第2話

 ミシャはバタバタと受付に向かって廊下を走る。

 受付の前では、アルタセルタが腕を組み、彼女を待っていた。


「廊下は走る場所ではありませんわよ!」


 ぴしゃりと、きつい口調で言われ、彼女は慌てて歩みを緩める。


「あなたまた、団長に迷惑をかけたのではないでしょうね。いつも言ってるでしょう、あの方は最高位、尊敬と敬意をもって相対するように何度も……」


 目をそらしてお説教を受け流そうとしている少女を見て、アルタセルタはその紺色の瞳を閉じて溜息をつく。


 年齢不詳の美しい彼女は、長くこの魔導士団の区画内にある受付で、侵入者を見張り、色々な面会の手続きを行っているベテラン魔導士だ。攻撃魔法を無詠唱で連射する事も出来、高位魔導士の部類に入る。


 この世界で魔法を発動させるためには、意識の中で魔力を特定の形状に流さなければならない。詠唱は、その魔力の流れの道順を、意識の中で思い出すための物である。それが無詠唱で出来るというのは、完全に記憶に焼き付けていて、暗記状態であるという事である。

 魔力の流れは魔方陣を構築するが、その形状は複雑怪奇で、難しい魔法ほど複雑さを増す。一番簡単な知覚上昇の魔法はフォークのような形状であるが、普段から主婦が使う生活魔法の火種の魔法ですら、進化の系統樹のような複雑さ。

 防御の魔法陣や攻撃の魔法ともなると、とんでもない形状をしている。それをマスターしているのだ。相当な実力者と言えるだろう。

 古代魔法の域になると、暗記はほぼ不可能で、紙に書かれたスクロールを見ながら行うか、体に魔方陣そのものを刻み付けるしかない。しかも発動には対価を要する。


 ミシャが王都で暮らす事になると決まった時、異世界人登録局で働く夫と相談の上、アルタセルタが彼女の養育を申し出た。


 初めて会い、これからは自分が貴女の母親役だという事を告げた時、黒茶の瞳を恥ずかしそうに上目遣いにし、照れながら言ったあの言葉。


「おかあさん?」


 そう呼ばれた時、アルタセルタは本能的な感動を覚えたのだ。その日から、アルタセルタはミシャの母である。夫ローウィンは父だ。

 人生の中で、年齢的に諦めていた娘を得る事が出来た事が、アルタセルタはとても嬉しかった。しっかりときちんと大人になるまで、育て上げようと心に誓っていた。いつか我が家からお嫁に出したい、とも。母親として、花嫁衣裳を一緒に選ぶ日も楽しみにしている。だがしかし。


「あなたは本当に、仕方のない子ですわ」

「おかあさん、晩御飯は何?」


 ニッコリと無邪気な笑顔で、先ほどの説教は明らかに右から左の耳に抜けていたのは明らかだが、そういう所も憎めない。


「ブロッコリーのシチューですわよ」

「うげ」


 ゴツンとゲンコツを一発。


「いたっ!おかあさん痛いよぅ」

「好き嫌いは、許しませんわよ。あとその言葉使い」


 また説教が始まりそうだったので、アルタセルタの腕を元気につかむと、家に向かって歩き出した。


「帰ろう!おかあさん」

「もう、ほんとにもう」


 苦笑して、娘に引っ張られるように帰宅した。

 こんな様子で、彼氏はできるのだろうか?そういう不安が渦巻いて、花嫁衣裳選びの夢は困難を予感させた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 元気な娘が立ち去って、乱れたベッドのシーツを、いつもの癖でコーヘイは整える。もはや、整っていないと落ち着かないという域だ。


「それで、相談は何でしたか」

「とりあえず座ってくれ」

 

 かつて、セトルヴィードの分身、意識が入っていた時は彼そのものともいえた娘が使っていた椅子が、今も魔導士団長の机のそばに据え置かれている。黒髪の騎士は、その椅子を借りて座った。


「ミシャの事なのだが、彼女を騎士団に移動させて、剣術を教えてみてはどうだろうかと思っているのだ」


 突然の言葉にコーヘイは驚く。彼女は魔導士になるために、魔導士団長の弟子となっているはずなのだ。


「この三年で、異世界人に魔法を教え込んだ場合どうなるかという実験というか、研究は随分深まった」

「実力はどんどん上がっていると聞いていますよ。このまま魔導士として、団員の育成としても良いのでは?」

「勿体ない、と思ったのだ」


 彼女は日々の鍛錬量が多く、めきめきとその魔力量を増やしている。

 魔法を完全に使い切ると、魔力の量が少しだけ増える。絞り出すように使い切るのは結構辛い作業で、それが魔導士の基本の鍛錬だ。


 だがこのまま一生をかけても、何百年もの歴史を積み上げて、遺伝を繰り返し今の魔力量に到達している高位魔導士の域には、絶対に到達しない。寿命を迎えるその日までやって辛うじて、中位の前半止まりであろうか。

 このままでも魔導士としてやってはいける、しかし。


「あの子は身体能力も高く、体を動かすのも好きだ。魔導士にありがちな虚弱さや脆弱さとは無縁という所が、利する部分に感じる」

「元気が有り余ってる感じでは、ありますね」


 コーヘイは、彼女がゆっくり歩いている姿はあまり見た事がない。魔導士団の区画を元気に走り回っている。そしてアルタセルタに叱られている。


「むしろ、魔法剣士を目指す方が、良いのではないかと思えたのだ」


 これからも実験や研究のために、彼女に魔法だけを教え続ける事は出来る。だがそのように彼女の未来を縛るのは、セトルヴィードが誓ったより良い未来にはそぐわないように思えたのだ。大切な弟子の未来の選択肢を、より多く持たせたいと考えた。


「魔導士が、自分で自分の身をある程度守れる、というのは良いかもしれませんね」


 この世界では、物理には物理の防御が必要だ。魔法の攻撃や、魔力を帯びた魔獣の攻撃には魔法は有効だが、剣が殺到すれば魔導士は無力である。そのために、騎士団というものが存在し、魔導士を守る盾となっている。


 現在、名の知れた魔法剣士としては、第一王子のアリステアが有名である。彼は剣術と魔法の両方をマスターしており、ある程度は無詠唱で防御魔法が使える。今は怪我の療養のため表舞台での活躍の機会を失っているが、両方が使えるというのは戦闘において有利であった。

 だが、剣を振るいながら魔法を使うというのは、とにかく難しい。まずは剣が無意識に振るえなければならないし、魔法も無詠唱が必須だ。精神力も体力も技術もいる。それを兼ね揃えられる人間は多くない。

 第一王子のアリステアも、多少の防御系の下位魔法が使える程度だ。


「それでまず、コーヘイの意見が聞きたかったのだ」

「そうですね、体力的、身体能力、反射神経的には問題ないと見ますが……」


 言いよどむ騎士に、若干の不安そうな目線を魔導士は送る。


「なんていうか、あれ以上に男らしさが増すというのは、問題ありませんかね」


 セトルヴィードはハッとした。

 今のミシャに、女性らしさは皆無。少年と言っても通用するほどで、男の集団に混じっても遜色がない有様だ。


 かつてこの銀髪の魔導士と、黒髪の騎士が片恋した娘も、あまり相手の性別というものを意識していなかったが、ミシャは自身の性別すら意識していない。

 彼女の辞書には、性差という言葉も欠落している。


「女らしさが必要という訳ではないですが」

「エリセ局長がもう一人、という感じになってしまうのか」


 異世界人登録局には、元騎士団員である赤毛のショートカットの女性局長がいる。名だたる戦績を収めた男勝りとして知られ、自分より弱い男には興味がないし、相手が自分より強くても大人しく守られるような女性でもない。敬意は払われているが、女性としては誰も認識しておらず、女性から恋愛感情を持たれる程だ。下手な美形騎士より女性ファンは多い。

