第20話

 夜空が美しい、澄み切った冬の夜。

 星がちらちらと煌めいて、上下感覚を失いそうなほどに美しい。


 吐く息が白いこの日。城壁に体を寄せるディルクは騎士としての正式な装備で、防寒のためのマントを羽織っていた。彼がこのような服装でいるのは珍しい。


 ついに、次の仕事が決まってしまった。

 旧ゴートワナ帝国領に三年ほど赴く。


 大きな帝国が滅び、今は国としての体裁を保っておらず、小さな権力集団が乱立している状況で、外観した程度では内情がわかりにくい。潜入調査が必要であった。


 だいぶ自分の顔が敵国に知られて来ている自覚もあったので、これを諜報部員としての最後の仕事にしようと思っていた。

 

 三年は長い。


 彼は、自分の心の中に、夏の花の――太陽の化身の光を受けて、芽吹いているものがある事に、気づいてしまっていた。

 年も随分離れているし、帰って来た時には間違いなく、彼女は他の誰かの隣にいるだろうという気もして、この芽を育ててはいけない事にも気づいていた。


 ましてや、長く勤めながら自分は未だに官位がない。更に言うなら生まれも定かでない孤児みなしごだ。王子と、もしかして婚約があるかも?などと噂のある少女に、何が出来るというのだろう。


 ただ、明日の出発の前に、友人として挨拶はしておきたかった。

 可愛い魔導士に、帰る前にここに立ち寄ってくれるよう、頼んでいた。


 パタパタという足音がして、階段からひょこっと、夏の花の持ち主がやってきた。


「ディルクさん、お待たせしましたです?」

「いえ、僕も来たばかりですよ」


 デートのテンプレートのようなセリフを交わし合ってしまい、お互いくすぐったそうに笑う。

 少女はすぐそばまで、駆け寄ってきた。正式な騎士姿のディルクを、彼女は格好良くて、素敵だと感じた。自分がそうなりたい……のとはちょっと違う気持ち。


「寒いところにすみません、今日はお別れを言いたくて」

「お別れ?」

「しばらく国を離れる事になりました。三年ほど会えません」

「ディルクさんのお仕事って何なんです?」

「……他の国を、スパイする事です。諜報と工作がお仕事です」


 ミシャに、あまり詳しくは話したくなかったが。


 やっているのは、人を騙し、欺き、そして秘密を奪う事である。綺麗な仕事とは言えなかった。騎士団員ではあるものの、通常の騎士のように何かを守っている訳ではない。国としては必要な人材ではあるが。


