第7話 尾道、夏の終わりに
さかのぼること二ヶ月前の八月。
舞台はアーサーの生まれ故郷、夏真っ盛りの広島県の尾道。おだやかな瀬戸内海と多くの寺社が建立する山に挟まれた、のどかな田舎町である。
アーサーの家は、眼下に尾道水道と呼ばれる内海を一望にできる、山の中腹にそびえ建つ二階建ての洋館だった。だが、単なる洋風建築ではなく、伝統的な日本建築とバウハウスやアールデコといった様々な西洋の建築様式を複雑に取り入れた、一風変わった外観は、「尾道のガウディ」とも呼ばれる建築家である父親の吉岡聖隆が自ら設計したもので、地元でも名物的な存在だった。
現在、吉岡は長期入院しており、妻であるアンが建築事務所の仕事を夫に代わりに切り盛りしていた。
その日もアンは割烹着姿で、一階の事務所で書類のチェックをしていたが
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。柱時計とほぼ同時に、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーンと山頂にある千光寺の鐘の音の、和洋折衷のユニゾンで五時を知った。
「あら、もうこんな時間。そろそろ職人のみんなも帰ってくる頃ね。それにしても、あの子は遅いわね。また、海にいってるのかしら。まあ、ノーラが付いて行ってるから大丈夫だとは思うけど」
軽くため息をつくと、アンは立ち上がり事務所を出て、井戸水で冷やしておいた絞った八朔(はっさく)と紅茶を合わせた特製のフルーツティーもどきを人数分の湯呑み茶碗に注ぎ、玄関へと向かった。
「女将さん、只今もどりました!」
「アンさん、お疲れ様です。今、けえりました」
現場から戻った大工や左官の職人たちが玄関に顔を出して挨拶をする。
アンはニコニコと微笑み、職人たちに湯呑み茶碗を渡しながら声をかける。
「みんなお疲れさんじゃったねえ、棟梁、仕事の方はどんなあんばい?」
来日して広島に移り住んで十二年、アンの日本語ー広島弁ーは地元の人間も感心するほど流暢で、目を閉じて聞いているととても六尺ー約180センチー近いブロンドで青い目の白人女性が喋っているとは思えなかった。
職人たちは湯呑み茶碗を一口で飲み干し、フーッと息を吐くと、笑顔で話し出した。
「女将さんの淹れてくれるこのお茶は、ばりうまいけえ疲れが吹っ飛びますわ。千光寺のお堂の修繕、無事終わりました」
棟梁とよばれた一番年配の職人が話し出すと、他の男たちも口々に喋り出す。
「ほんまじゃあ、こげえなハイカラなもん、よそでは飲めんからねえ」
「明日は浄土寺さんの方を廻りますけえ。まかしといてつかあさい」
建築事務所と言っても小さい町だけに、そうそう大きな仕事があるわけではない。吉岡の実家が長年続く宮大工の家系だったこともあり、寺社の修繕など、本来なら宮大工のやるべき仕事も引き受けているのだ。
「ほうかい、ご苦労さんじゃったねえ」
職人たちは湯呑み茶碗をお盆に置くと、アンに向かって頭を下げた。
「ごちそうさんでした。ほいじゃあ女将さん、わしらこれで帰りますけん」
「お疲れさまですアンさん、お先に上がりますけえ」
「あらあ、何ねえもう帰りよるん?うちもこの書類だけ終わったらもう終いじゃけえ、みんなご飯食べて帰りゃあええのに」
職人を家族同然に扱う優しさに、男たちの顔も自然とほころぶ。主(あるじ)不在でもこの事務所がなんとかやっていけるのも、アンの気配りのおかげと言ってもいいだろう。
「いやいや、太郎ぼんも華子ちゃんもおるのにわしらが長居しちゃあ迷惑じゃけえねえ」
「何を言いよんの、遠慮はいらんよ。にぎやかな方が子供らも喜ぶさけえ」
「いやあ明日も早出じゃけえ、女将さんのうまい飯食べたら帰るのもたいぎいなるさかい」
棟梁の軽口に、ドッと笑い声が起きる。
「ほうかい?ほいじゃあお疲れさま。気いつけて帰りんさいよ」
と、その時だ。
「ただいま!ママ!」
太郎—アーサー—が釣り竿をかついで帰ってきた。そのすぐ後ろから、この家の飼い猫であるノーラと呼ばれる白猫がゆっくりと入ってくる。
ひとりの若い大工が声をかけた。
「おお、太郎ぼん、お帰り!どう、大漁やったかね?」
「もちろんや、見てよ源兄い!」
太郎は源兄いと呼ばれた男に肩から下げた丸い魚籠を自慢する様に差し出した。
「ほお、こらええ型の鯛じゃ。そやけど、ぼんのお父さんにはとてもやないけどまだまだかなわんなあ。吉岡の大将は建築家より漁師が向いてるじゃろうと地元の漁師も言うくらい大物を釣っとったけんなあ」
「ちぇっ、まだまだかあ」
男は残念そうな太郎の前に座り込んで視線を合わせると、優しく語りかけた。
「お父さんが帰ってくるまでに大物を釣り上げてびっくりさせたり。それまで、気張らにゃあいかんで。ほいじゃあ女将さん、帰りますけ。」
アンは笑顔で手を振り見送ると、太郎を抱きしめた。
「おかえり、太郎。今日は何もなかった?」
「ただいま、ママ。大丈夫だよ」
「じゃあ二階で寝ている華子も起こして一緒にご飯にしましょうか」
「うん、ママ、晩ご飯はお刺身にしてね!」
「はいはい、わかってますよ」
太郎と手をつなぎ二階へと上がる後ろ姿を、白猫はじっと見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます