【それぞれの一日】 セリオン編
この日も、朝からの雨。ここ数日は、ずっとこんな天気だ。
それは直接、音を立てる程でない細い雨。雨どいを伝って、落ちる水の音だけが定期的にする。
茶色の長い髪を後ろで無造作に束ねた、灰色の瞳の騎士が、一階の廊下の窓から濡れる庭を眺めていた。
彼の髪は、短い時はまっすぐだが、伸びて来ると毛先にウェーブが出て来る。今はだいぶ伸ばしているので、肩より下になった部分は緩やかに波打っていた。
セリオンは基本的に休暇を取らないので、いつも騎士団の詰め所で姿を見る事が出来る。仲間たちと、一緒にいるのが好きだからだ。だが、何事もなければ暇である。
「随分と、雨が続くな」
彼は雨が嫌いだった。特にこういう細い雨の日は、過去を思い出させる。
あの時の、彼女の濡れた頬は、雨のせいなのか、涙だったのか。
過去の思い出に意識が行きかけた時、庭に見知った男の姿が見えた。窓を開けて声をかけてみる。
「コーヘイ、何してるんだ?」
「猫を探してます」
黒髪の騎士は、やたらと目立つ護衛騎士団の上着だけ脱いだラフな姿で、雨に濡れている。
「おいおい、風邪ひくぞ」
「まぁ、大丈夫でしょう」
「そういう事を言うやつに限って、寝込むんだなこれが」
「実体験ですか?」
雨に濡れながらも、黒髪の騎士は爽やかな明るい笑顔を見せる。
「俺の、じゃないがな」
脳裏に再び、過去の映像が過る。彼女は、頭を冷やしたいと言った。
窓枠を乗り越えて、セリオンも外に出る。
「また、そんなところから出て」
「俺にとって窓は出口であり、入口だ。で、探してるのはどんな猫だ」
「ロレッタさんところのパキラちゃんですよ」
「またか。ほっといても帰って来るんじゃないのか?」
ロレッタの猫は、黒ベースで手と足と口元だけが白い。元々は野良猫だっただけあって、脱走癖がある。
「もう二週間ほど帰ってきてないみたいですよ。さっきまでミシャが探していたんですけど、ずっとこの雨ですからね。雨が邪魔で古代魔法でも感知がうまくいかないみたいで。疲れていたので、自分が交代を申し出ました」
「お前、いい男だな」
「でしょう?セリオンさんも手伝ってくれるんですよね。いい男だなあ」
「そうだろう?」
二人で、猫の入り込みそうな隙間を覗いて歩く。
「コーヘイは、守ってあげたい子はいないのか」
茂みを覗き込みながら、突然セリオンが思い出したように問う。
「今は団長閣下ですね」
「確かにあの人は守ってやらないといかん人だな。じゃあ、寄り添って支えてあげたいような子は?」
「それも団長閣下ですね。あの人脆いんですよ、色々」
「一生、閣下と添い遂げるつもりか」
「自分はもう、そのつもりですよ。死が二人を
「おいおい、まさかそっちの気があるのか?」
「まさか。でも守らないといけない、支えが必要な対象って、女性とは限らないでしょう。むしろ女性の方が強いんじゃないのか?って思う事もありますし、守るべき対象としてだけで見るのは、女性の強さを舐めてるみたいで、あまり気分のいい考え方ではないと思ってます」
「そうか、そうかもだな」
セリオンは考えに沈んだようで、無口になる。
「いきなりどうしたんですか」
「雨の日はセンチメンタルになるものさ」
「だいたい、守ってあげたいだなんて男の驕りだって事を、フレイアさんの時に痛感しました。そりゃ、力比べになれば、男の方が強いでしょうが。せいぜい硬い瓶の蓋を開けてやる、程度じゃないですか、誇らしくやってあげられるのは」
「耳が痛い」
「ほんと、どうしちゃったんですか。まさか、セリオンさん、女性が実は苦手とか」
「……半分、正解」
黙々と猫を探しながら、黒髪の騎士の方は見ないようにしている。
「苦手、というのはちょっと違うかもだが、わからなくなる事は多い」
「手痛い失恋経験でもあるんですか」
「何でそんな、ズバズバ核心をついてくるんだおまえは」
セリオンが大きな茂みをかき分けると、そこに目的の猫がいた。猫が鳴く。
コーヘイも覗き込む。
「わっ、子猫がいる、五匹かな」
「これは貰い手を探すのが大変そうだな」
セリオンは、ぱっと上着を脱ぐと、子猫をポイポイとその中に包み込んだ。コーヘイがパキラを抱きかかえる。
二人で、ロレッタの部屋の扉をノックすると、美女が申し訳なさそうに出て来た。
「ごめんなさいね、騎士団のお偉方にまで探してもらうなんて」
「猫、増えてましたが」
子猫を見せると、ロレッタは随分驚いた表情はしたが、嬉しそうでもあった。
猫を渡し終えて、二人は廊下を歩く。
「セリオンさんの部屋で、タオルを借りていいですか」
「ああ」
「さっきの話の続きも、聞いてあげますよ」
「そうだな、誰かに聞いてもらうのもいいかもしれない」
コーヘイは頭からタオルをかぶり、温かい茶の入ったカップを受け取る。
セリオンは窓から、未だやむ気配のない雨を眺める。
地方の貧乏貴族の三男として生まれたセリオンと、同じく地方の貧乏貴族の長女として生まれた彼女。家同士の付き合いが厚く、年も同じで小さい頃から一緒だった。
なんとなく家柄的にも、漠然と将来はこの子と結婚って事になるのだろうと、普通に考えていた。両親も時折、そのような話をしていたし。
だからずっと、未来の伴侶として意識していた。そうなるなら当然に、幸せにしてやらければという義務感も生まれる。彼女が気持ちよく過ごせるように、いつも心がけていた。