「僕は、嘘つきなんですよ」


 自嘲気味にどうしても言ってしまう。仕事に誇りはあるが、所詮は汚れ仕事。コーヘイやセリオンのように、正々堂々と戦えるというのは羨ましくもある。


「危ない事をします?」

「それは、多少は」


 心配そうな眼差しを受けて、彼の中の芽が少し育つ。


 彼女の記憶の中に、自分をどうしても残したくなってしまった。


 ディルクは少女の両脇に手を入れると、軽々と持ち上げて、城壁の手すりの縁に座らせた。彼女が彼を見下ろすような形になる。


「僕の秘密を教えますね」


 ミシャの顔に、自らの顔を寄せる。両手は、ミシャの両脇に差し入れられたままである。


「僕の、前髪を避けてみてください」


 少女は、言われた通り、右手を伸ばして、彼の長い左側の亜麻色の髪をそっと避けた。

 そこには、基本は緑だが青に寄った瞳があった。右目は完全なエメラルドのような緑なのに、である。


「あれ?」

「どうです、不思議でしょ?近くで見ないとわからない違いですけどね」


 彼の左目は近くで見ると青系の緑色で、それに亜麻色の髪が被ると、色が混ざる目の錯覚で、右目と全く同じ緑に見えるのだ。

 ミシャの心に、その森の泉のような瞳の中へ飛び込みたい、不思議な衝動が沸いた。師匠の紫の瞳も綺麗だが、この人の瞳も吸い込まれそうに綺麗だった。

 彼は自分を嘘つきだと言うけれど、まっすぐで純粋で、誠実に見える。

 この眼差しを受け、町を共に歩いた、あの楽しい一日を思い出すと、何故だか心が温かくなる。見つめ合っていると胸がドキドキしてはじめて。


「ミシャは友達だから、この事を知って欲しくて。僕は言われているほど、実は呪術耐性は高くないんです」


 ディルクは少女を城壁から下し、手を離す。


「帰ってくるんですよね」

「それはもちろん。手紙も書きますよ、大切なお友達に」


 ミシャは胸の苦しさを感じ始めていた。何だろう、この気持ちは。

 締め付けられる。

 寂しさと、その奥のぬくもり。複雑な感情。今まで感じた事のない寂しさ。

 彼が明日、ここからいなくなるという事を考えると、心臓がきゅっとするのだ。



 自分の心を分析していて、ふと、何か、この城壁で、違和感を感じた。

 ミシャは封じているとはいえ、知覚上昇の古代魔法を身に宿している。違和感には敏感だった。

 急に、ミシャの意識が自分以外に向けられた事に、ディルクが気づいた。彼は魔法の力を借りなくても、わかってしまうのだ。

 彼も周辺に意識を向ける。

 誰か、息をひそめている気がする。


 剣に手をかけ、少女を城壁側にかばうように下がった。


「誰だ!?」

「……」


 見つかったなら仕方ない、と言わんばかりに、ゆらりと黒い影が立ち上がる。

 影は無言で、その手にした小瓶を投げた。

 割れた瓶から、黒い陽炎が現れ、一瞬で大きな魔獣の姿に変わる。

 赤い瞳の大きな猫科の獣。巨大なトラのようだった。


「呪術師か!」


 最近、帝国領にいた呪術師がにわかに活気づいていると、報告を受けていた。それもあって偵察に行く事になったのだが、どうも先手を打たれたらしい。

 そしてこれはおそらく、自分の抹殺が目的ではないかと思えた。彼等にとって、周辺をウロチョロするディルクは相当に目障りな存在だった。

 

 彼は、ミシャを逃がさなければと真っ先に思った。もしそうなら、彼女を巻き込むわけにはいかない。


 剣技的にも体力的にも戦闘能力の低いディルクは、不意打ちでなければ、なかなか戦闘を有利に運べない。しかも今日は、いつもの軽装ではない。彼の武器は身軽さだった。先制された今、ここは逃げる以外の選択肢がないのだ。

 

 しかし、ミシャがふらふらと、呪術師に向かって歩いて行ってしまった。


「しまった」


 彼女は今まで呪術師と対峙したことがない。対処法を全く知らず、呪術師の目を直接見てしまい、操られてしまったようだった。


「ミシャ!ダメ、戻って」

 