 エリセは自らその道を選び取ったが、ミシャは違う。ただ、知らないだけなのだ。


 セトルヴィードの中には親心も芽生えており、できれば普通に恋愛して、結婚して魔導士団を抜けてもらっても構わないと思っている。

 

「女心的なものは、それなりの年齢になれば勝手に芽生えるものだと思っていた」

「力比べになると、やはりどれだけ鍛えていても、女性は男性に敵わない部分がありますし、少なくともその違い程度は理解させておかないと、危ないと思いますよ」


 十五歳になって、男の子と見紛うばかりだった最初の印象と比べ、ミシャの見た目は流石に女の子らしくなってきていた。子供らしさも抜けていき、今から大人の女性に育っていこうとする、伸びやかな若木の姿。


 髪がボサボサで、服装もいつも質素なローブ姿でうろうろしているが、美少女的な素養が見て取れ、さなぎから蝶に化ける予感もする。


 コーヘイの見立てでは、ミシャも彼と同じ日本人だが、ヨーロッパ系人種とのハーフのように思われた。異民族の組み合わせは、魅力的な印象を与える顔立ちになりがちだ。文明の交差点と言われる地域では、昔から美男美女が多いように。


「騎士団に混じって、更に男に囲まれた生活をしていると、むしろ自分を男だと思うようになりそうな、気がしないでもないです。女性騎士は今、いませんからね」

「アルタセルタが、その辺りはなんとかしてくれないかなと」

「三年一緒にいて、あのまんまですからね。ローウィンさんの話によると、相当、家では厳しくされてはいるようですよ。それでも最近やっと、風呂上りに全裸でうろつく事がなくなったとか、そういうレベルだそうで」

「そんなにか」


 かつて女性の姿になったセトルヴィードでさえ、胸を隠さなければと思う程度の羞恥心はあった。


「よし、じゃあこうしましょう!籍は魔導士団のままで、魔導士であることを主軸に。剣は自分が個人的に教えます。まずは護身用の剣術で様子を見ましょう」

「そうしてもらえると助かる」


 彼女を、魔導士や剣士にしていく事はこの二人にも可能だが、彼女に女性的な心理や行動を教えるのは到底無理だ。このまま男らしく育っても、それはそれでいいとも思うし。彼女がそれを快適だと思うなら、彼女の成すがままでいいと二人は考えた。


 ただ心はともかく、体はか弱い少女である。無理をすれば怪我もするし病気もする、理性を失った男の餌食になる可能性すらあるのだ。コーヘイの元いた世界ですら、そういう犯罪はとても多かった。倫理観はこの世界の方が中世に近い分、より低い。盗賊がちょっとついでに程度の軽さで、女性を奪うという事も多々あるのだ。


「おまえですら、理性を飛ばした事があるもんな」


 意地悪な紫の瞳を受けて、黒髪の騎士は赤面する。


「忘れてくださいよ」

「あれも大切な思い出だ、忘れるつもりはない」


 からかうような口調は消え、少し声に悲しみが宿る。

 今も、銀髪の魔導士は、目の前にいる騎士を失う可能性を常に考えている。いつその日が来てもいいように、毎日覚悟を決めるのだ。


 可愛い弟子も、もしかしたら自分が生きているうちに失うかもしれない。強固に守られてはいるが、自分自身もいつ失われるかわからない。死のきっかけは、いつもある。


 生きているうちに、この世界をより良い方向に向かう道筋をつけておきたかった。


 魔法、異世界人の技術のバランスを取って、誰もがそれを利用しつつ、縛られる事のない世界。前団長ガイナフォリックスの遺言にも似た思いを、彼もしっかり引き継いでいた。


 今育てている弟子には、その願いを叶えてくれる素養があるように彼は感じていた。彼女の未来をより広くする、これが直近の課題だ。

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