第1話


 中学の三年生を迎えた私、鹿島かしま久留里くるりは悩んでいるのでした。世の学生の例に違わず、私の悩みというのは受験に関すること。


『志望校が決まらない』


 受験生が今更何を言っているのか、そんなものはとっとと決めて目標に決めて頑張っているべきだろう、という怒りの声が耳に痛いほど聞こえてきます。しかし、優柔不断が服を着て歩いているような私はどうしても決められない。みんなはどのようにして志望校を決めているのだろう。


 家から通いやすい? 友達が受験するから? 制服がかわいい? 大学受験のため?

 どれもなんだかピンとこない、私にとっての正解はどこにあるのだろう。


 そんな悩みを繰り返すばかりで、勉強にも中々手がつけられなくなってきていた七月。私は放課後に制服を着たまま、一駅先の、余り馴染みがない町を一人で歩いていました。ふわふわと落ち着かない気分に、私は若干の苛立ちまで感じてくる。

 さらに追い討ちをかけるように、空模様は暗く、ポツリポツリと小雨まで降り始めた。

 残念ながら雨具を携帯していなかった私は、雨宿りがてらに、丁度目の前にあった見知らぬ喫茶店へと立ち寄ることを決めました。


「いらっしゃいませー」


 扉を開く。芳醇な香り、ミルの音色、趣味の良いアンティークが広がるこじんまりとしたお店。個人店のようですが、店主のセンスが透けて見えるような、とても良い雰囲気を醸しているように感じ、私の気持ちはちょっぴり上を向きました。


「エスプレッソを一つ」


 カウンター席へ案内され、注文を済ます。私はエスプレッソを好んで飲みます。ストレートでいただいてコクと旨味を正面から受け止めるのも好き、しかし今日は砂糖をたっぷり入れたい気分もあります。届けられるまでの間に、どうやって飲むかじっくりと考えておこう。

 まったく、進路に加えて飲み方まで悩みが増えてしまいました。私は悩み多きお年頃です。


「お隣り、失礼するわ」


 ーー悩みを抱えた私の隣に座った人は、まるで御伽噺の住人のようでした。可憐で清廉で上品に、着崩すことなく生花のように整えられたセーラー服を着こなした彼女。同性であるはずなのに、私の胸は熱く早く鼓動を打ち付けられ、私は興奮を覚えておりました。


 私は無言で頷き、失礼と思いながらも横目で彼女をチラチラと観察せざるを得ないでいました。

 肩まで伸び、しっとりと濡れた薄茶色の髪。おそらくは地毛でしょう、艶やかでサラリとした髪質はまるで絹の織り物の如く。

 睫毛の長さにも目を奪われます。透き通った印象を覚える大きな瞳に繊細な睫毛、それはまるで宝石の様。メニューを見つめ注文を悩んでいる、ただそれだけのことでも絵画のように美しく気高い。


「お待たせしました」


 私が彼女に見惚れていると、注文したドリンクが届きます。結局飲み方も決めそびれてしまった。


「失礼、そちらの飲み物はなんというのかしら」


 私はドキリと身体を震わせます。なんと隣の君に、突然話しかけられてしまったのだから。


「え、エスプレッソですが……」

「喫茶店に初めて一人で入ったのだけれど、コーヒーにはあまり明るくなくて注文しあぐねていたの。それはとってもよい香りで、カップもかわいくて素敵ね。貴女と同じものを頼んでも宜しい?」


 私は緊張で頷くことしかできませんでした。改めて注文を終えた彼女は、私に微笑みを向けます。


「貴女は……中学生?」

「は、はい! 中学の三年生です!」


 どうしても緊張してしまう、恥ずかしい。


「落ち着いて、ね? 私より年下なのに、一人で喫茶店だなんて大人でかっこいいわ」

「いえ……ただコーヒーが好きなだけですので……」


 所作の一つ一つまでもが美しい方。その指先や唇の動きにまで目を奪われる。


「私は信濃川しなのがわ百合子ゆりこ、高校の二年生。よろしく」

「鹿島久留里です、よろしくお願いします」

「久留里さん、ときめくお名前。かわいらしい貴女によくお似合いで素敵ね」


 この方に、信濃川さんに名前を褒めていただいた私は顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしさを誤魔化すように、目の前の褐色の液体を一気に飲み干しました。そして深呼吸を一つ。まだ温度を保っていた液体は体内に落ち、香りが鼻腔に強く広がる。少しばかりですが心が静かさを取り戻しました。


 そして、一つ、あることを決めました。


「信濃川さん、私はこれで失礼します。少しですがお話できて楽しかったです」

「あら、お急ぎなのかしら。残念だけどしかたないわ」


 本当に悲しそうな顔をする信濃川さん。表情が豊かなところもまた美しい。

「もしも」


 彼女は続けて言いました。


「もしもまた、次に会う時があれば、百合子って呼んでくれると嬉しいな」


 私は信濃川さんに一礼し、会計を終えて店を出ました。通り雨だったのか、空は晴れ模様を取り戻していました。


「……正解が、ピンときたかも」


 この気持ちの名前はまだわからないけれど、きっとまた会える。

 そして高校でまた彼女と出会えたときには、信濃川さんではなく百合子さんと呼ばせてもらおう。

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