ノブレス・オブリージュ

みなみ

第1話

 ラルフが所属するギルドに魔物討伐の依頼が舞い込んできた。畑仕事に始まり、メッセンジャーに調査依頼、下積みを経て確実に成果を挙げた。順調にギルドのランクを上げ、最近では高難易度の依頼も増えている。仲間との連携技を次々に編み出し、強大な魔物を倒し、ギルドの名も、炎使いラルフの名もいよいよ広く知られるようになった。

 だが、救世の剣士になるという夢を叶えるには、それを笑い飛ばされなくなるには、一体どれほどの名声が必要なのだろうか。そんなことを思いながらも、夢の実現に向かって邁進するラルフの心は高揚していた。


 さて彼は今、軽い足取りで仲間と待ち合わせをしている街外れの酒場へと向かっていた。今度の大がかりな魔物討伐を完遂すれば、ランクも上がり、王都のギルドへの招待を受けられるかもしれない。そこに属することができれば、依頼の幅はより広がる。

 期待を胸に意気揚々と進み行く。だがその最中、くだんの酒場の主人が血相を変えて走って来るではないか。ただならぬ様子の彼はラルフを見つけると叫ぶように名を呼び、緊急事態を告げる。

「あんたの仲間が逃がしてくれたんだ!」

「逃がす?」

「いきなり酒場に現れて」

「落ち着け、どうしたんだ」

 すっかり取り乱した彼が支離滅裂に話す不穏な言葉の数々がラルフを狼狽させる。がっしりとした体格の彼をなだめるように肩を叩き、落ち着くように促す。幾分か呼吸を整えた酒場の主人はそれでも、真っ白になった顔で「悪魔が」と呟いた。


「悪魔が、現れたんだ」




 肺腑が喉から飛び出しそうなほどの全力疾走で酒場へと向かう。長い脚を千切れんばかりに動かすたびに、腰に下げた剣が大きく音を鳴らす。しばらく走ると、周囲の景色に違和感を覚えた。まるで廃墟の街だ。数千年放置されたかのように建物が劣化し、瓦解している。流れていくその景色と違和感が、ラルフの中の危機感を増大させていった。

 やがて辿り着いた酒場は完全に崩落していた。その只中に一つの影が揺らめく。ラルフの背を汗が伝っていった。それは全力疾走したからでも、辺りの惨状を目の当たりにしたからでもない。それは生存本能が流させる、冷や汗だった。

 周囲の建物が崩れて完全に平地と化した大地の上、抜けるような青空を背負いながら、陽炎のごとき影はゆっくりと立ち上がる。だらりと下がった腕の先、長い指先からポタリポタリと鮮血が落ちていくのが妙に目につく。そうして次の瞬間には地面を蹴って短剣を手にしていた。

 鼓動、脈拍、呼吸、発汗、眩暈、激情、恐怖、焦燥。瓦礫を蹴り込むように前へ。腰を落としながら‘敵’に向かって刃を突き上げる。後方へ体をずらし、舞うようにそれを避けた相手の隙に乗じて次の一閃。間合いに入り込み、殴打の要領でナイフで打ち込む。ゆったりとした相手の腕を切り付けることに成功し、たっぷりと距離を稼いだラルフは手に持っていたナイフを敵に向かって投げ付けると、先程まで踏みつけられていた仲間を助け起こすとその場を離れる。

「メリィ!」

 祈るような気持ちで名を呼ぶと、彼女は咳き込んで血を吐き出す。そうして薄く目を開くと安堵したように息をついた。

「何があったんだ!」

「……突然……襲われ……周りの人達は、逃がせた……でも……」

 圧倒的な存在に意識を奪われていたラルフは、瓦礫の中に倒れる仲間達をようやく認識した。血の気が引いていった。労るように細い手がラルフへと向けられる。それを強く握ると、彼女はか細い声で「逃げて」と呟いた。

 奥歯を噛み締め、敵を睨みつける。状況を嘲笑うように、ラルフの選択を待つように、相手は立ち尽くしたまま動かない。場に不釣り合いなほど美しい男だった。彼のほとんどはモノトーンで作られている。真っ白な肌に真っ黒な髪、伶俐な顔立ちに浮かぶ表情は薄い。仲間が負わせたのだろう傷口から流れる血さえ、作り物めいている。ただ、その瞳だけが爛々とした生気を宿している。アメジストからルビーに変化するような、魔物めいた色をしている。