 手を引いて、引き留めるが、そこに魔獣が襲い掛かってきてしまった。


 ディルクは剣を振るって、その攻撃を牽制し、ミシャを後ろに引いて庇う。

 いったん少女から手を離し、左手で小さなナイフを呪術師相手に投げつけた。


 左手でもコントロールは正確で、呪術師の右腕に刺さる。


「ぐあっ!」


 呪術師は集中を切らし、ミシャは我に返った。


「あ、あれ!?」

「ミシャ、呪術師の目は直接見ないで」

「は、はい」


 ミシャは即、下位の退魔の魔法陣を敷いた。


「くっ、魔導士だったのか、くそ!」


 魔獣は、少し怯んだが、下位程度の魔法陣は、簡単に弾き飛ばされてしまった。

 呪術師ははミシャを煩わしそうに見つつ、魔法が届かない距離に逃げてしまい、とにかく今は魔獣をどうにかしなければならない状況になってしまった。


 この魔獣が、今まで見た事のないほどの素早さだ。右にいたと思ったら左から攻撃が来る。その攻撃を、ディルクはミシャをかばいながら、なんとか弾いていた。


「ミシャ、逃げて、僕では、これを、倒すのは、無理なので」

「でもそんな」

「お願いします、応援を、呼びに」


 魔獣の攻撃を、剣で防ぎながらなので、言葉が途切れ途切れになってしまう。


 ミシャは躊躇した。魔法でどうにかできないだろうかと。だが高位魔法を使って、一発で仕留められなかった場合、自分は完全に足手まといの状態になる。

 階段は、遠い。

 だが、とにかく、今は助けは呼ばなければ。ディルクは、早々に疲れを見せている。長時間耐えられるとは思えない。


 ミシャは後ろ髪を引かれる思いで、走り出したが。


 魔獣は魔力に惹かれる。

 敵は目の前のディルクより、魔導士であるミシャの方に向かってしまったのだ。


「くそ」


 ディルクは反転して追う。

 姿勢を崩した一閃の、剣による攻撃は弾かれる。

 続けざまの一閃は空振りだ。

 ミシャに向かって、その鍵爪が。

 ディルクは、その身軽さを利用して、身を挺してミシャをその攻撃から救うしかなかった。

 彼の左肩から胸にかけて、えぐれるような傷。血しぶき。苦悶の表情。

 傷跡に瘴気の陽炎。傷が燃えているようだ。


「ぐっ…」

「きゃぁっ!!」

「逃げて早く」

「だめ!やだ!」


 ミシャは反射的に、もう一度退魔の魔法陣を敷き、止血のために治癒術を使う。

 素早く、適格な対応だった。

 更に魔獣に向かって、下位魔法ではあるが連続して攻撃魔法を放つ、魔獣は怯んでかなりの距離を下がった。次の攻撃も躊躇しはじめたようだ。


 ミシャは全力で、ディルクの右腕を引き、階段まで引きずろうとした。

 合間、合間に、魔法を使って魔獣を牽制する。

 下位魔法であっても、こんなに連発しては、かなり魔力を消費する。

 彼女の顔色は、血を見たせいなのか、魔力が切れかけているのか、真っ白だ。


「だめですってば、僕の事は、置いて逃げて」


 しかし、言う事を聞くミシャではない。


「くぅっ」


 ディルクは、痛みに耐えて、力を振り絞って立ち上がると、ふらつきながらもミシャの右手を引いて走った。

 階段の手前で、思いっきり彼女を抱きしめた。腕に、このぬくもりを抱えておきたかった。


 彼の中に育っていた芽はもう、育ちきって、ついていた蕾は、抱きしめたぬくもりをきっかけに、あっという間に開いていった。

 腕に残るぬくもりだけでは、寂しがり屋の彼には、足りなくなってしまった。


「……僕に勇気の糧をください」


 彼はそっと、少女の唇に自分のそれを重ねた。

 ミシャの初めてのキスは、血の味だった。


 それは、ほんの一瞬の出来事。


 唇が離れた時、緑の瞳と森の泉色の瞳が優しく、悲し気に揺れた。

 ミシャの目前の景色が、ゆっくりと動いていく。


 ディルクは少女を階段に落とすように投げ入れて、木の板で作られた蓋をした。


 そして剣を構え、これ以上魔獣が彼女を追えないようにする。


「今日だけは、君の守護騎士にさせてくださいね。でも、僕が嘘をつく仕事なのも、絶対に忘れないでください、それを含めての僕ですから」


 木の蓋を叩き続けるミシャに、そう告げた。


 例え汚れ仕事でも、今まで誇りをもってやってきた。

 そしてこの剣を、今日は”守る”ために振るう事ができる感動。


――ああ、悪くない。



 ミシャの悲鳴を聞いて、騎士達が次々と集まり、彼女は階段から引き剥がされた。

 多くの騎士団員が集まり、一時間をかけて魔獣と呪術師の討伐は完了した。



 騎士達が到着する時まで、魔獣の階段への侵入を防いでいたディルクの遺体は、正視に絶えないということで、ミシャは亡骸への対面を許されなかった。



 家族のいない彼は、数人の同僚騎士に見守られ、ひっそりと葬られたという。

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