瞬間、光秋はポンと手を叩き、わっはっはと笑い声を上げた。


「ああそうだ、君、陽介のクラスの子だろ。あいつの作るパウンド、スパイスの使い方が独特なんだよな。食べたでしょ、今朝。ね? 君、友達? あいつの。あいつ、くっだらないことばっかり言ってみんな困らせてるだろ。いや本当、失敬失敬。どうも、今後とも陽介をよろしく」


 ぺらぺらとまくし立てると、光秋はトレンチコートの裾を翻して颯爽と立ち去った。

 理帆は手で口を押さえ、その後ろ姿を見送った。溜まりに溜まった感情が行きどころを失って、彼女の頬を覆う白いマスクが滝のような涙で濡れた。


 * * *


 理帆は、教室に残っていた。なんとか今日一日平静を装って過ごしてきたが、さすがに放課後ともなると、他人に合わせる余裕はなくなっていた。「用事がある」と嘘をついて帰るより、担任のいない間を埋めるクラス長の仕事に埋没する方が、頭を使わなくて楽だった。

 他の教員に頼まれた資料の整理を終え、戸締りの点検と共有物の整頓を終えて、そろそろ帰るしかないか、と思って立ち上がったそのときだった。

 ガラッと大きな音を立ててドアが開いた。

 陽介は、肩を弾ませてぎょろりと理帆を見た。理帆は、そんな陽介の姿に驚き、少し怯えた。


「なに、今頃。鍵、閉めるところなんだけど」


 陽介は、つかつかと理帆の前まで歩いてくる。二人の間の距離は、一メートルにも満たない。顔を背けながら、理帆は言った。


「あんまり近寄らないでよ、危険だし」

「でも、あいつには近寄ったんだろ」


 陽介の低い声を聞いた途端、理帆は真っ青になった。


(奈良が、今朝のことを知ってる。なんで、どうして)


 陽介は、理帆の机に両手をついて、さらに詰め寄った。


「あいつに薬、使ったんだろ。それで今日一日ずっと不機嫌な顔してたんだな。似合わない派手なメイクしやがって、泣いたの隠してたんだろ」


 くっきりカールさせた睫毛を反らし、理帆は陽介をキッと睨んだ。


「だったら、何なの。デリカシーなさすぎ。大体、あんたに関係ないじゃん」

「関係大ありだろ。いつもどおり話せないと気持ち悪いんだよ」

「いつもどおりって、何よ。こんな世の中で、普通も常識も何もないでしょ」


 マスクをかなぐり捨てる理帆。


「会いたい人にも会えない。行きたいところも行けない。やりたいこともできない。どう考えたって、今まで通りじゃいられないんだよ、私たちは」


 陽介は、床に落ちているマスクを見つめた。理帆の顔の形を遺したまま静かに横たわっているのを見て、子供の頃によく集めていたセミの抜け殻に似ている、と思った。


「それでも、セミは夏になりゃ這い上がって飛ぶし、一週間経てば死んでいくんだな」

「え?」


 陽介はしゃがんでマスクを拾い上げ、軽くはたいてゆっくりと立ち上がった。そうして落ちたマスクを差し出し、まっすぐに理帆の瞳を見つめた。


「俺は、それでも、海江田と笑って話がしたい。いつものとおりに」


 理帆は、マスク一枚分近くなった陽介の顔に、動揺を覚える自分を感じた。


「奈良のそんな顔、全然、いつもどおりじゃないよ」


 陽介はうれしそうに、にやりと笑った。


「大体あんた、何しに来たの?」

「俺にも、よくわからないんだけど。オッサンからチラッと海江田のこと聞いて、気づいたら走ってた」

「それってつまり……。私に会いに?」

「……そういうこと、かも?」


 顔を見合わせた二人は、桜紅葉よりも赤い顔をしていた。

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