「自己修復までどれくらいかかる?」

「駄目よ、ラルフ」

「命の炎が消えてない。みんなまだ助かる」

 魔法を宿した瞳で、仲間たちを見定める。命が炎の大きさとなって視認でき、周囲の仲間たちの生命が潰えていないのを確認する。ラルフの率いるギルドには炎使いが集まり、構成員も多くが赤の魔法使いだが、メリィは白魔術を使う回復系の術者だ。彼女であれば仲間を救うことができる。

 ラルフの意志が曲がらないことを知っているメリィは苦汁を舐めるように自己の回復を始める。回復魔法を使用する時には甚大な集中力と魔力が必要となる。完全な無防備になってしまう彼女に敵を近づかせてはならない。立ち上がったラルフは前に進み出る。拾い上げたナイフを玩具のように観察していた敵がラルフの殺気に気付いてそれを投げ渡してくる。柄の部分を掴んで見せたラルフは「何者だ、何が目的だ」と問いかけた。

「僕はお前の敵。目的はお前のギルドを壊すこと」

 簡潔に答えた彼は指先で作り上げた魔法のエネルギーを放つ。その先に倒れた仲間がいることを知るラルフは攻撃が届く前にどうにか引き抜いた長剣でそれを切り裂く。対魔法道具として魔法石で編まれた特別製だ。武器自体に魔力耐性がある。それにしても、彼はラルフが届くか届かないかのギリギリに攻撃を仕掛けてきた。まるでラルフを試すように。

「なぜギルド潰しを!恨みか!?」

「僕は暑いのが苦手なんだよ」

 肩を竦め、まるで緊張感のない言葉を放った相手が「暑苦しい赤の魔法使いが嫌いな訳だ」と続ける。惑わせるようでいて、本心のような、難解で単純な言葉の羅列にラルフは困惑した。何を言っている?この状況を作り出したお前が何を?その狼狽を味わうように敵は、ゾッとするような笑みを浮かべた。

「だから、目障りな炎を消しにきた。それだけさ」

 雉も鳴かなきゃ打たれなかった。僕の視界に入るくらい、目立ち過ぎちゃったんだね。そんな嘲弄を発する彼との対話が絶望的に不可能であることを知る。あれは敵だ。どうあっても、敵でしかない。グリップを握り直す。冷や汗を止め、意識を集中させ、敵を倒すことだけを考える。


「俺の名はラルフ。お前の厭う炎使いだ。相手になってもらう。名を名乗れ、墓石が無名なのは気が引けるからな」

「キーティー」

 小首を傾げるように、慈しみすら感じる微笑で言い放った彼の言葉が冗談のように聞こえる。キーティー。Kitty(子猫)の愛称のような名前。悪魔めいた長身の男が名乗るにはあまりにも。ラルフの混乱を悟り、にゃあと鳴いたその男は妖艶に笑ってみせた。

「僕を可愛がってみる?その時は、僕の爪に気を付けて。いつのまにか首を引き裂かれちゃうよ」

 断ち切るように己の首に指を沿わせた彼が魔力を放出した。魔法使いの中でも稀な黒魔法を用いる彼の、圧倒的な魔力に総毛立つ。キーティーは手を空中に掲げて弧を描く。その指先を辿る黒い魔力が空間を歪ませ、黒刃を出現させた。

 ラルフは彼の性根が腐っていることを理解した。相対する者への敬意も何もあったものではない。黒い刃、それはラルフの短剣を摸した形だった。己の刃に撃たれて死ね、という粋な演出に反吐が出た。

 次の瞬間、無数の刃が矢のように放たれる。惜しみなく魔力を高め、炎を発する。向かい来る刃を防ぐための炎の爆発を起こした。相手の鋭利な魔法を砕くことはできなかったが、その軌道をずらすことには成功。不良な前方視界の中から飛び込んでくる刃のいくつかを剣で打ち落としながら、攻撃を耐え凌ぐ。

 攻撃が緩まった刹那を見定めて前に出る。それを読んでいた彼が煙の先、クリアになった視界の先で口角を上げた。二打目は槍の雨らしい。小型刃でやっと防げていたことを思うと回避という選択肢しかない。建物の残骸の上を転がる。全力で他方へ逃れて残っている柱や壁を破壊し、その爆発を利用しながら飛んでくる槍を避けた。


 キーティーはすでに血塗れになっている。恐らくは仲間が負わせた傷、もしくは黒魔法特有の代償魔法による自傷だろう。緩やかに傷口が癒えていくが、攻撃に魔力を振っているらしく完治には至っていない。畳み掛けるのなら今だ。速効を仕掛け、仲間たちの作ってくれた血路を開く!