相手も、セリオンに対して好意的であったし、彼女もそのつもりでいたのだろう。折に触れて、将来の事を語り合ったりもした。
十七歳の時に、セリオンは騎士団への入団が決まった。家を離れて王都に出る事になるから、そうなると気になるのは彼女の事だ。結婚するにはまだ早い年齢だし。でも婚約ぐらいはあってもいいのかもしれない、そういう雰囲気だった。
その日は雨だった。雨粒が落ちる音がしないぐらいの細い雨。
「ごめんなさいセリオン」
「何が?」
「私、好きな人がいるの、だから王都にはついていけない」
「そうなのか?いつから」
「もう三年になるかな」
「全く、気づかなかった……」
「セリオンが優しいから、ずっと甘えちゃった、ごめんね」
「もっと早く言ってくれたら良かったけど、気持ちの問題は仕方ないよな」
「怒らないの?」
「……甘える対象になれた事は、光栄だったと思う。君が悪いわけでもないのに怒るなんて、できるわけがない」
「本当に、あなたっていい男ね。私には勿体ないわ」
彼女は雨が降っているのにもかかわらず、外に出た。
「おい、風邪ひくぞ」
振り向いた彼女の、その頬が濡れているのが雨のせいなのか、涙のせいなのか、セリオンには判断がつかなかった。
「私、ちょっと頭を冷やさなきゃいけないの。大丈夫、バカは風邪ひかないって言うでしょ?私、バカだからきっと平気」
そのまま彼女は濡れながら、行ってしまった。
呼び止めたかった。
なんとなく、呼び止めるべきなのでは?と思ったのに。
他の男の所に行くと思うと、それ以上は声は出なかった。
嫉妬だったのかもしれないし、引き留めて、立ち止まってくれなかった時の事を思うと、勇気が出なかったのかもしれない。あるいはその両方か。
王都に出発する日も、彼女は見送りにさえ来てくれなくて。
「まぁ案の定、風邪をひいて、こじらせて寝込んでたらしいが」
「ああ、さっきの話って、その彼女の事でしたか」
「彼女に好きな男がいたというのは嘘で、三十も年上の金持ちの家に嫁がされたと聞いたのは随分後だ」
「えっ」
「俺の騎士団入りも、二人を引き離すために画策されたと知ったのもその時だ」
コーヘイは返事に窮した。
「あの時、呼び止めておけばって、今でも思う」
「でもその様子だと、彼女が自分で選んだって感じもしますね」
「いったい何を」
「貧しい家のために金持ちに嫁ぐか、自分の気持ちのためにセリオンさんを選ぶかの二択のうち、家を選んだという事では」
「頭を冷やしたいって、どういう意味だったんだろう」
「セリオンさんがいい男だって再認識してしまって、決意が揺らぎそうになっちゃったんでしょうね」
「こんな男が、いい男だろうか」
セリオンは苦笑した。
「いい男だと思いますよ?」
「彼女は幸せになっているだろうか」
「ディルクさん辺りに調べてもらえば、一発でわかるでしょうね」
「流石に、私用が過ぎるだろう」
外を見るのをやめて、黒髪の騎士に向き直って笑う。
「過去が追いかけて来る時は、向き合わないと乗り越えられませんよ。雨のたびに追いかけられているようじゃ、大変でしょう」
こちらも笑って見せる。
「彼女が、不幸になっていたら、辛いな」
「人の幸、不幸は他人は計れません。好きな人を振り切って選んだ未来を、その彼女が自分で不幸にしていくとは思えないです」
「賢者だな、おまえは」
「自分はこの世界で生きると決めた時に、元の世界に恥じない生き方をしようと決意しましたから。彼女もきっとそうですよ。自分が選んだ未来の姿を、
コーヘイは、元の世界の家族と自分の意思と関係なく別れている。そして、お互い、今どうしているのか調べようがない。それでも、例え未来永劫伝えられないとしても、この世界で精いっぱい生きたと、彼等に誇れるように死ぬつもりだった。それが自分の選んだ未来の姿だから。
「そうだな、そうかもしれない」
セリオンの過去の告白から数日経ったこの日も、また雨が降る。
「もうあの猫、首輪をして繋いでおいた方がいいんじゃないか」
「猫にそれは可哀相でしょう」
雨の中、暇な騎士二人が、猫を探す。
廊下の窓の一つが開いて、文官の制服を着た緑の瞳の騎士が、セリオンに声をかけて来た。窓枠に肘をつき、顎を支える。その片方の手には封筒があり、指でつまんでひらひらさせている。
ディルクは無言でその手紙を、窓辺に歩み寄ったセリオンに渡した。
「手間をかけたな」
緑の瞳を軽い笑顔で細めただけで、彼は特に何も言わずに立ち去った。
その後ろ姿を見送って、封筒を開ける。
「どうしました、セリオンさん」
離れた所で茂みをかき分けていた、コーヘイが声をかける。
「もう過去は追いかけてこなさそうだ。彼女は随分と幸せそうだ」
その手紙には、年の離れた夫は、それはもう大切に彼女を扱って、実家の経済状況も安定し、弟妹も進学が無事出来たと綴られていた。そして最後に、セリオンへの感謝の言葉。
彼女の得た幸せが、自分では与えられなかった
手紙を読む騎士の頬は濡れて、それが雨のせいなのか涙のせいなのか。その両方かもしれないと、コーヘイは思った。
灰色の瞳を軽く伏せて、次にその瞼を上げた時は、なんともスッキリした表情をして、手紙はそっとポケットへ。
そして再び猫を探す。
雨はどんどん小降りになって、差し込んだ日差しが虹を作っていた。
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