第6話 母の部屋 part2
「ふううう」
一人きりになった部屋で、アーサーは深いため息を吐きながら、靴も脱がずにベッドにうつ伏せに倒れこむと、ぎっしりと水鳥の羽が詰まったふかふかの枕に顔をうずめたまま、微動だにしなかった。
壁にかけられた振り子時計のカッチ、カッチという小さな音だけが響く中、しばらくの沈黙の後、絞り出す様に小さな声で呟いた。
「もう……疲れた」
日本を離れてから今日で何日経ったんだろう。一ヶ月以上に渡る長い船旅、時刻表すらわからない鉄道、とどめは時代錯誤の馬車!プレッシャーと乗り物酔いで、何回吐いたのかもうわからない。
やっとの思いでたどり着いたと思ったら出迎えてくれたのは、自分を身内とも思っていない意地悪な親戚たち。予想していた以上にいろんな事がありすぎて、疲れ果ててしまい頭の中を悲観的な考えがぐるぐる回り続けている。
『とりあえず後継者の一人には選ばれたけど…あの親族の中に入ってうまくやれるんだろうか?』
これから先、本番の親族会議までにやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことは山積みだ。不安だけが心を支配して、もう体を動かす気力もない。
「ママ……こんなの、やっぱり無理だよお……」
枕に顔を埋めたまま、泣き出してしまった。
ヒック、ヒック。室内にアーサーの泣き声が響く。
泣きじゃくりながら、アーサーはぼんやりと自分に話しかけてきたメイドのフローレンスの言葉を思い出していた。
『あんな風に一生懸命働いているのに、気を使ってくれる人もいないって可哀想だな。優しくしてくれたのはママと、もう一人って言ってたけど、誰なのかな。でも、何でみんな、もっと他の人に優しくできないんだろう』
しばらくそのままの姿勢で落ち込んでいたが、フローレンスが運んできてくれたベッド脇のテーブルに置かれたホットチョコレートから漂う、甘く芳ばしい香りに気がついた。
それは日本にいる時には嗅いだことのない魅力的な香りで、優しくアーサーの鼻腔に侵入してくる。
『いや、そんなのどうだっていいから明日からの事を考えなきゃ……』
と思うのだが、誘惑には勝てず、寝たままの姿勢でずりずりとベッドを移動すると、うつ伏せのままカップを手に取り、顔を上げてひと口つける。
「あ~甘いいい、温かいいいい、おいしいいいいいい!」
アーサーは思わず叫んでいた。
ベッドに座りなおして、今度はカップを両手で包み込むと、改めてゆっくりと味わう。口内を満たし、喉をゆっくりと通り広がるその味は、ほどよく温かく、とびっきり甘くて、悲観的になっていた気持ちをほんの少し楽にしてくれる気がする。
ふと目を向けるとトレイの上には、見た事もない、きれいで美味しそうなビスケットが山盛りになっている。
グ〜。昼過ぎにロンドンの駅でパサついたサンドイッチをふた切れほど食べて以来、何も口にしていないため腹の音が大きく鳴るのがわかった。
「やっぱり無理はいけないよね、食べれる時に食べとかなきゃ」
自分に言い聞かせるようにつぶやき手を伸ばすと、一番上のチョコチップ入りのビスケットを口に入れた瞬間、今まで伏せ目がちだったアーサーの目が大きく開き、長い睫毛がパチパチと瞬(しば)たいた。
「美味しい!何これ!本当に美味しい!」
バターの風味が効いたものや香ばしいココア風味、イチジクのようなドライフルーツ入りなど日本では見たことも味わったこともない種類ばかりだ。日本でも母親が手作りのビスケットを焼いてくれることがあったが、ここまで美味しいものには出会ったことはなかった。
ほっぺたいっぱいに夢中でほおばったビスケットをホットチョコレートで流し込むという、かなり行儀の悪い作業に夢中になっていると、クローゼットの中から何か物音が聞こえてきた。しばらくは放置していたアーサーだったが、物音は一向に止む気配がない。
仕方なしに片手に幾つかビスケットを握りしめたまま扉を開けると、かけているジャケットのポケットが上下左右に大きく揺れ動き、周りのハンガーや扉に激突しながらガタガタと大きな物音を立てている。
「あ、いけない、忘れてた!」
慌ててポケットに手を突っ込み何かを取り出した。それは、日本から持ってきている手のひらサイズの組み木細工の箱で、アーサーはベッドの上に置くと、箱に向かって話しかけた。
「もういいよ、出ておいで」
カチカチカチと音がして最初に横板が、続いて上下、背面の板が複雑に動き続け、最後に上部の板が開くと箱の中から一陣の風が舞い起こり、それと共に真っ白な猫が勢いよく飛び出してきた。
白猫はそのまま天井近くまで高く飛び上がったかと思うと、空中で一回転してひねりを加えベッドの上に音もなく着地した。
そしてそのまま頭を低く下げ、身体を伸ばしたかと思うと毛づくろいを始めた。やがてひと通りルーティーンが終わるとスクッと二本足で立ち上がり、
アーサーの頬をビターン!といきなり平手で張り飛ばした。
「痛い、痛いよノーラ!なんでこんなことするの!」
アーサーは思わず悲鳴をあげた。
「なんでじゃないわよ!あんたバカなの?」
白猫はアーサーの抗議を無視して、仁王立ちの姿勢で大きな声で怒鳴りつけた。
「しーっ!声が大きいよ!聞こえちゃう!」
「ほんっっっとバカみたいに、ぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりビスケット食べてんじゃないわよ!ああ、もう、あんた!ビスケットのクズこんなに散らかして!仕方のない子ね!」
ノーラと呼ばれた白猫は、ベッドの上に散乱しているビスケットの食べかすを器用にシッポで集めながら、アーサーを叱り続ける。
「あのね、すっっごく狭いの!箱の中!早く出しなさいよ!」
「ちょ、ちょっと忘れてただけなんだから、そんなに怒らなくてもいいじゃないかあ」
「じゃあ、あんたあの箱の中に入ってみる?あたしの魔法でうんっと小ちゃくして箱の中に放り込んでやってもいいのよ!?」
「……ごめんなさい。もう、怒んないでよお」
「本当にもう!それに、あんた何よあんな連中に囲まれてビビっちゃって!」
「べ、別にビビったわけじゃないよ」
「ビビった訳じゃない?ハッ!」
ノーラは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あたしがあそこで代わりに話さなかったら、魔法を使わなかったらどうだった?あんた泣きべそかいてたじゃないの!」
グサッと核心を突いてくる。
「そりゃそうかも知れないけどお。なんでそんな嫌なことをいうんだよおお」
「言っておいたでしょう?集まった親族の中にも、ハワードの、あんたのおじいちゃんの命を狙っている奴がいるかもしれないって!今からビビってどうすんの!あんたがママと約束したのは何?」
「パパの看病と妹の世話で帰国できないママの代わりにお祖父ちゃんを守る、だよ。そんなことわかってるよ!」
アーサーは精いっぱい強がって見せたが、ノーラは容赦しなかった。
「いーえ、わかってない」
声を荒げると、アーサーにグイッと顔を近づけてきた。
ノーラの瞳はいわゆるオッドアイと呼ばれて、左右で色が違うものだ。その深い海のような青い右目と、真夏のひまわりのような黄金色の左目に見つめられると嘘がつけない気分にさせられる。
アーサーはあらためて、この屋敷に来てから自分がすっかりおじ気づいていることを自覚させられた。
「ねえ、アーサー。いえ、太郎」
ノーラは低い声ですがるようにささやいた。
「お願いだから、太郎。あなたしかいないのよ。おじいちゃんを守ってみんなを救えるのは。あの日交わしたママとの約束をもう一度思い出して」
アーサーは夢とも現実ともつかない体験をした、二ヶ月前の夏の夜のことを思い出した。
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