 ラルフは迷うことなく前に出る。攻撃の本流を避けるがいくつかの槍の軌道はラルフを捉える。防御に振る魔力の余裕はない。怯むことなく突っ込んでいく。槍が肩や頬を掠める痛みを意識の外へ。強大な魔法を操っているキーティーの隙を突くように魔力を通わせた長剣で一閃を浴びせる。手応えがある。避けられなかったのか、避けなかったのか、ラルフにはわからない。けれど確かに、腕には反動が伝わっている。

 肩から脇腹まで、斜めに走った裂傷から鮮血が噴き出す。キーティーは痛みを慈しむように口角を上げている。確実に仕留めるために次の一閃を浴びせかけた。十字に走った傷口が彼の致命傷となる。仕留めた。そう確信する。

 縋るように彼が手を伸ばした。刹那、不気味な圧を感じたラルフは反射的にバックステップで距離を取る。キーティーは後方へと倒れていく。その体を追うように彼から噴き出した血が宙へ舞った。

 いつの間にか無くなっていた聴覚が戻り、キーティーが瓦礫の山に倒れる音と、ひくつくような自分の呼吸音が聞こえてくる。意識を全て彼との攻防に向けていたため、視界も限られてしまっていたようだ。噎せ返るような血の匂い、焼け焦げるような異臭。視界の端で、メリィが二人目の仲間の回復を終えている。

 そちらへ向かおうと踏み出す。一刻も早く、この場を後にしたかった。だが思った以上の緊張状態で精神を削られ、憔悴していたようで踏みしめた瓦礫の一つに足を取られる。ぐらりと体の軸がぶれたのと、仲間が自分の名を叫ぶのが同時だった。次の瞬間、自分がいた場所を通過した黒い魔法の刃が、空気を切り裂いて後方の建物を引き裂いた。運良く足を踏み外さねばラルフの首は落ちていただろう。


 見やった先、いつの間にか立ち上がっていたキーティーが倒れる瞬間と同じように、ラルフに向かって手を伸ばしていた。黒く塗られた爪の先が魔法を放ったのだと理解した瞬間、引き締めるように散漫になっていた警戒心を手繰り寄せる。ふ、と彼は笑った。冷たい風が彼を包み込み、衣服をはためかせる。それがおさまる時には、彼の衣服には汚れ一つ残っていなかった。先程までの負傷がまるで無かったかのように悠然と立つ彼は細めた目でラルフを見る。

「殺してくれてありがとう」

 そう、彼は一度死んだのだ。手応えが間違っていた訳ではない。死から復活する魔法などと、そのようなイレギュラー、聞いたことがない。天から与えられた魔法は万能ではない。どれほど優れた魔法使いであろうと、降霊術が出来るのが関の山だ。怪我をした者を癒すだけでも高等魔法であり、死んだ人間を生き返らせることはできないはずだ。どんな仕掛けだ、などと思考する余裕はない。キーティーは完全回復している。感じる魔力量が先程までとは桁違いだ。

 黒魔法で最も強力で高位なのは代償魔法だ。自らを傷つけ血や生命力を込めた魔法は他の魔法のどれよりも邪悪で厄介で、恐ろしい。だが、通常であれば流せる血の量に限りがあるように、リミットがあるものなのだ。しかし、死から復活する彼は……?おぞましい事実を考えることを止める。キーティーは舞台役者のように手を広げて言った。

「それじゃあ、第二幕を始めよう」

 指先がラルフへと向けられる。勝てる見込みを考えてしまった。絶望的だ。今のままでは。手段を選べないことを悟る。彼が死をも代償に襲いかかってくるのなら、こちらも死を覚悟で挑まねばならない。意を決したラルフは相手から距離を取ると、呼吸を整えた。放出された魔力が炎を形成して彼を包み込んでいく。剣を掲げ、唇を開く。

