第8話 アンの部屋にてー手紙 part1

「ふう、やっと一段落ついたわね」

 子供たちを寝かしつけ、後片付けを済ませ自室に戻ると壁掛け時計はもうすぐ11時を指そうとしている。夫の入院する病院と仕事場を行き来し、子供たちの世話をしていると心安らぐのはいつもこんな時間だった。

「ナーオ」

 白猫が、美しいオッドアイの瞳で見つめながらアンの足元にすり寄ってきた。

「ノーラ、あなたにもご褒美をあげなきゃね。いつも私の代わりに子供たちを見守ってくれるもの」

 晩ごはんに出した、アーサーが釣り上げた鯛の刺身を白猫に振る舞いながら、アンはため息をついた。


「それにしても最近のあの子は、釣りばかりね……」

 最近、アーサーが友達と遊ばず、一人で釣りばかりしているのが心配の種なのだ。田舎町だけにどうしても仕方のないことなのだが、ハーフということもあり学校で仲間外れにされているのが雰囲気で伝わってくる。

 小さな頃はともかく、小学校も高学年になってくると露骨に差別されることもあるようで、最近では学校から帰ると一人で海に行って夕方まで帰ってこないことが多い。

 本人は何も言わないが、父親が病気になって入院してからは特に元気が無くなっているのがわかる。


「ミャオオ」アンを慰めるように白猫が顔をじっと見つめてくる。

「ありがとう、ノーラ。大丈夫よ、あなたもついてくれているものね」

 アンは気を取り直して、英国から取り寄せているお気に入りのフォートナム・アンド・メイソンの紅茶を飲みながら貯まっている手紙の整理を始めた。

「英国製品もだんだんと手に入りにくくなってきたわね。この先どうなるのかしら……あら?」

 一通の手紙を手にとって、アンは声をあげた。

 勘当されてからも父親に隠れて実家の母親とは手紙のやり取りをしていたのだが、忙しさのあまり放置していた手紙の封を切ろうとして、アンは何とも言えない違和感を覚えた。

 アンの実家・ウォルズリー家では手紙の封をするのは伝統的に真紅のワックスと決まっているのだが、この手紙に使われているのは赤色に黒がマーブル模様に溶け合った、深い赤褐色の物だ。

 違和感の理由はそれだけではない。ワックスに押す家紋のスタンプが右へきっちり四十五度傾いている。


「これは、まさか」

 アンの声にわずかに緊張の響きが混じる。

 ワックスの色とスタンプの角度は、何かあった際に外部の人間に気づかれることなく親族内で連絡をとるための符牒なのだ。紺色のワックスは経済、緑色は健康、黒色は親族を表し、赤色のワックスにそれらの色を混じり合わせることで、手紙の内容が封を切らずとも一目でわかるようになっている。


 そして角度。左方向への傾きは過去の事柄を右方向への傾きは近い将来を表し、刻印の角度は十五度刻みで三段階、最大四十五度までで重要性を表している。


 赤褐色のワックス、右四十五度に傾いた刻印ということは、ウォルズリーの一族に緊急の事態が迫っているということだ。事態の重要性に気づいたアンは、引き出しから精緻な装飾が施された銀製のペーパーナイフを取り出し、急いで手紙の封を切った。


 薄い浅葱色の便せんに、ほぼ黒色としか思えない濃紫のインクで綴られているのは、見覚えのある母メアリーの美しい文字だ。


「親愛なるアンへ。日本での暮らしはどうですか。

 アーサー(太郎)、妹のジョディ(華子)、吉岡さんの具合はどうですか。こちらは、あなたのお父様ハワードも相変わらず元気でワンマンなままです。私は少し体調を崩していますが大丈夫です。


 ハワードは後継者たる次期当主選びを本格的に行なおうとしています。我がウォルズリー家の親族十二家から候補者を選び、二ヶ月後、初代当主がイングランド王によって爵位を授けられた十一月一日に決定する事になるでしょう。


 本来でしたらアーサーもその一人ですが、日本でのんびりと生きる方がいいのかも知れません。後継者が決まり、ハワードが引退したらあなたたちを尋ねて日本を訪れるのもいいかも知れませんね。


 また落ち着いたら連絡します。

 あなたの母、メアリーより愛を込めて」


 文面だけを見ると、拍子抜けするくらい普通の手紙だ。

 だが、この便箋とインクにも家族のものにしかわからない仕掛けがある。アンは机の一番下の引き出しの奥から小さな小瓶を取り出した。中には黄金色に輝く液体が入っている。この家の庭に咲くイングリッシュローズの、朝一番に開いた花から抽出したローズオイルだ。


 小皿にゆるりとひと回し分満たすと、小さな紙包みを七つほど取り出した。ニガヨモギの粉末、カエルの脳、紅水晶、カタツムリの角、そのほか諸々。日本ではなかなか集める事が出来ないためイギリスから密かに取り寄せていた、様々な魔法の元となる伝統的な材料だ。

 正確に規定量分を小皿のオイルに加え混ぜ合わせると、マッチでそっと火をつけた。


 小さな炎と共に薄紅色の煙が立ち昇ったのを確認すると室内の明かりを消し、そっとカーテンを開いた。幸いな事に今日は満月に近い月が出ており、室内に月光が差し込んでくる。


 母からの手紙を小皿の上にかざし、チリチリとやけつく寸前までゆっくり炙ると、書かれた文字に不思議な変化が起き出した。

 熱と煙を嫌がるかのように、文字が小さなオタマジャクシのように動き出し、紙面のあちこちに散らばっていったのだ。


 アンは小皿にフタをして火を消すと便箋を窓から入り込む月の光にかざした。するとどうだろう、文字が再び動き出し、先ほどとは全く違う配列で並び始めた。

 その一行目に書かれていたのは……

「アンへ。この手紙が届く頃には、私はもうこの世にいないでしょう」

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