第5話

 それからまた数日が経ち、無事塾講師のアルバイトに合格した僕は、いよいよ生徒を持つこととなった。

 個別指導の担当なので、相手は高校生一人。最初から癖の強い子だと厄介だなと思っていたが、幸い、清楚な雰囲気のある高校二年生の女子だった。

沙紀さきさん、ここまでは大丈夫かな?」

「この問題って、これでいいですか?」

「合ってるよ、流石だね」


「じゃあ、すっかり先生なんだね」

「まあ、そうだといいけどね」

「私も教えてもらおっかな」

「勘弁してよ」

「どうして?」

「美代子さんと会うときくらいは、全てに解放されてたいんだ」

 これは僕の本心だ。不貞という、世間的に外聞のよろしくない行為だからこそ、どんな見栄や慣習にも囚われない境地へといざなわれる。

 どうせ非難されるのだから、今日のように、貴族の倒錯した性的趣味を演出しても構わない。今僕らは、彼女の家ではなく、僕の自宅へと行っていた。


「お邪魔しま、え、彼岸花ヒガンバナ?」

「ネリネだよ」

 僕のそう広くない部屋には、ピンク色の彼岸花によく似たモノがそこかしこに花開かせ、我ながら奇妙な世界が出来上がったと思っている。

 ここに精神科医でもいたなら、とんでもない学術名でもって、僕の心を枠組みされるのだろう。

 しかし、一切の俗物は存在せず、男と女のいる花園、それも綺麗ではあるものの、どこか不気味という、有史以前にあった混沌と清浄の相克した世界が異空間として広がっているのだった。


「ギリシア神話に登場する美しい水の妖精・ネーレーイスの名にちなんでるらしいよ。花に日が当たると宝石みたいにキラキラと輝くから、『ダイヤモンドリリー』とも呼ばれてるんだってさ」

「そうなんだ、何だか不思議な気分」

「そうでしょ? ちなみに花言葉の『また会う日を楽しみに』は、水底に住むネーレーイスの不自由な生活に由来するとか書いてあったな」

「また会う日を楽しみに」

「今、ここは僕の部屋じゃない、おとぎ話、いや、神話の世界なんだ。この瞬間は永遠になるんだ」

「カオルくんってやっぱり少し変わってるね」

「気味悪い?」

「そんなことないよ」


 僕らは花々の咲き誇る清浄と混濁の地で、根源的欲望の快楽を味わった。

 程よい肉付きと色白な彼女の身体に時折、一輪を添えたり、花びらをのせたりもした。僕らの背徳は今日、退廃美術デカダンスにまで高められ、性の営みは、ヒトの持つ曇りなき純心として再発見された。

 小さな間接照明に照らされ、インターネットの記事通りに輝くネリネ。それに勝るとも劣らない、煌々たる妖気を醸し出す美代子さん。

 全人類のみならず、生きとし生けるものを代表して、僕らはこれ以上もなく忠実に快楽に耽った。


 一向に人気の出ないWeb小説と責任ある塾講師の仕事、そして本分であるべき学業。これらの俗世間的要素に辟易した反動なのかもしれない。仕送りと給料とを合わせて、こんな使い方をする若者の将来はどうなるのだろうか。

 平安かフランス宮廷の貴族であったなら、称賛されたかもしれないが、現代社会では、尚更に疎まれ、ついには突き放されることだろう。


 ただ、そんなことはもう関係ないのだ、この楽園においては。

 ここには広義の意味での愛だけがあり、結婚などの現世的愛は通用しない。衣服をまとわぬ男女が、使徒のようにたわむれ、その束縛そくばくを解く。

 彼女は美代子さんであって美代子さんにあらず。ネリネの一輪ごとに名前が無いように、ここでは等しく「美しき女性」として扱われる。

 これは野蛮とは程遠い。むしろ、文明を通して高められた理性によって生み出された人工的楽園なのだから。

 時折、舞い散る花粉が聖霊であり、それに覆われたここは、神聖にして絶対不可侵なる領域なのである。ここではもはや背徳も羞恥もない。

 高次であるがゆえに、裸体となるのであって、原点回帰ですらない。


「似合う、かな?」

「この花を選んで正解だったよ」

 髪飾りとして彼女は一輪の花を挿し、彼女は華としてこの世界に君臨した。僕は人間の男であるが、彼女は楽園にある花を身に付けたがために巫女へと昇格し、天界への橋渡しとなった。まさに彼女の肉体によって、精神が悦楽した瞬間であった。


「ふふ、恥ずかしいね」

「いつもとは違う意味で興奮しなかった?」

「もう、そんな事聞かないの」

 精神的高揚感に包み込まれながら、僕らの両眼りょうまなこにはくっきりと、別世界が日常へと移りつつある様子を映し捉えていた。



 彼女が交通事故にあったのはその日の帰りだった。

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