〈フラム・シ・ヴォルテ〉

 歌うように発動の呪文を唱える。炎は生き物のようにうねり、ラルフに服従するように彼の持つ剣に集合していく。

「ラルフ!それは禁じ手だ!」

 仲間の叫び声が聞こえた。分かっている。この魔法は代償が大きい。けれど、代償を鑑みてはこの男には勝てない。仲間が逃げおおせる隙を、という考えは度外視していた。彼を倒さねばならない。それがラルフの意思を支配する。

 対魔の剣が炎をまとい、煌々と燃えたぎっている。いくら魔力に強い剣とはいえ、それを壊さずに高い魔力の集合体である炎をまとわせるのには相当の集中力と技量が必要になる。心臓に近い高圧縮の魔力を大量に炎に変えて放出し、微細な調整で操らねばならない。

 常に薄笑いを浮かべていたキーティーが初めて表情を変化させた。呆けたように、炎の剣を見つめている。おそらくは現在、世界で唯一、ラルフのみが使える特異魔法。かつて世界を救った英雄が用いたという炎魔法を、彼は習得しているのだ。



 救世の英雄の物語。それは今の世界に広く知られている童話によって語り継がれている。かつて世界を滅ぼさんとした悪魔の軍勢が、地上に大量の魔物を解き放った。土地は呪詛を受け、か弱い人びとは魔物に喰い殺され、錯乱し餓えて病に倒れ、殺し合い、次々に死んでいった。そんな動乱の時代に立ち上がった青年が、試練の果てに天使から〈赤の魔法〉を与えられ、勇気と知恵によってドラゴンを服従させる。従僕となったドラゴンを宿した剣を持ち、彼は魔物を率いていた悪魔を封じ、世界に平和をもたらした。その伝説の英雄が用いたのが剣に炎をまとわせる高等特異魔法だ。

 真顔になっていたキーティーの表情が歪む。目を見開き、高揚し、笑い声をあげた。あはは、はは、あはははは!子どものように無邪気に笑う彼はおかしくてたまらない、というように顔を両手で覆う。

「素晴らしい、お前は『持てる者』だ!」

 そうしてひとりきりの哄笑を終えると、指の間から爛々と光る瞳をラルフへと向けた。片方の手を掲げてラルフへと差し出し、高らかに宣う。

「さあ、持てる者の役儀に従って、僕を打倒し、持たざる者を救ってみせてくれ!」

 次の瞬間、キーティーが差し出していた手を己の胸へと向ける。胸元を掴み、心臓を抉り出すようにして黒い刃を体から引き抜く。血が噴出した。代償魔法だ。その血が魔法と混ざり合い、黒く変色して細身のレイピアを形成していく。

 狂ったような彼の笑みは止んで、再び真顔へと戻っている。真顔になると、作り物めいた彼の容貌が一層不気味に感じられる。先んじて攻撃を仕掛けたのはキーティーだった。


 突きを旨とする猛攻を見定める。不思議なことに、先程までは魔力の放出を中心とする攻撃だったのに対し、今の攻撃は剣術に依りすぎている。何を企んでいるのか、を考えるほどの余裕はない。それほどの剣技だ。優雅に舞うように一撃一撃を繰り出してくる彼に対応するだけで尋常ではない集中力を使う。

 剣と剣がかち合い、高い金属音と共に黒魔法と赤魔法がぶつかってはじけ飛ぶ。その細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど重い打撃である。打っては弾き、弾かれては打ち込む。一つの油断が命を奪う。それがわかっていた。

 一瞬なのか、数時間なのかわからない時間の流れの中、命を削る攻防が続く。集中しきっている意識の端が綻びて、炎が乱れた瞬間、聴覚の端で自分を呼ぶ仲間の声が聞こえた。歯を食いしばる。キーティーの一閃を、柄に向かって殴るようにして軌道を変えた。無理な動きで彼の刃に腕を傷つけられて血が溢れ出るが、構うことはしない。そんな力業に彼が一瞬隙を見せる。そこへ切り込み、脇腹を深く傷つけることに成功した。


 咳き込むように酸素を体内へ送り込む。汗がポタリポタリと落ちていく。長い緊張状態で身体が限界に近い。膝をついたキーティーに刃の先を向ける。それに矜持を傷つけられたかのように睨み返してくる彼は、炎の刃を躊躇なく握り込んだ。彼の掌がまとう黒い魔法と、赤の魔法が弾けて凄まじい音を上げている。キーティーの手からだらだらと流れる血が蒸発して煙を上げていた。鮮血が滲んだような、赤みを増した目を見開き、こちらを凝視する彼の圧力に呑まれて気が触れそうになる。呪詛、憎しみ、怨念。そんなものが一つの力となってラルフを呑み込む。

