第4話
このまま美代子さんと異邦の彼方へと思ったが、悲しいかな、現実とはならない。彼女はまるで僕の母のように手を引いて電車へと誘う。
車内はまばらで、それもまた風情がある。これから面接だというのに、先ほどから彼女の事しか考えていない。これでは受かるものも受からないぞと思われかねないが、やはり舞台が整い過ぎていて、気分が酔ってしまうのだ。
スーツなのも、いかにも不倫的で、普段のカジュアルな服装と違って、ポルノ映画を思わせる空気感。
そんな事に思いを巡らせていると、彼女は僕の肩に寄りかかってきた。案外、彼女の方も似通った妄想に取り込まれていたのかもしれないな、と一人悦に入っていたのだった。
まさか塾校舎に連れて行くわけにはいかないので、近くの喫茶店で待ってもらっていた。
「お待たせ」
「お疲れさま、何か飲みます?」
「確かに喉が渇いたかな」
ブレンドコーヒーを注文してから、自分の恰好がスーツであった事に気づく。これではあえて密会の場として、さびれた喫茶店を利用していると思われかねない。年季の入ったこの建物と、その主人はこれまで幾人ほどの不倫を見過ごしてきたのだろう。妙なレッテルを張られてはついに閑古鳥が鳴く事になりかねないが、それでもこの雰囲気は不倫というアバンチュールの舞台装置として優れていた。
情死、すなわち心中がわが国で少なからず美的なものとして認識されているのは、そういった見聞きした者を酔わせる独特なムードが渦巻いているからだろう。
愛と死は表裏一体、いや、一心同体と言ってもいい。
肥前国佐賀鍋島藩士・
哲学者の祖として知られるソクラテスも「哲学は死への練習」といって、己の信念に殉じた。
軽い話が「死ぬほど好き」という言葉なのだが、実際に死んでみせるにはかなりの精神状況に達している必要があり、ゆえに、どこか理想的ではありつつも、遠ざけられているもの、それが情死なのだ。
僕は今、「死んで詫びろ!」と
名探偵は、この世に完全犯罪などあり得ないと豪語する。では、僕らの関係が白日の元に晒された時、僕は愛に殉じることが出来るのだろうか。
「もしかして、あんまり良くなかった……?」
「え、いや、たぶん受かると思うけどね」
「そうなの?何だか暗い顔だったから」
確かに情死だなんだと思いめぐらしている人間が、相手に心配させるほどに苦悩的表情を浮かべていてもおかしくないどころか、僕の心理状態がおかしいとさえ言える。
「受かるといいね」
「そうだね」
働くことにそれほど乗り気でなかった僕も、彼女の励ましを受ければ、それほど悪いものではないように思えた。
なるほど、社畜と
週に一回という縛りが彼女の一歩によって解かれ、そして面接が終わって緊張感もほぐれたのか、僕はいささか大胆にも、初めて僕の自宅へ彼女を誘った。自宅と言っても、仕送りで何とかやりくりできる安アパートに過ぎないが、初々しくも僕は彼女に自分の部屋を見せるという行為に感情を高ぶらせていた。
「じゃあ……せっかくだからお邪魔しちゃおうかな」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」
まるで同世代かのように、可憐な少女みたく頬を染めて話す美代子さんを連れて、本と主にアニメ関連のコレクションが少々という、およそ女性を連れ込むべきではないであろう部屋へあげる。
「やっぱり小説を書いてるだけあって、本が多いね~」
既に彼女には、趣味の範囲を抜けないにせよ、僕が真剣に小説を書いているという事を打ち明けている。だから時折、彼女と致してから、彼女の見守る中で執筆するという事もまた当然のようにあった訳である。
「あ、私この子知ってるよ、え~っと、あれれ?」
「レイだよ」
「そう、それ!カオルくんは『れいちゃん』が好きなの?」
「……まぁ、好きです」
「ふ~ん、私と全然タイプが違う気がするけど?」
「それとこれとは話が別です」
「そうなのかな?」
「そうだよ」
「ホントに?」
「やけに今日は甘えるね」
「スーツ姿が想像以上にカッコよかったからかな?」
「じゃあ、このまましてみる?」
面接に受かった際は、出勤前にクリーニングにしっかり出しておく必要があるな。
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