「『調子に乗るなよ、小僧』」

 響いた声は、彼の声であるのに、彼の声でないような感覚がした。濁流のように溢れ出る魔力。未だこんなに強大な力が残っていたことに絶望を抱いてしまう。ミシミシという音と共に、炎の中、核となっている剣が砕かれようとしていることに気付く。彼の手から剣を引き抜いて一歩距離を置く。

 だらりと垂れ下がった腕をそのままにキーティーは立ち上がる。片手に持った剣に、尋常ではない魔力が籠もっていく。傷ついた手と腹部にも魔力が集中している。炎の剣で斬られた患部が回復しないことにラルフは気付いていた。〈回復できない〉のか〈しない〉のか。もはや「回復できない」の方に賭けるより他ない。ラルフの魔力残量は限られる。


 魔力の残り、全てを剣に込める。炎の色が透き通り、黄色味を帯びていく。その魔法が一分も持たないことは分かっていた。魔力の残量が無くなれば、反動で動くことも意識を保つことすらできなくなることも。

 焦燥と相反して、ラルフは冷静になっていく。両手で持った剣の柄を顔の横に持ってくる要領で剣を構えた。視界を絞り、意識を集中させる。敵以外の事象が意識の外へと消えていく。真っ向から。地面を蹴り付ける。前へ。一撃に全てを込めて。


 細かい剣技が及ぶ次元ではない。大振りに振り下ろす。全ての魔力をかけて。彼のレイピアがそれを受け止め、強い魔法の集合体が打ち合った。接着面から凄まじい力が発する。特異点。その言葉が浮かんだ瞬間、ラルフの意識は遠のく。二つの魔力が交わり、別の魔力へと変容していた。異常な力の大波に呑まれながら、暗闇へと落ちていく。メリィ、ウォール、リック、セシリオ……。仲間の名を次々に浮かべながら、ラルフは完全に意識を手放した。


 茫洋とした暗闇の中で目覚めたラルフは身を起こす。薄い水の中に浸っている感覚だった。黒々とした、インクのごとき闇が湖のように広がっているのだ。前後も左右も分からない中、伸ばした手が何かに触れる。まるで、人の体内のようにそれが脈打つ。ぐにゃりと空間が歪んで、その隙間に呑み込まれて落ちていく。底へ底へ。落下の最中、音がラルフを追ってくる。それは幼い声だった。ザアザアという砂音にほとんどを掻き消されている。

「お母様……だよ……を、……様だ……国…………、………………」

 次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が空間を引き裂いた。人びとの狂乱。助けを求める声と泣き叫ぶ声。何かが破壊される音と、誰かの笑い声。その笑い声は次第にキーティーのものと重なっていく。あは、あはははははは!悲鳴、発狂、絶叫、誰か助けて!そんな声に手を伸ばす。気が狂う寸前。ふっと広がった静寂の中、猫の鳴き声が聞こえた気がした。


 一瞬にして意識が浮上する。痛みが全身を硬直させていた。広がった視界の先、青空を背景にキーティーの顔がある。ぽたり、ぽたりと彼の流す血が自分や周りの地面を濡らしていた。顔のすぐ横に、彼のレイピアが突き刺さっているのが分かった。

 アメジストの瞳が冷淡にラルフを見下ろしている。レイピアにかけていた体重を戻し、ふらりと上半身を起こしたキーティーは踵を返した。彼の立てる足音だけが、静寂の空間を支配している。残っている僅かな力を振り絞り、身を起こす。「待て!」そんな言葉に振り向いたキーティーは演技めかしく口角を上げて見せた。

「ノブレス・オブリージュ。……お前は、持てる者の役目に呪われる。殺すより、その苦しみを眺める方がずっと、楽しい」

 レイピアの形を解き、衣服を整えた彼は疲労の一切を感じさせず優美に踵を返す。まるで、何事もなかったかのようにその場を去っていくのだ。見逃された。そんな屈辱的な現実と共に、駆け寄ってくる仲間が無事である事実を知る。メリィに抱きしめられ、安堵と共に再び意識が遠のく。揺れる意識の水面で、呪いじみた言葉が頭の中を巡っていた。

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